侯爵令嬢の四十日間 ――均衡が国を変えるまで

ふわふわ

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第六話 祈りの空振り

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第六話 祈りの空振り

王都の大聖堂には、朝から人が溢れていた。

白い石造りの柱の間に、膝を折る民衆の姿が並ぶ。中央の祭壇には、聖女セシリアが立っていた。

金糸の刺繍が施された衣は、彼女の細い身体を包み込み、淡い光を受けて柔らかく輝いている。

「どうか、癒しを……」

震える声で祈る母親の腕の中には、咳き込む幼子。

ここ数日、王都では軽い熱病が広がっていた。命に関わるほどではない。だが、治ってもすぐ再発する奇妙な症状。

「必ず、救います」

セシリアは両手を胸の前で組み、目を閉じる。

祈りの言葉が響く。

やがて、柔らかな光が彼女の手元から広がり、幼子を包んだ。

咳は止まり、熱も引いていく。

「さすが聖女様だ!」

歓声が上がる。

王太子アシュレイは満足げに頷いた。

「これで不安は消える」

だが。

その夜、同じ幼子は再び高熱を出した。

聖女の祈りは、確かに効いている。

だが、続かない。

「なぜ……」

セシリアは唇を噛む。

祈りの回数を増やし、魔力を振り絞る。

大聖堂では連日の祈祷。

王太子も隣に立ち、民の前で手を握る。

「恐れることはない。聖女がいる」

だが、倉庫火災、石材崩落、穀物病。

小さな不具合は止まらない。

いずれも致命的ではない。

けれど、重なる。

「偶然が続いているだけだ」

王太子は側近に言い切った。

「迷信を持ち出すな」

一方、辺境伯領。

朝の空気は澄んでいる。

兵の訓練場では、珍しく転倒者が出ていない。

鍛冶場では刃こぼれの報告が減った。

「妙に順調ですね」

家令が帳簿を見つめる。

「補給の遅延も、今月はゼロで」

私は執務室の隅で書物を閉じる。

「良いことではありませんか」

「もちろんですが……」

家令はどこか落ち着かない。

「この地は、そう簡単に安定し続ける場所ではないのです」

ディルクが地図を指でなぞる。

「北方部族が動く気配があったはずだ」

「はい。しかし昨夜、突如進路を変えたとの報告が」

理由は分からない。

ただ、危機は避けられた。

ディルクは窓辺へ歩み寄る。

外では、農夫たちが笑い声を上げている。

「……不思議だな」

彼の低い声。

私は紅茶を口にする。

香りがいつもより深い気がする。

それも気のせいだろう。

午後、城下で子供が転びかけた。

だが、寸前で風が吹き、身体がわずかに傾き、怪我を免れた。

「運が良いな!」

周囲が笑う。

私はその光景を見つめる。

ただの偶然。

そのはず。

夜、私は塔の上に立つ。

遠く王都の方角に、薄い雲が見える。

同じ空の下。

私は胸に手を当てる。

あの日以来、ときおり感じる温もり。

光ではない。

魔法のようなものでもない。

ただ、穏やかな灯。

「……私には、何もない」

呟く。

王都では聖女が祈り、光を放つ。

私は祈らない。

何も放たない。

それでも。

ここでは、流れが安定している。

翌朝、王都から再び報告が届いた。

聖女が祈祷中に倒れたという。

過度の魔力消耗。

命に別状はない。

だが、民の不安は広がる。

ディルクは報告書を静かに机に置いた。

「祈りが、追いついていない」

「……そうなのでしょうか」

私は視線を落とす。

祈りは、対処。

けれど、根を絶つものではない。

そんな考えが、ふと浮かぶ。

「王都は今、火を消すことに必死だ」

ディルクが言う。

「だが、火種は増えている」

私は答えない。

代わりに、窓の外を見つめる。

風がそよぐ。

旗が穏やかに揺れる。

この静けさは、いつまで続くのだろう。

王都で祈りが空振りするたびに、

こちらでは、小さな幸運が積み重なる。

誰もまだ、繋げてはいない。

けれど。

天秤は、ゆっくりと傾き始めていた。
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