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第38話 名前を、返す
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第38話 名前を、返す
それは、予定にない来訪だった。
午後の穏やかな時間、
公爵邸の正門に、一人の使者が現れた。
「……王都より、私的な届け物を預かっています」
肩書きはない。
国章もない。
ただの、
運び屋に近い存在だった。
側近は中身を確認し、
一瞬だけ表情を曇らせてから、
セラフィナのもとへ持ってきた。
「奥方様……
確認を」
差し出された箱は、
小さく、重い。
セラフィナは、
それを見ただけで分かった。
「……受け取ります」
箱を開ける。
中にあったのは、
婚約の証として渡された指輪と、
数枚の書類。
すべて、
王国時代のものだ。
空気が、
静まり返る。
「差出人は?」
「……形式上は、
王室事務局です」
「“形式上”」
セラフィナは、
小さく息を吐いた。
「つまり、
責任の所在を曖昧にしたまま、
片付けに来たのですね」
返答は、
なかった。
必要もない。
それらは、
“処理してほしい過去”なのだ。
セラフィナは、
指輪を手に取る。
かつては、
未来を縛る象徴だった。
今は――
何の意味も持たない。
「……返してくるべきでしたね」
側近が、
気遣うように言う。
「いいえ」
セラフィナは、
首を振る。
「返す必要はありません」
「処分、されますか?」
「ええ」
即答だった。
その日の夕刻、
公爵邸の裏庭。
人払いがされ、
簡素な炉が用意された。
立ち会うのは、
カルヴァスと、
最小限の関係者のみ。
「本当に、
ここで終わらせるのだな」
カルヴァスが、
静かに尋ねる。
「はい」
セラフィナは、
迷わない。
「王国に、
返す気はありません」
「恨みは?」
「ありません」
それは、
はっきりとした声だった。
「怒りも、
後悔も」
彼女は、
指輪を炉の上に置く。
「ただ、
もう私の名前を、
使わせないだけです」
火が、
ゆっくりと回る。
金属が、
熱を帯び、
形を失っていく。
続いて、
書類。
そこに書かれた名前は、
過去の役割。
王太子妃候補。
調整役。
責任者。
炎にくべられ、
文字が崩れていく。
「……これで」
カルヴァスが言う。
「完全に、
切れたな」
「ええ」
セラフィナは、
火を見つめたまま答える。
「過去を否定したわけではありません」
「だが」
「今の私を、
縛る資格はない」
火が、
最後の紙を飲み込む。
残ったのは、
灰だけだった。
夜。
書斎に戻ったセラフィナは、
一枚の新しい書類に署名をしていた。
それは、
公国の公式文書。
署名欄には、
迷いのない筆致で、
現在の名前が記される。
「……これで、
本当に“今の私”だけですね」
独り言のように呟く。
「後悔は?」
背後から、
カルヴァスの声。
「ありません」
彼女は、
振り返らずに答える。
「過去を燃やしたのではなく、
役割を終わらせただけです」
「それが、
一番強いな」
カルヴァスは、
そう言って頷いた。
窓の外、
街は変わらず穏やかだ。
王国から、
追いかけてくるものはない。
名前を返し、
役割を降り、
責任のない場所へは、
戻らない。
セラフィナは、
確信していた。
もう、
誰にも奪われない。
立場も、
未来も、
名前も。
それらはすべて、
ここで、自分が選び取ったものだから。
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それは、予定にない来訪だった。
午後の穏やかな時間、
公爵邸の正門に、一人の使者が現れた。
「……王都より、私的な届け物を預かっています」
肩書きはない。
国章もない。
ただの、
運び屋に近い存在だった。
側近は中身を確認し、
一瞬だけ表情を曇らせてから、
セラフィナのもとへ持ってきた。
「奥方様……
確認を」
差し出された箱は、
小さく、重い。
セラフィナは、
それを見ただけで分かった。
「……受け取ります」
箱を開ける。
中にあったのは、
婚約の証として渡された指輪と、
数枚の書類。
すべて、
王国時代のものだ。
空気が、
静まり返る。
「差出人は?」
「……形式上は、
王室事務局です」
「“形式上”」
セラフィナは、
小さく息を吐いた。
「つまり、
責任の所在を曖昧にしたまま、
片付けに来たのですね」
返答は、
なかった。
必要もない。
それらは、
“処理してほしい過去”なのだ。
セラフィナは、
指輪を手に取る。
かつては、
未来を縛る象徴だった。
今は――
何の意味も持たない。
「……返してくるべきでしたね」
側近が、
気遣うように言う。
「いいえ」
セラフィナは、
首を振る。
「返す必要はありません」
「処分、されますか?」
「ええ」
即答だった。
その日の夕刻、
公爵邸の裏庭。
人払いがされ、
簡素な炉が用意された。
立ち会うのは、
カルヴァスと、
最小限の関係者のみ。
「本当に、
ここで終わらせるのだな」
カルヴァスが、
静かに尋ねる。
「はい」
セラフィナは、
迷わない。
「王国に、
返す気はありません」
「恨みは?」
「ありません」
それは、
はっきりとした声だった。
「怒りも、
後悔も」
彼女は、
指輪を炉の上に置く。
「ただ、
もう私の名前を、
使わせないだけです」
火が、
ゆっくりと回る。
金属が、
熱を帯び、
形を失っていく。
続いて、
書類。
そこに書かれた名前は、
過去の役割。
王太子妃候補。
調整役。
責任者。
炎にくべられ、
文字が崩れていく。
「……これで」
カルヴァスが言う。
「完全に、
切れたな」
「ええ」
セラフィナは、
火を見つめたまま答える。
「過去を否定したわけではありません」
「だが」
「今の私を、
縛る資格はない」
火が、
最後の紙を飲み込む。
残ったのは、
灰だけだった。
夜。
書斎に戻ったセラフィナは、
一枚の新しい書類に署名をしていた。
それは、
公国の公式文書。
署名欄には、
迷いのない筆致で、
現在の名前が記される。
「……これで、
本当に“今の私”だけですね」
独り言のように呟く。
「後悔は?」
背後から、
カルヴァスの声。
「ありません」
彼女は、
振り返らずに答える。
「過去を燃やしたのではなく、
役割を終わらせただけです」
「それが、
一番強いな」
カルヴァスは、
そう言って頷いた。
窓の外、
街は変わらず穏やかだ。
王国から、
追いかけてくるものはない。
名前を返し、
役割を降り、
責任のない場所へは、
戻らない。
セラフィナは、
確信していた。
もう、
誰にも奪われない。
立場も、
未来も、
名前も。
それらはすべて、
ここで、自分が選び取ったものだから。
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