侯爵令嬢の四十日間 ――均衡が国を変えるまで

ふわふわ

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第七話 戦場の静寂

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第七話 戦場の静寂

北境の砦に向かう道は、岩と砂利がむき出しの荒れた坂道だった。

本来ならば、強い風が吹きつけ、馬の足取りを乱す場所だと聞いている。だが今日に限っては、空気は静まり返り、雲も流れを止めたかのようにゆるやかだった。

「視察に同行なさるとは、肝が据わっておられる」

馬を並べたディルクが、低く言う。

「戦場を見るのは初めてですわ」

「怖くはないか」

私は少し考え、首を振った。

「未知であることは怖いですが、理不尽ではありませんもの」

彼は一瞬、わずかに目を細めた。

砦に到着すると、兵たちが慌ただしく動いていた。

「北方部族が動きました!」

報告が飛び込む。

昨日までの情報では、敵は別の谷を進むはずだった。

だが今朝になって、進路を変えたという。

「こちらに向かっているのか」

「いえ、それが……途中で停止し、引き返す動きが」

兵は困惑している。

「理由は?」

「谷の岩盤が崩れたようで、進めなくなったと」

ディルクは地図に視線を落とす。

「崩落する地形ではないはずだ」

私は地図を覗き込む。

その地点は、堅い地盤で知られている場所。

偶然の崩落。

「怪我人は?」

「敵側に数名。我が軍は無傷です」

兵は誇らしげだ。

私は砦の上に上がる。

遠くの谷に、薄く土煙が見える。

確かに、地面が抉れた跡がある。

強風も豪雨もなかったはずなのに。

「……都合が良すぎる」

ディルクの呟き。

「勝利は喜ばしいことですわ」

私は穏やかに返す。

「だが、偶然が続くと不安になる」

彼は正直だ。

私は谷から視線を外し、空を見上げる。

澄み渡る青。

戦の前特有の重苦しさが、今日はない。

兵たちの動きも軽い。

午後、斥候が戻ってきた。

「敵陣に混乱が見られます。補給の荷馬車が転倒し、物資を失った模様」

「地形は?」

「平坦な道です」

報告に、周囲がざわめく。

私は胸の奥が、かすかに温かくなるのを感じた。

あの感覚。

小さな灯のような。

私は無意識に手を握りしめる。

何もしていない。

祈ってもいない。

ただ、ここにいる。

それだけ。

夕刻。

小規模な衝突が起きた。

だが霧が晴れるのが予想より早く、こちらの弓兵が正確に敵を牽制。

戦闘は短時間で終結した。

死者は出ていない。

「奇妙だな」

ディルクが言う。

「これほど噛み合うことは、滅多にない」

兵たちは勝利を喜ぶ。

だが、彼の視線は私に向けられていた。

「君は何か、感じているか」

唐突な問い。

私はわずかに驚く。

「……感じる、とは」

「この流れだ」

言葉を選ぶように、彼は続ける。

「戦は計算と経験で動く。だが今のこれは、それ以上だ」

私は視線を逸らす。

胸の奥の灯が、静かに揺れている。

「運が良いのでしょう」

それしか言えない。

彼はしばらく黙り、やがて頷いた。

「そうかもしれん」

夜、砦の上から星を眺める。

兵たちは酒を酌み交わし、笑っている。

怪我人がいない戦の夜は、珍しい。

遠く、王都の方角に目を向ける。

同じ夜空。

けれど、空気の重さが違う気がする。

そのとき、伝令が駆け上がってきた。

「王都より急報!」

封書を開いた家令が、息を呑む。

「王城の南門で落雷。門扉が破損」

「落雷?」

ディルクが眉をひそめる。

「今日は晴天だったはずだ」

「王都だけ局地的な雷雨が……とのこと」

私はそっと目を閉じる。

小さな不運。

こちらでは、小さな幸運。

天秤が、音もなく傾いている。

私はまだ知らない。

この静かな戦場の勝利が、やがて王国の命運を左右する序章に過ぎないことを。

ただ一つ、確かなのは。

ここでは、誰も倒れなかった。

そして王都では、何かがまた、壊れた。
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