37 / 39
第38話 名前を、返す
しおりを挟む
第38話 名前を、返す
それは、予定にない来訪だった。
午後の穏やかな時間、
公爵邸の正門に、一人の使者が現れた。
「……王都より、私的な届け物を預かっています」
肩書きはない。
国章もない。
ただの、
運び屋に近い存在だった。
側近は中身を確認し、
一瞬だけ表情を曇らせてから、
セラフィナのもとへ持ってきた。
「奥方様……
確認を」
差し出された箱は、
小さく、重い。
セラフィナは、
それを見ただけで分かった。
「……受け取ります」
箱を開ける。
中にあったのは、
婚約の証として渡された指輪と、
数枚の書類。
すべて、
王国時代のものだ。
空気が、
静まり返る。
「差出人は?」
「……形式上は、
王室事務局です」
「“形式上”」
セラフィナは、
小さく息を吐いた。
「つまり、
責任の所在を曖昧にしたまま、
片付けに来たのですね」
返答は、
なかった。
必要もない。
それらは、
“処理してほしい過去”なのだ。
セラフィナは、
指輪を手に取る。
かつては、
未来を縛る象徴だった。
今は――
何の意味も持たない。
「……返してくるべきでしたね」
側近が、
気遣うように言う。
「いいえ」
セラフィナは、
首を振る。
「返す必要はありません」
「処分、されますか?」
「ええ」
即答だった。
その日の夕刻、
公爵邸の裏庭。
人払いがされ、
簡素な炉が用意された。
立ち会うのは、
カルヴァスと、
最小限の関係者のみ。
「本当に、
ここで終わらせるのだな」
カルヴァスが、
静かに尋ねる。
「はい」
セラフィナは、
迷わない。
「王国に、
返す気はありません」
「恨みは?」
「ありません」
それは、
はっきりとした声だった。
「怒りも、
後悔も」
彼女は、
指輪を炉の上に置く。
「ただ、
もう私の名前を、
使わせないだけです」
火が、
ゆっくりと回る。
金属が、
熱を帯び、
形を失っていく。
続いて、
書類。
そこに書かれた名前は、
過去の役割。
王太子妃候補。
調整役。
責任者。
炎にくべられ、
文字が崩れていく。
「……これで」
カルヴァスが言う。
「完全に、
切れたな」
「ええ」
セラフィナは、
火を見つめたまま答える。
「過去を否定したわけではありません」
「だが」
「今の私を、
縛る資格はない」
火が、
最後の紙を飲み込む。
残ったのは、
灰だけだった。
夜。
書斎に戻ったセラフィナは、
一枚の新しい書類に署名をしていた。
それは、
公国の公式文書。
署名欄には、
迷いのない筆致で、
現在の名前が記される。
「……これで、
本当に“今の私”だけですね」
独り言のように呟く。
「後悔は?」
背後から、
カルヴァスの声。
「ありません」
彼女は、
振り返らずに答える。
「過去を燃やしたのではなく、
役割を終わらせただけです」
「それが、
一番強いな」
カルヴァスは、
そう言って頷いた。
窓の外、
街は変わらず穏やかだ。
王国から、
追いかけてくるものはない。
名前を返し、
役割を降り、
責任のない場所へは、
戻らない。
セラフィナは、
確信していた。
もう、
誰にも奪われない。
立場も、
未来も、
名前も。
それらはすべて、
ここで、自分が選び取ったものだから。
--
それは、予定にない来訪だった。
午後の穏やかな時間、
公爵邸の正門に、一人の使者が現れた。
「……王都より、私的な届け物を預かっています」
肩書きはない。
国章もない。
ただの、
運び屋に近い存在だった。
側近は中身を確認し、
一瞬だけ表情を曇らせてから、
セラフィナのもとへ持ってきた。
「奥方様……
確認を」
差し出された箱は、
小さく、重い。
セラフィナは、
それを見ただけで分かった。
「……受け取ります」
箱を開ける。
中にあったのは、
婚約の証として渡された指輪と、
数枚の書類。
すべて、
王国時代のものだ。
空気が、
静まり返る。
「差出人は?」
「……形式上は、
王室事務局です」
「“形式上”」
セラフィナは、
小さく息を吐いた。
「つまり、
責任の所在を曖昧にしたまま、
片付けに来たのですね」
返答は、
なかった。
必要もない。
それらは、
“処理してほしい過去”なのだ。
セラフィナは、
指輪を手に取る。
かつては、
未来を縛る象徴だった。
今は――
何の意味も持たない。
「……返してくるべきでしたね」
側近が、
気遣うように言う。
「いいえ」
セラフィナは、
首を振る。
「返す必要はありません」
「処分、されますか?」
「ええ」
即答だった。
その日の夕刻、
公爵邸の裏庭。
人払いがされ、
簡素な炉が用意された。
立ち会うのは、
カルヴァスと、
最小限の関係者のみ。
「本当に、
ここで終わらせるのだな」
カルヴァスが、
静かに尋ねる。
「はい」
セラフィナは、
迷わない。
「王国に、
返す気はありません」
「恨みは?」
「ありません」
それは、
はっきりとした声だった。
「怒りも、
後悔も」
彼女は、
指輪を炉の上に置く。
「ただ、
もう私の名前を、
使わせないだけです」
火が、
ゆっくりと回る。
金属が、
熱を帯び、
形を失っていく。
続いて、
書類。
そこに書かれた名前は、
過去の役割。
王太子妃候補。
調整役。
責任者。
炎にくべられ、
文字が崩れていく。
「……これで」
カルヴァスが言う。
「完全に、
切れたな」
「ええ」
セラフィナは、
火を見つめたまま答える。
「過去を否定したわけではありません」
「だが」
「今の私を、
縛る資格はない」
火が、
最後の紙を飲み込む。
残ったのは、
灰だけだった。
夜。
書斎に戻ったセラフィナは、
一枚の新しい書類に署名をしていた。
それは、
公国の公式文書。
署名欄には、
迷いのない筆致で、
現在の名前が記される。
「……これで、
本当に“今の私”だけですね」
独り言のように呟く。
「後悔は?」
背後から、
カルヴァスの声。
「ありません」
彼女は、
振り返らずに答える。
「過去を燃やしたのではなく、
役割を終わらせただけです」
「それが、
一番強いな」
カルヴァスは、
そう言って頷いた。
窓の外、
街は変わらず穏やかだ。
王国から、
追いかけてくるものはない。
名前を返し、
役割を降り、
責任のない場所へは、
戻らない。
セラフィナは、
確信していた。
もう、
誰にも奪われない。
立場も、
未来も、
名前も。
それらはすべて、
ここで、自分が選び取ったものだから。
--
10
あなたにおすすめの小説
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる
葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。
アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。
アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。
市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
【完結】恋は、終わったのです
楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。
今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。
『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』
身長を追い越してしまった時からだろうか。
それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。
あるいは――あの子に出会った時からだろうか。
――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。
「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵令息から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる