婚約破棄されましたが、私はもう必要ありませんので

ふわふわ

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第十五話 戻れない距離

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第十五話 戻れない距離

 王宮に、はっきりとした「空白」が生まれていた。

 聖女エマの称号が暫定的に停止されてからというもの、礼拝堂はほとんど使われなくなり、祈祷の時間は形式だけが残った。
 人々はもう、奇跡を期待して集まらない。
 代わりに交わされるのは、低い声の噂話と、慎重すぎる視線だった。

「……結局、誰が責任を取るのだろうな」

「誰か一人に押しつけられる話ではないが……」

「だが、王太子殿下の判断が大きかったのは事実だ」

 廊下の片隅で交わされる言葉は、決して大きくならない。
 だが、確実に、ロイド・ヴァルシュタインの立場を削っていた。

 そのロイド自身も、変化を痛感していた。

 机の上に積まれた書類は減らない。
 だが、どれもが決断を要するものばかりで、以前のように自然と整理されることはない。

「……こんなはずでは」

 小さく呟いても、答える者はいない。

 かつては、隣に誰かがいた。
 全体を見渡し、優先順位を示し、問題点を言葉にしてくれる存在が。

 ――それを、当たり前だと思っていた。

 ロイドは、ふと一通の書簡に目を留めた。
 辺境公爵領から届いた公式報告だ。

 街道整備の進捗、物流量の増加、税収見込みの改善。
 数字は明確で、無駄がない。

「……すべて、結果が出ている」

 そこに、感情的な表現は一切ない。
 だが、それがかえって、痛烈だった。

 彼は理解してしまったのだ。
 マルグリット・フォン・ルーヴェンは、もう“元の場所”に戻る必要がないということを。

 一方、当のマルグリットは、辺境公爵領で穏やかな日々を過ごしていた。

 忙しさはある。
 だが、それは消耗ではなく、充実に近い。

「この件ですが、現場の意見を反映させたいと思います」

 会議の席で、彼女がそう言うと、誰もが自然に頷いた。

「問題ありません」

「むしろ、そのほうが早い」

 異論は出ない。
 なぜなら、彼女の提案が、これまで結果を出してきたからだ。

 フェリクス・フォン・グランツは、会議を締めくくりながら、ちらりと彼女を見る。

「無理はしていないか」

「していません」

 即答だった。

「ここでは、線引きがはっきりしていますから」

「それが、普通だ」

「……ええ。今は、そう思えます」

 かつては、“普通”が分からなかった。
 どこまでが自分の責任で、どこからが他人の判断なのか。

 だが今は違う。

 夜、執務を終えたマルグリットは、部屋で静かに紅茶を飲んでいた。
 窓の外には、変わらぬ夜空が広がっている。

「……遠くなりましたね」

 王宮のことを思い出しても、胸はざわつかない。
 懐かしさはあるが、未練はない。

 同じ夜、王宮では、ロイドが一人、礼拝堂に立っていた。

 灯りの落とされた空間は、広く、寒々しい。
 かつてエマが立っていた場所を見つめても、何も起こらない。

「……なぜ、気づかなかった」

 問いかけは、虚空に消える。

 奇跡に酔い、称賛に流され、
 本当に必要なものを、見ようとしなかった。

 マルグリットが示していたのは、奇跡ではない。
 判断の積み重ねと、責任の分担。
 地味で、目立たず、だが確実に国を支える力だった。

「……戻ってきてくれ」

 小さく呟いた願いは、
 すでに届かないことを、彼自身が一番よく分かっている。

 距離は、物理的なものではない。
 選んだ道の違いが、生み出した隔たりだ。

 マルグリットは、もう“待つ側”ではない。
 誰かの決断を、補う存在でもない。

 自分で選び、自分で進む側に立っている。

 その事実が、
 ロイドと彼女の間に、戻れない距離を作っていた。

 静かな夜は、両者に同じように訪れる。
 だが、その意味は、まったく異なっていた。

 一方は、失ったものを数え。
 もう一方は、選び取った未来を確かめている。

 その差は、
 もはや埋めようのないほど、静かに、確実に広がっていた。
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