婚約破棄されましたが、私はもう必要ありませんので

ふわふわ

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第十二話 見え始めた溝

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第十二話 見え始めた溝

 王宮に広がる空気は、もはや以前のそれとは別物だった。

 聖女エマの祈祷が縮小され、教会が再検証に動き出したという噂は、瞬く間に貴族たちの間を巡っている。
 人々は声を潜めながらも、確かに感じ取っていた――“何かが終わり始めている”という予感を。

「最近、礼拝堂に行く者が減りましたな」

 晩餐会の片隅で、老貴族が低く囁いた。

「奇跡が見られないとなれば、そうなるでしょう」

「それだけではない。王宮そのものが、落ち着かない」

 言葉を交わす視線の先には、王太子ロイド・ヴァルシュタインの姿があった。
 かつては堂々とした振る舞いで場を支配していた彼は、今夜に限って、どこか居心地悪そうに見える。

 話しかける貴族の数は減り、代わりに距離を測るような視線が増えた。

 ――風向きが、変わりつつある。

 一方、エマはその変化を、肌で感じていた。

 廊下ですれ違う侍女たちは、以前ほど丁寧に頭を下げない。
 神官たちも、用件がある時以外は彼女に近づこうとしない。

「……どうして、みんな」

 小さく呟いても、答えは返らない。

 彼女は聖女として“選ばれた”存在のはずだった。
 それなのに、周囲は次第に距離を取り始めている。

 エマは、助けを求めるようにロイドの執務室を訪れた。

「殿下、少しお話が……」

「……今は忙しい」

 短く返された言葉に、エマは立ち尽くす。

「でも、最近、教会の方々が冷たくて……」

「それは、検証の最中だからだ」

 ロイドは書類から目を離さずに言った。

「一時的なものだ。心配するな」

 その声音に、かつての優しさはなかった。
 エマは唇を噛みしめ、黙って部屋を出る。

 ――一時的。
 ――心配するな。

 だが、何がどうなっているのか、誰も説明してくれない。

 同じ頃、王宮の別室では、重臣たちが集まっていた。

「王太子殿下の判断力について、疑問の声が出始めています」

「聖女エマの件が、引き金になったのは明らかですな」

「それだけではない。政務の停滞が、目に見えてきている」

 誰かが、意を決したように口を開く。

「……マルグリット様がいなくなってから、すべてが遅れている」

 その名が出た瞬間、室内が静まり返った。

「彼女は、調整役だった」

「いや、それ以上だ。均衡そのものだった」

 かつて軽んじられていた役割が、今になって再評価され始めている。
 だが、それはすでに“失った後”の話だった。

 一方、辺境公爵領では。

 マルグリット・フォン・ルーヴェンは、定例報告をまとめ終え、静かにペンを置いた。
 街道補修は予定より早く進み、物流量は確実に増加している。
 数字は、嘘をつかない。

「……順調ですね」

 そう口にすると、同席していた文官が安堵したように笑う。

「ええ。商人たちも喜んでおります。税収の見込みも、上方修正できそうです」

「それは良かった」

 彼女の言葉には、誇示も満足もない。
 ただ、当然の結果を確認しているだけだ。

 フェリクス・フォン・グランツは、その様子を黙って見ていた。

「王宮の噂は、耳に入っているか」

 不意に問われ、マルグリットは一瞬だけ考える。

「……多少は」

「戻る気は?」

 その問いに、彼女は即答した。

「ありません」

 迷いのない声だった。

「王宮で起きていることは、私が原因ではありません。
 ただ、支えがなくなっただけです」

 フェリクスは、静かに頷く。

「それでいい。過去に引き戻される必要はない」

 その言葉に、マルグリットは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

 夜、王宮では、ロイドが一人、執務室で書類を睨んでいた。

 判断は迫られている。
 だが、何をどう決めるべきかが、見えない。

 ――以前なら、誰かが整理してくれていた。

 その“誰か”の名を、彼はもうはっきりと認識している。

「……マルグリット」

 小さく零れた名前は、誰にも聞かれなかった。

 王宮と辺境公爵領。
 二つの場所の差は、もはや埋めがたいほどに広がっている。

 片方では、均衡が崩れ、疑念と不安が渦巻く。
 もう片方では、静かに、確実に前へ進んでいる。

 その溝が意味するものを、
 まだ多くの者は理解していない。

 だが、時間だけは容赦なく進む。

 そしてその流れは、
 決して後戻りしない方向へと、静かに向かっていた。
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