侯爵令嬢の四十日間 ――均衡が国を変えるまで

ふわふわ

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第一話 舞踏会の終わりに失われたもの

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第一話 舞踏会の終わりに失われたもの

王都の大広間は、今夜も眩い光に満ちていた。

天井から幾重にも下がる水晶のシャンデリア。磨き抜かれた大理石の床には、踊る貴族たちの影が揺れている。弦楽器の調べが優雅に流れ、香水と花の香りが空気を甘く染めていた。

その中心で、私は静かに立っていた。

侯爵令嬢エレノア・グレイスフィールド。

今夜は、本来ならば“未来の王妃”として紹介されるはずの夜だった。

けれど――。

「エレノア・グレイスフィールド。私は貴女との婚約を、ここに破棄する」

大広間が、凍りついた。

王太子アシュレイ殿下の声は、よく通る。迷いも震えもない、まっすぐな宣告だった。

ざわり、と貴族たちの間に波が走る。

私はゆっくりと瞬きをした。

……ついに来たのね。

殿下の隣には、淡い金髪を揺らす少女が立っている。白いドレスは簡素だが清らかで、胸元の小さな十字の装飾が光を受けてきらりと輝いた。

聖女セシリア。

最近、王都で名を上げている平民出身の少女だ。病人を癒し、祈りで雨を降らせ、涙を流して民に寄り添う――誰もが“真の聖女”と讃える存在。

「私は、真実の愛を選ぶ」

殿下はセシリアの手を取り、誇らしげに宣言した。

「国の未来は、温もりと慈愛に満ちたものであるべきだ。冷たい政略や血筋ではない。私は彼女と共に歩む」

大広間に、拍手がまばらに起こる。

熱狂と戸惑いが混じった、不安定な音。

私は一歩前へ出た。裾がさらりと床を撫でる。

「……承知いたしました、殿下」

自分でも驚くほど、声は穏やかだった。

殿下の眉が、わずかに動く。

「異論はないのか?」

「ございませんわ。殿下のお心は、殿下のもの。私が縛るものではありません」

くすり、とどこかで笑いが漏れた。

きっと皆、私が取り乱すと思っていたのだろう。泣き崩れるか、抗議するか、聖女を罵るか。

けれど、そんな気は起きなかった。

胸の奥が、すうっと軽くなるのを感じていたから。

殿下は、私を“刺激がない”と評したことがある。

「君は穏やかすぎる。何を考えているのか分からない」

分からなくて結構ですわ、とその時も思った。

感情を振り回すことが、必ずしも誠実とは限らない。私はただ、与えられた役目を静かに果たしていただけ。

未来の王妃として、隣に立つために。

その必要がなくなったのなら――それはそれで、よいのだ。

「婚約破棄は正式な手続きを経て、公に処理なさいますよう」

私は淡々と続けた。

「私の家からは異議申し立てはいたしません。ただし、今後の扱いについては両家で改めて協議を」

殿下の表情が、わずかに曇る。

想定していたのは、感情の応酬だったのだろう。理詰めの言葉ではない。

「……好きにするがいい」

吐き捨てるように言い、殿下は私から視線を外した。

その瞬間。

パリン、と鋭い音が響いた。

視線が集まる。

王太子の背後、装飾柱の上に飾られていた金縁の大鏡に、ひびが入っていた。

誰かがぶつかったわけでもない。ただ、細い亀裂が一本、斜めに走っている。

「……縁起でもない」

誰かが呟いた。

私は鏡を見つめる。

ひびは、ゆっくりと広がったように見えた。気のせいかもしれない。けれど、確かに。

ざわめきが戻る中、殿下は気に留める様子もなくセシリアを伴って奥へと去っていった。

音楽が再開する。

けれど、さきほどまでの華やかさはどこか薄れていた。

私は深く一礼し、大広間を後にする。

廊下はひんやりと静かだった。喧騒が遠くに霞む。

外に出ると、夜風が頬を撫でた。

空には雲がかかり、星が見えない。

……雨かしら。

ふと、そう思った。

馬車に乗り込む直前、城の方から小さな悲鳴が上がった。

振り返ると、衛兵たちが慌ただしく走っている。

「階段の一部が崩れたそうです!」

「けが人は?」

「軽傷ですが……急に、石が……」

私は目を細めた。

ほんの小さな事故。

誰も深刻には受け取らないだろう。

それでも。

胸の奥で、何かが静かにほどけた気がした。

まるで、長い間結ばれていた糸が、ぷつりと切れたように。

私は自分の手のひらを見る。

何もない。

特別な紋章も、光も。

ただの、令嬢の手。

「お嬢様、どうかなさいましたか」

御者が不安げに問う。

「いいえ。何でもありませんわ」

私は微笑んだ。

「ただ……今夜は少し、冷えますね」

馬車がゆっくりと動き出す。

王城の灯りが遠ざかる。

その背後で、再び小さな物音がした。

石が落ちる音。

誰も、それを“始まり”だとは思わない。

けれど私は知らない。

この夜を境に、王都から少しずつ、当たり前だったものが失われていくことを。

私自身もまた。

何を失い、何を持っているのかを――まだ、知らないのだから。
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