侯爵令嬢の四十日間 ――均衡が国を変えるまで

ふわふわ

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第三話 辺境への縁談

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第三話 辺境への縁談

王城からの正式な通達が届いて三日。

王都の噂は、相変わらず私と聖女の話題で持ちきりだった。

「侯爵令嬢は冷たすぎた」 「聖女様こそ王妃に相応しい」 「でも、あの落ち着きは不気味だったわね」

不気味。

そう言われるのは慣れている。

感情を大きく揺らさない者は、得てして“何を考えているか分からない”と評されるものだ。

午前の応接室。

父の前に、一通の封書が置かれていた。

紋章は重厚で、簡素だが威厳がある。

「ヴァルケン辺境伯家からだ」

私は静かに息を吸う。

辺境伯ディルク・ヴァルケン。

王国北方を守る軍事の要。

無骨で、寡黙で、戦では負け知らず。

社交界にはほとんど姿を見せない人物。

「縁談、ですか」

「正確には、打診だ」

父は封書を差し出す。

内容は簡潔だった。

――王都を離れるご意思があるならば、我が家は歓迎する。

回りくどい言い回しはない。

同情も、侮辱も、ない。

ただ事実だけ。

「王都に居続ければ、余計な視線を浴びる」

父は淡々と言う。

「辺境は静かだ。……少なくとも、王太子の感傷は届かん」

私は紅茶に口をつける。

湯気がゆらりと揺れる。

王都に残る理由は、もうない。

未来の王妃という立場も、役割も、消えた。

ならば。

「お受けします」

自分でも驚くほど、即答だった。

父は一瞬だけ目を細める。

「迷いは?」

「ございませんわ」

むしろ、胸の奥が軽い。

王都の空気は、今や少し息苦しい。

祝福の裏に、好奇と探りが混ざっている。

私はそれを責めない。

人は刺激を好む。

“真実の愛”の物語は、分かりやすく美しい。

静かな令嬢の退場など、物語としてはつまらないのだろう。

午後、馬車の準備が始まった。

荷は多くない。

私は元々、装飾を好まない。

書物と、最低限の衣装。

それだけで十分。

屋敷を出る直前、王都の空を見上げる。

今日は妙に澄んでいる。

ここ数日、雨や崩落が続いたとは思えないほどに。

門を出た瞬間、遠くから怒号が聞こえた。

通りの先で、荷馬車が横転している。

「御者が馬を御せなかったそうで」

護衛が小声で報告する。

怪我は軽いらしい。

些細な事故。

本当に、些細な。

私は視線を戻す。

……最近、些細なことが多い。

石が崩れ、排水が詰まり、馬が暴れる。

どれも決定的ではない。

ただ、続く。

それだけ。

街を抜ける頃、王城の塔が遠くに見えた。

あの場所で、私は未来を約束されていた。

そして、解かれた。

胸は、不思議なほど静かだ。

悲しみも、怒りもない。

ただ、何かが遠ざかっていく感覚。

馬車は北へ進む。

王都の石畳が、やがて土の道へと変わる。

夕刻。

休憩地で空を見上げると、雲の流れが穏やかだった。

「ここ数日は天候が荒れていたのですが」

護衛が首を傾げる。

「今日は妙に安定しています」

私は微笑む。

「それは良いことですわ」

夜営地で、私は一冊の本を開く。

歴代王妃の記録。

ふと目に留まる一節。

――王家は古くより、幸いの血と結ばれてきた。

意味は曖昧だ。

祝福の比喩かもしれない。

深く考えたことはなかった。

私は本を閉じる。

焚き火の火が、ぱちりと弾ける。

遠くで狼の遠吠えが響く。

辺境は厳しい土地だと聞く。

戦が絶えず、天候も荒れやすい。

それでも。

なぜか、不安はなかった。

翌朝。

北方の関所を越える。

そこから先は、ヴァルケン辺境伯領。

空気が、わずかに違う。

冷たく、澄んでいる。

そして、不思議と穏やかだ。

門番が報告に走る。

「エレノア様が到着なされました!」

城門が開く。

石造りの堅牢な城。

飾り気はないが、無駄もない。

その前に立つ一人の男。

長身で、黒髪を後ろで束ねている。

鎧姿だが、威圧ではなく安定感を纏っている。

ディルク・ヴァルケン。

彼は私を一瞥し、ゆっくりと歩み寄った。

「遠路、ご苦労だった」

声は低く、無駄がない。

「歓迎する、エレノア嬢」

私は一礼する。

「お世話になります、辺境伯様」

その瞬間。

背後で、強く吹いていた風がぴたりと止んだ。

旗が静まり返る。

兵の一人が小さく呟く。

「……さっきまで嵐前の風だったのに」

誰も深くは気にしない。

偶然だろう。

私は顔を上げる。

ディルクの視線が、ほんのわずかに細められている。

まるで、何かを測るように。

「……今日は、妙に空が静かだな」

彼の独り言。

私は微笑む。

「良い日和でございますわ」

まだ誰も知らない。

王都から失われたものが、今、この地に根を下ろそうとしていることを。

そしてそれが、やがて国の形を変えることになるなど――

誰も、まだ。
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