侯爵令嬢の四十日間 ――均衡が国を変えるまで

ふわふわ

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第五話 最初の報せ

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第五話 最初の報せ

辺境伯領に滞在して五日目の朝。

城の空気は、いつもと変わらず張り詰めていた。兵の訓練の掛け声が響き、鍛冶場からは規則的な金槌の音が聞こえる。

私は中庭を横切りながら、ふと足を止めた。

風がない。

この地は常に強い北風が吹くと聞いていた。だが、今日もまた穏やかだ。旗はゆるく垂れ、洗濯物も揺れない。

「……珍しいですね」

私の独り言に、付き添いの侍女が頷く。

「ええ。例年ですと、この時期は砂埃が舞うほどで」

空を見上げる。

雲の流れも、乱れがない。

偶然。

そう思い直し、私は執務棟へ向かった。

ディルク辺境伯は机に地図を広げ、報告書に目を通していた。

「入れ」

低い声に従い、私は席に着く。

「王都から書簡が届いている」

封は既に切られていた。

私は目を落とす。

内容は簡潔だった。

王都近郊の麦畑に、原因不明の病が広がっているという。

「被害は軽微だが、広がりが読めないらしい」

ディルクが言う。

「聖女の祈祷は?」

「効果はある。……だが、数日で再発する」

私はゆっくりと紙を閉じる。

再発。

それは、根が絶たれていないということ。

「王都は穀倉地帯に頼っておりますから」

「そうだ」

ディルクは短く答えた。

「だがこちらの畑には、兆候がない」

家令が口を挟む。

「同じ種、同じ気候帯です。通常なら、多少の影響は出てもおかしくありません」

私は窓の外の畑を思い出す。

青々と揺れる穂。

農夫たちの笑顔。

「……運が良いのですね」

私がそう言うと、ディルクは視線を上げた。

「君はいつも、そう言うな」

「他に言いようがございませんもの」

彼は何かを考えるように、指先で机を軽く叩く。

午後、城下へ出ると、商人たちが活気づいていた。

「今年は久しぶりに余裕がありそうだ!」

「北方からの交易路も安定しているしな」

私が通り過ぎると、自然と道が開く。

視線は敬意に近い。

それが少しだけ、居心地を悪くする。

私は特別なことはしていない。

ただ、ここにいるだけ。

その夜。

再び王都から急報が届いた。

今度は港の倉庫で火災。

乾燥が原因だという。

「雨が続いたはずでは?」

家令が首をひねる。

「昨日から急に乾燥し始めたと……」

天候の急変。

小さな事故。

収穫の病。

どれも単独なら、問題にならない。

だが、重なる。

ディルクは書簡を折りたたみ、私を見る。

「王都は今、揺れている」

「揺れは、いずれ収まりますわ」

私は穏やかに返す。

「大きな国ですもの」

彼は立ち上がり、窓辺へ向かった。

遠くに広がる領地を見つめる。

「この地も、かつては荒れていた」

「そうなのですか」

「ああ。三年前までは、敗戦と凶作が続いた」

私は振り返る。

「その頃は、どのように?」

「耐えた」

短い答え。

「だが、不思議なことに」

彼は続ける。

「今年に入ってから、流れが変わった」

今年。

私は思い返す。

王都で婚約の正式発表があったのも、今年の初め。

私はゆっくりと首を振る。

偶然だ。

何の関係もない。

夜更け。

塔の上に立つ。

空は澄み、星が瞬いている。

遠くで狼の遠吠えが響く。

王都でも、同じ星が見えているはずだ。

それでも、何かが違う。

私は両手を胸の前で組む。

祈りではない。

ただ、無意識の仕草。

その瞬間、ふと胸の奥が温かくなる。

微かな、灯りのような感覚。

驚いて手を離す。

何もない。

光も、紋章も。

ただ、夜の空気。

「……気のせい」

私は小さく呟く。

翌朝。

辺境伯領の北境で、また小競り合いがあった。

敵軍は途中で撤退。

「霧が突然晴れ、こちらの位置が正確に把握できたとのことです」

報告を受けたディルクは、静かに息を吐いた。

「都合が良すぎるな」

「勝利は良いことですわ」

私は微笑む。

彼は私を見る。

その視線には、疑いよりも確信が混じり始めていた。

王都では、小さな不運が積み重なる。

こちらでは、小さな幸運が続く。

誰もまだ、繋げてはいない。

けれど。

最初の報せは、もう十分だった。

潮目は、確実に変わり始めている。
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