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第36話 何も起きない一日
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第36話 何も起きない一日
その日は、特別な予定のない朝だった。
シュタインベルク公国・公爵邸。
東の窓から差し込む光は柔らかく、
侍女たちの足音も、どこか穏やかだ。
「本日の予定ですが――」
側近が手帳を開く。
「午前は視察報告の確認のみ。
午後は自由時間となっています」
「……以上?」
セラフィナが、確認する。
「はい」
余計な但し書きはない。
彼女は、ほんの一瞬だけ考え、
それから小さく息を吐いた。
「では、
今日は“何もしない日”ですね」
側近は、微妙な顔をした。
「その……
完全に何もしない、というわけでは」
「分かっています」
セラフィナは、微笑む。
「ですが、
火急の案件がないという意味です」
それだけで、
十分だった。
午前中。
書斎で確認したのは、
すでに軌道に乗っている施策の報告だけ。
税収は安定。
治安も良好。
農業区画は予定通り。
「……修正点、なし」
書類を閉じる。
かつてなら、
「問題がないこと」に、
不安を覚えただろう。
今は違う。
問題がないのは、
正しく回っている証拠だ。
昼。
セラフィナは、
珍しく一人で庭を歩いていた。
花壇の手入れをする庭師が、
深く一礼する。
「奥方様」
「ご苦労さまです」
それだけの会話。
指示も、確認も、
必要ない。
花は、
咲くべき時に咲いている。
午後。
公爵邸の図書室。
セラフィナは、
分厚い本を開きながら、
ふと思う。
(……こんな時間、
いつ以来でしょう)
王国にいた頃は、
“余白”がなかった。
常に、
誰かの尻拭い。
誰かの代弁。
誰かの失敗の修正。
静かな時間は、
怠慢だと思わされていた。
今は違う。
静かであることが、
正常だ。
「……ここにいたか」
カルヴァスの声が、
背後からする。
「はい」
セラフィナは、
顔を上げる。
「何かありましたか?」
「いや」
彼は、
素直に言った。
「何もない」
その言葉に、
彼女は微笑む。
「それは、
良い報告ですね」
「そうだな」
二人は、
しばらく並んで座る。
会話は、
途切れてもいい。
沈黙が、
不安にならない。
「……王国では」
ふと、カルヴァスが言う。
「今日は、
また政争が起きているらしい」
「そうですか」
セラフィナは、
それ以上、聞かなかった。
興味がない。
そして、
責任もない。
「……本当に、
切り離したな」
「ええ」
彼女は、
穏やかに答える。
「もう、
あちらの“日常”は、
私のものではありません」
夕方。
街から戻った使用人が、
報告する。
「市の様子は、
変わりありません」
「それで十分です」
特筆すべき事件がない。
それは、
支配者にとって、
最高の成果だった。
夜。
食事も、
いつも通り。
豪華でも、
質素でもない。
必要なものが、
必要な分だけある。
「……今日は」
セラフィナが言う。
「一日で、
特に語ることがありません」
「それでいい」
カルヴァスは、
即答した。
「英雄譚は、
疲れる」
「ええ」
「だが」
彼は、
ゆっくりと続ける。
「何も起きない一日は、
守る価値がある」
セラフィナは、
その言葉を噛みしめる。
「……はい」
夜が更ける。
外は静かで、
不穏な気配もない。
セラフィナは、
窓辺に立ち、
星空を見上げた。
もう、
誰かに評価されなくていい。
もう、
誰かの失敗を補わなくていい。
この日常は、
勝ち取ったものだ。
だから、
大切にする。
何も起きない一日を。
それが、
最も贅沢な結末だと、
彼女は知っていた。
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その日は、特別な予定のない朝だった。
シュタインベルク公国・公爵邸。
東の窓から差し込む光は柔らかく、
侍女たちの足音も、どこか穏やかだ。
「本日の予定ですが――」
側近が手帳を開く。
「午前は視察報告の確認のみ。
午後は自由時間となっています」
「……以上?」
セラフィナが、確認する。
「はい」
余計な但し書きはない。
彼女は、ほんの一瞬だけ考え、
それから小さく息を吐いた。
「では、
今日は“何もしない日”ですね」
側近は、微妙な顔をした。
「その……
完全に何もしない、というわけでは」
「分かっています」
セラフィナは、微笑む。
「ですが、
火急の案件がないという意味です」
それだけで、
十分だった。
午前中。
書斎で確認したのは、
すでに軌道に乗っている施策の報告だけ。
税収は安定。
治安も良好。
農業区画は予定通り。
「……修正点、なし」
書類を閉じる。
かつてなら、
「問題がないこと」に、
不安を覚えただろう。
今は違う。
問題がないのは、
正しく回っている証拠だ。
昼。
セラフィナは、
珍しく一人で庭を歩いていた。
花壇の手入れをする庭師が、
深く一礼する。
「奥方様」
「ご苦労さまです」
それだけの会話。
指示も、確認も、
必要ない。
花は、
咲くべき時に咲いている。
午後。
公爵邸の図書室。
セラフィナは、
分厚い本を開きながら、
ふと思う。
(……こんな時間、
いつ以来でしょう)
王国にいた頃は、
“余白”がなかった。
常に、
誰かの尻拭い。
誰かの代弁。
誰かの失敗の修正。
静かな時間は、
怠慢だと思わされていた。
今は違う。
静かであることが、
正常だ。
「……ここにいたか」
カルヴァスの声が、
背後からする。
「はい」
セラフィナは、
顔を上げる。
「何かありましたか?」
「いや」
彼は、
素直に言った。
「何もない」
その言葉に、
彼女は微笑む。
「それは、
良い報告ですね」
「そうだな」
二人は、
しばらく並んで座る。
会話は、
途切れてもいい。
沈黙が、
不安にならない。
「……王国では」
ふと、カルヴァスが言う。
「今日は、
また政争が起きているらしい」
「そうですか」
セラフィナは、
それ以上、聞かなかった。
興味がない。
そして、
責任もない。
「……本当に、
切り離したな」
「ええ」
彼女は、
穏やかに答える。
「もう、
あちらの“日常”は、
私のものではありません」
夕方。
街から戻った使用人が、
報告する。
「市の様子は、
変わりありません」
「それで十分です」
特筆すべき事件がない。
それは、
支配者にとって、
最高の成果だった。
夜。
食事も、
いつも通り。
豪華でも、
質素でもない。
必要なものが、
必要な分だけある。
「……今日は」
セラフィナが言う。
「一日で、
特に語ることがありません」
「それでいい」
カルヴァスは、
即答した。
「英雄譚は、
疲れる」
「ええ」
「だが」
彼は、
ゆっくりと続ける。
「何も起きない一日は、
守る価値がある」
セラフィナは、
その言葉を噛みしめる。
「……はい」
夜が更ける。
外は静かで、
不穏な気配もない。
セラフィナは、
窓辺に立ち、
星空を見上げた。
もう、
誰かに評価されなくていい。
もう、
誰かの失敗を補わなくていい。
この日常は、
勝ち取ったものだ。
だから、
大切にする。
何も起きない一日を。
それが、
最も贅沢な結末だと、
彼女は知っていた。
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