侯爵令嬢の四十日間 ――均衡が国を変えるまで

ふわふわ

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第二話 潮目の変わる夜

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第二話 潮目の変わる夜

侯爵邸の門が静かに開いたのは、深夜に差しかかる頃だった。

王城から戻る馬車の車輪音は、いつもよりやけに響いた気がする。夜は穏やかで、風もない。けれど、胸の奥にひとつ、言葉にできない静けさが広がっていた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

執事のロイドが、いつもと変わらぬ一礼で迎える。

「ただいま戻りました」

声は落ち着いている。少なくとも、震えてはいない。

広間には灯りがともり、父が待っていた。

グレイスフィールド侯爵。

王国の重鎮であり、けれど決して前に出すぎることのない、穏やかな人。

「……聞いた」

それだけだった。

叱責も慰めもない。

私は父の前に進み、深く頭を下げる。

「至りませんでした」

「そうか?」

顔を上げると、父は静かに首を振った。

「至らなかったのは、誰かな」

問いではなく、独り言のような響き。

私は少しだけ微笑む。

「殿下は、ご自分の心に従われただけですわ」

「そうだな」

父は椅子にもたれ、天井を仰いだ。

「……潮目が変わる」

ぽつりと、そう言った。

私は何も返さなかった。

けれど、その言葉は妙に胸に残った。

潮目。

海の流れが切り替わる瞬間。

目には見えず、音もなく、けれど確実に全てを変えるもの。

「王城で何かあったか?」

父の問いに、私は一瞬だけ考える。

「……鏡が割れました」

「鏡?」

「大広間の装飾鏡に、ひびが」

父の視線がわずかに鋭くなる。

「偶然だろう」

「ええ」

私は頷いた。

偶然。

きっとそうだ。

そのはずだ。

それ以上、深掘りはしなかった。

父はゆっくりと立ち上がる。

「明日、正式な書面が届くだろう。こちらも淡々と応じる。恨みは持つな」

「承知しております」

「ただし」

父は一歩、私に近づいた。

「自分を軽んじるな」

胸が、ほんの少しだけ温かくなる。

「……はい」

それ以上、言葉は要らなかった。

私は自室へ戻る。

ドレスを脱ぎ、髪を解く。鏡に映る自分は、いつも通りの顔をしている。

泣いてはいない。

怒ってもいない。

ただ、少しだけ、肩が軽い。

婚約者という立場は、常に“未来”を背負うものだった。

王妃としてどう振る舞うか。誰と話すか。何を選ぶか。

その重みが、今夜、消えた。

ベッドに腰を下ろした瞬間。

遠くで雷が鳴った。

驚くほど乾いた音。

窓を開けると、空は雲に覆われている。

ぽつり。

雨粒が一つ、窓枠を叩いた。

……今夜は雨の予報だったかしら。

天候に詳しいわけではない。けれど、なぜか違和感がある。

ぽつ、ぽつ、と雨が増えていく。

やがて、音は強まった。

ざあ、と一気に降り出す。

まるで、堰を切ったように。

翌朝。

王都では軽い浸水騒ぎが起きたと聞いた。

排水溝の一部が詰まり、水が引かなかったらしい。

「珍しいこともあるものだ」

使用人たちが話している。

王都は治水が完璧だと評判だったはず。

私は朝食の紅茶を口に運ぶ。

味はいつも通り。

香りも、温度も。

けれど、どこかで小さな歯車がずれた気がする。

昼前、父のもとに使者が来た。

王城からの正式な通達。

婚約解消。

簡潔な文面。

私は署名を求められ、迷わずペンを取る。

インクが紙に染みる。

それで終わり。

終わった、はずだった。

そのとき、遠くから慌ただしい蹄の音が聞こえた。

門番の声。

「王城から急報!」

父と視線が合う。

執事が封書を受け取り、顔色を変えた。

「……城の北塔で、石材の一部が崩落したとのことです」

私は瞬きをする。

「けが人は?」

「軽傷が数名。ただ、原因不明とのこと」

父は黙ったまま、封書を折りたたむ。

「偶然が続くな」

低い声。

私は窓の外を見る。

空はもう晴れている。

昨日の豪雨が嘘のように。

……偶然。

そう、偶然だ。

私は何もしていない。

何も。

ただ、婚約が解消された。

それだけ。

けれど。

胸の奥で、何かがひどく静かに広がっていく。

まるで、長い間閉じられていた扉が、ゆっくりと開くように。

私はまだ知らない。

この静かな違和感が、やがて王都全体を包み込むことを。

そして――

私自身が、その中心にいるということを。
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