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第四話 静かな領地
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第四話 静かな領地
辺境伯領の朝は早い。
夜明けと同時に、城の中庭には兵士たちの足音が響く。金属の擦れる音、短い号令、規律正しい動き。王都の華やかな喧騒とは違い、ここには無駄がない。
私は窓辺に立ち、薄く霧のかかる城下を見下ろしていた。
山脈に囲まれたこの地は、常に風が強いと聞いていた。だが今朝は、不思議なほど穏やかだ。旗はゆるやかに揺れ、煙突から立ち上る煙もまっすぐ空へ昇っている。
「お目覚めでございますか」
侍女が控えめに声をかける。
「ええ。……静かな朝ですね」
「昨夜まで強風の予報でしたが、急に収まったようで」
侍女は首を傾げる。
私は小さく微笑む。
偶然。
そう、偶然だ。
朝食の席には、辺境伯ディルクが先に着いていた。
黒い軍装に身を包み、書簡に目を通している。その姿勢は崩れず、視線だけがこちらに向けられた。
「よく眠れたか」
「はい。王都より空気が澄んでおりますので」
彼は短く頷く。
「この地は厳しい。だが、正直だ」
「正直、ですか」
「荒れるときは荒れる。穏やかなときは、はっきり穏やかだ」
その言葉に、私はわずかに胸が温かくなる。
曖昧な笑顔や裏の含みがないということだろう。
朝食後、領地視察に同行することになった。
城下は質素だが整っている。商人の声は張りがあり、兵士たちは市井の者と気さくに言葉を交わしている。
「今年は麦の出来が読めないと聞いていましたが」
私が問うと、案内役の家令が驚いた顔をした。
「はい。春先の冷え込みで発芽率が低く……」
彼は畑へ案内する。
だが。
広がる麦畑は、思いのほか青々としていた。
家令が足を止める。
「……おかしい」
「何がでしょう」
「三日前の報告では、半分は枯れかけていたはずで」
農夫が駆け寄る。
「昨夜の雨が、ちょうど良くてな。土が締まりすぎず、根が持ち直したんだ」
顔は明るい。
「奇跡みたいだと、皆で話していたところで」
私は畑を見つめる。
青い穂が風に揺れる。
ただの雨だ。
ただの、自然の巡り。
けれど。
「……運が良かったな」
ディルクが呟く。
私はその横顔を盗み見る。
彼は空を仰ぎ、目を細めた。
「ここ最近、嫌な予感が続いていた。だが、今日は違う」
視察を終え城へ戻る途中、兵が報告に来た。
「北境の小競り合い、敵軍が退いたとのことです」
「被害は」
「ほぼなし。こちらの罠が、想定以上に機能しました」
ディルクの眉がわずかに上がる。
「想定以上?」
「はい。地盤が崩れやすい箇所が、ちょうど敵の進路に……」
偶然が重なったような勝利。
兵は嬉しそうに胸を張る。
私は何も言わない。
城に戻ると、執務室に地図が広げられていた。
ディルクはしばらくそれを見つめ、やがて静かに言う。
「君が来てから、悪い流れが止まった」
私は首を振る。
「たまたまですわ」
「そうかもしれん」
彼は否定も肯定もしない。
ただ、じっと私を見る。
その視線には疑いはない。測るような冷静さだけ。
「王都は、どうだろうな」
彼がふと漏らす。
私は窓の外を見る。
遠くの空は青い。
「穏やかであれば良いのですが」
その日の夕刻。
王都から早馬が届いた。
封を切った家令が顔色を変える。
「王都で、再び石材崩落が……今度は倉庫街です」
ディルクの視線が私に向く。
私はただ、静かに息を吐いた。
怪我人は出ていない。
だが、物資の一部が失われたという。
「続くな」
彼の声は低い。
私は返す。
「偶然が、でしょうか」
「……ああ」
彼はそれ以上言わなかった。
夜。
城の塔から領地を見下ろす。
灯りは温かく、揺らぎもない。
空には星が広がっている。
王都では、今夜もどこかで小さな不具合が起きているのだろうか。
私は自分の胸に手を当てる。
鼓動は穏やかだ。
何も特別なことはしていない。
祈りも、魔法も、ない。
ただ、ここにいるだけ。
それなのに。
遠くで、何かが失われていく気配がある。
そして。
ここでは、何かが満ちていく。
私はまだ、それを知らない。
けれど確かに。
潮目は、変わり始めていた。
辺境伯領の朝は早い。
夜明けと同時に、城の中庭には兵士たちの足音が響く。金属の擦れる音、短い号令、規律正しい動き。王都の華やかな喧騒とは違い、ここには無駄がない。
私は窓辺に立ち、薄く霧のかかる城下を見下ろしていた。
山脈に囲まれたこの地は、常に風が強いと聞いていた。だが今朝は、不思議なほど穏やかだ。旗はゆるやかに揺れ、煙突から立ち上る煙もまっすぐ空へ昇っている。
「お目覚めでございますか」
侍女が控えめに声をかける。
「ええ。……静かな朝ですね」
「昨夜まで強風の予報でしたが、急に収まったようで」
侍女は首を傾げる。
私は小さく微笑む。
偶然。
そう、偶然だ。
朝食の席には、辺境伯ディルクが先に着いていた。
黒い軍装に身を包み、書簡に目を通している。その姿勢は崩れず、視線だけがこちらに向けられた。
「よく眠れたか」
「はい。王都より空気が澄んでおりますので」
彼は短く頷く。
「この地は厳しい。だが、正直だ」
「正直、ですか」
「荒れるときは荒れる。穏やかなときは、はっきり穏やかだ」
その言葉に、私はわずかに胸が温かくなる。
曖昧な笑顔や裏の含みがないということだろう。
朝食後、領地視察に同行することになった。
城下は質素だが整っている。商人の声は張りがあり、兵士たちは市井の者と気さくに言葉を交わしている。
「今年は麦の出来が読めないと聞いていましたが」
私が問うと、案内役の家令が驚いた顔をした。
「はい。春先の冷え込みで発芽率が低く……」
彼は畑へ案内する。
だが。
広がる麦畑は、思いのほか青々としていた。
家令が足を止める。
「……おかしい」
「何がでしょう」
「三日前の報告では、半分は枯れかけていたはずで」
農夫が駆け寄る。
「昨夜の雨が、ちょうど良くてな。土が締まりすぎず、根が持ち直したんだ」
顔は明るい。
「奇跡みたいだと、皆で話していたところで」
私は畑を見つめる。
青い穂が風に揺れる。
ただの雨だ。
ただの、自然の巡り。
けれど。
「……運が良かったな」
ディルクが呟く。
私はその横顔を盗み見る。
彼は空を仰ぎ、目を細めた。
「ここ最近、嫌な予感が続いていた。だが、今日は違う」
視察を終え城へ戻る途中、兵が報告に来た。
「北境の小競り合い、敵軍が退いたとのことです」
「被害は」
「ほぼなし。こちらの罠が、想定以上に機能しました」
ディルクの眉がわずかに上がる。
「想定以上?」
「はい。地盤が崩れやすい箇所が、ちょうど敵の進路に……」
偶然が重なったような勝利。
兵は嬉しそうに胸を張る。
私は何も言わない。
城に戻ると、執務室に地図が広げられていた。
ディルクはしばらくそれを見つめ、やがて静かに言う。
「君が来てから、悪い流れが止まった」
私は首を振る。
「たまたまですわ」
「そうかもしれん」
彼は否定も肯定もしない。
ただ、じっと私を見る。
その視線には疑いはない。測るような冷静さだけ。
「王都は、どうだろうな」
彼がふと漏らす。
私は窓の外を見る。
遠くの空は青い。
「穏やかであれば良いのですが」
その日の夕刻。
王都から早馬が届いた。
封を切った家令が顔色を変える。
「王都で、再び石材崩落が……今度は倉庫街です」
ディルクの視線が私に向く。
私はただ、静かに息を吐いた。
怪我人は出ていない。
だが、物資の一部が失われたという。
「続くな」
彼の声は低い。
私は返す。
「偶然が、でしょうか」
「……ああ」
彼はそれ以上言わなかった。
夜。
城の塔から領地を見下ろす。
灯りは温かく、揺らぎもない。
空には星が広がっている。
王都では、今夜もどこかで小さな不具合が起きているのだろうか。
私は自分の胸に手を当てる。
鼓動は穏やかだ。
何も特別なことはしていない。
祈りも、魔法も、ない。
ただ、ここにいるだけ。
それなのに。
遠くで、何かが失われていく気配がある。
そして。
ここでは、何かが満ちていく。
私はまだ、それを知らない。
けれど確かに。
潮目は、変わり始めていた。
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