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前編
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※「病んだ妹に悪役令嬢へ転生させられたが、俺エンドだけは避けたい」のユベール側の話です。「病んだ妹に~」は女体化かつ乙女ゲーム転生ものです。それぞれが地雷という方、組み合わせでダメという方はごめんなさい、自衛してください。
※女体化受けでまだ男バレしないので、攻め視点のこちらだけ読むとほぼHLです。
※受けが転生前の記憶を取り戻す前の人格については哲学的ゾンビとする設定です。
生きているという嘘をついている。
僕がアネットお嬢様に感じる、素直な印象だった。穿った見方だということは承知している。
しかし、人形に仕えるのは味気ないものだ。
面白みがない。
アネットお嬢様。物静かで大人しく、親の言うことをよく聞き、我がままで人を振り回すこともない。
神の道に忠実で、ゴスラン家の氏神との縁にかかわらず精霊の祝福をよく受け、神童と謳われるほどに聡い。
見目麗しく人目を惹き付ける容貌を備えながら、世俗に流されることもない。
それだけ揃っているのだから、代々聖女を輩出しているゴスラン家においてアネットお嬢様がその候補と目されていたのは順当だったろう。
そんな「自慢のいい子」が遅れてきた反抗期に入ったのだから、周囲は大変だ。
早い娘ならもう嫁いでいるという年頃になってようやく自我が芽生えたせいか、反動は相当なものだった。
人が変わったように粗雑な言動を取るようになり、侍従を避けて部屋に引きこもる。
狼狽したご主人様が悪魔祓いの祈祷など試みたもの、当のアネット様があれでは効果の出るはずもなかった。
口さがないメイド連中の何人が舌禍でクビになっただろう。大した興味はないから、数えないが。
ただ、血のつながっている訳でもない使用人は多かれ少なかれ似たようなことを感じていた。
表には出さないだけで、僕も似たようなものだ。
そんなことを考えながら、如何にも忠実な従僕であるかのように装ってポットを持ち上げた。
へらへら笑いながら、冷めかけてきている紅茶をご主人様のティーカップに注いでいく。
湯気は立たなかった。
「そういえば、アネットは元気か」
モーリス様が覇気のない声で問う。
モーリス様――アネットお嬢様のお父君であられる――とアネットお嬢様についてお話するときは、常に離れの執務室を閉じ切ってだった。
通行に不便で暖かい飲み物はあまりお出しできないのだが、そのことについて聞くほど僕は野暮ではない。
「ええ、元気でいらっしゃいますよ。今日はご学友とブロワーヌ庭園に行かれたそうです」
「友達とはうまくやっているのか?」
「仲良くお過ごしのようです。レティシア様、ああ、いつもの話し出すと止まらないというご友人ですね、が今日もしゃべりっぱなしだったそうで、疲れたからしばらく一人で静かに過ごしたいとおっしゃっていました」
モーリス様は一瞬だけ机から目を離した。が、すぐに元の書き物に戻る。
「そうか」
「鎮静効果のあるカモミールティーをお出ししましたので、ゆっくりお休みになられていると存じますよ」
「ありがとう。何もかもユベール君に任せきりで申し訳ないな」
「とんでもないことでございます」
没落貴族、いや没役元貴族の僕がレティシア様と同じ学校に通えるのも、ご主人様のおかげだ。
そういう意味で今の言葉に偽りはない。
十二歳のとき、領地の不作続きで父が破産した。父の顔はもうあまり覚えていない。
たくましい母はさっさと父に見切りをつけて、アネット様の姉に当たるゴスラン家の長女の家庭教師に落ち着いた。
ガヴァネスの務まる母に処世術を叩きこまれたのは幸運だった。
おかげでこうして、モーリス様の厚い信任を得られている。
長いものに巻かれておけばいいだけなのだから、楽な仕事だ。
へらへら笑いながら離れの執務室を後にした。
そろそろ紅茶が切れた時間だろう。ちょっとアネットお嬢様の様子を見に行ったほうが良いか。
ちょうどアネットお嬢様の部屋に着くころ、ハンドベルの音がした。
誰が呼び出されたかは鈴の音色、それに支給されている指輪が光るかで分かるのだが、確認するまでもなかった。アネット様が呼び出すのは僕ばかりだからだ。また、ご指名か――
「アネットお嬢様」
「早くて助かるわ。入って」
「失礼します。――!?」
アネット様の部屋の戸を開けて、すぐに閉めかけた。
だって、当たり前だろう? 部屋の奥には困り顔で乱れた着衣の胸元を押さえるアネット様がいたのだから。
「早く入って、そこ閉めて」
顔を赤くしたアネットお嬢様が泣きそうな声で言う。
厄介なことに巻き込まれそうだと、心配半分興味半分の心持ちで部屋に失礼した。
「何かございましたか?」
「服の紐が解けてしまったの。ユベール、ごめんなさい、結ぶの手伝ってくれないかしら」
「失礼ながらお嬢様。他のメイドは応じなかったのですか? もしお呼びされても参らないということでしたら、私が連れて参りますよ」
「ユベールに頼んでは駄目?」
――新手の嫌がらせか?
まあいい。たとえアネットお嬢様が何か企んだとしても、悪魔憑きのお嬢様とご主人様の信認の厚い僕、どちらの言い分が通るかは火を見るより明らかだろう。
だから僕は、涼しい顔をして応えた。
「畏まりました」
「助かるわ」
アネットお嬢様の背中に回ると、お嬢様の手の届かないドレスの背中に紐を通していく。
貴族令嬢のお召し物というものは、華美で豪奢でお嬢様方の美を最大限に引き立てるように仕立てられている代償として、使用人の手を借りなければ着替えもままならないようになっている。
それでも、普通は貴族階級の女性は自分の手で着替えなどしないから問題ないのだが。
風変りなアネットお嬢様は最近メイドに触れられるのも嫌らしく、自分で結べるところは結んでしまっているとは耳にしていた。
そうでなくても、本来お嬢様の身の回りの世話など男のやる仕事ではない。
男がするには一段低いと思われている仕事を執事にやらせようとするから、アネット様は他の執事からも避けられているのだった。が、モーリス様への恩を返すにはちょうど良い仕事だ。
それに、屈辱的と考えるとアネット様の思う壺だろう。人を殺すわけでもなければ汗水流すわけでもない楽な仕事だ。そう考えることにして、へらへら笑いながらアネット様の着付けを済ませた。
「ありがとう。助かったわ。ユベールって器用なのね」
「子どものころは兄弟の着付けをしていたので、その経験が役に立ちました」
「妹がいるのね。ユベールに似て、笑顔が可愛らしそう」
「いえ、弟です。私の故郷では、子どものうちは男の子でも女の子でもドレスを着せる風習が残っているのですよ。私も着ていました。今ではとても着られませんが」
なんてこぼれ話をすると、アネットお嬢様は身を乗り出して返す。
「そんなことはないと思うわ! 今だって、ユベールだったらとっても素敵だと思う」
――今度は、そういう嫌がらせか?
が、アネット様はすぐに姿勢を正し、それ以上ドレスのことについて話してはこなかった。
「ユベールの時間を取らせて悪かったわね。ありがとう。仕事に戻って頂戴」
「礼には及びません。アネット様のお世話も、大事なお仕事です」
そう答えると、アネット様はうすぼんやりとした表情でうわごとの様に呟く。
最近時折見せる、どこか世界から切り離されているような儚げな顔で呟く。
「そうね。仕事よね……」
「さて、私は他の仕事もありますのでこれで失礼します。何かございましたらまたお呼び下さい」
「ええ、ありがとう」
そうして僕はアネット様の部屋を後にした。
昔と比べたら、ずいぶん面白いお嬢様に育ったものだ。
* * *
曲がりなりにも貴族出身の母をもった僕は、運が良かったと思う。
幼い頃は兄弟水入らずと育った弟も、腹違いだったから父が破産したときに生き別れになった。
それから彼ら母子がどう暮らしてきたかは知らない。
男娼街で弟を見たときは本当に驚いた。
それから暇を見ては弟に指名を入れるようになった。
別に罪滅ぼしとかそういう意図があった訳じゃない。ただ金なんて溜まる一方で使い道がないから、経済に回ればいいと思っただけだ。
だいたいいつも弟は疲れを溜めているから、積もる話より寝かせてやっていることが多い。
「ルネ。起きろ。時間だ」
僕は無邪気に眠っている弟のルネを起こそうと、その体を軽く叩いた。
弟は寝息を止め目尻を泳がせると、寝ぼけまなこを腕でこすった。
「ふぁ! あぁ……もうそんな時間か。寝すぎて背中が痛い。兄さん、背中揉んでよ」
とても一つ違いの弟には思えない、あどけない声で甘えてくる。
それもそのはずで、ルネは声変わりを迎えていなかった。否、声変わりを殺した、というほうが正しい。
変声期を迎える前に去勢を受けると、声変わりせず少年の声を残すことができる。それが好事家によく売れるらしい。
変声期を殺したルネの、翼でも生えているかのような声はとても美しかった。
「まったく、どちらが客だか分からないな」
「ははっ」
そのまま体を転がしてうつ伏せになる弟の、腰をごりごりと揉みほぐしてやる。
確かに硬かった。できるなら、もう少し良い寝床を用意してやりたい。
「ん。ありがと、兄さん。ああ、そういえばさ、話忘れてたんだけど」
「何だ」
ルネはにこりと微笑みながら起き上がり、寝台のへりに座った。
嬉しそうに、続ける。
「自慢していい?」
「何だ?」
「聞いてよ、ボクさ、ついに一位になったんだよ。すごくない?」
「一位?」
「そう、一位。この店で今一番買われてんのがボクってこと。凄いでしょう凄いでしょう。ね、褒めてよ」
例えば今の声がアネットお嬢様のものだったら、僕は迷わず「素晴らしいことでございます」と賛辞を送れていただろう。
しかし弟のルネには、いや、弟だからこそ、ルネの言葉を素直に受け入れられなかった。
表情に出さないということすら、弟相手にはできなかった。
「あ、ああ……」
別に、男娼に求められているのは閨事ばかりじゃない。
特に、ルネのようにソプラノの声を持つ男娼は朗読から歌唱から技芸で客の心を引き付けることだって十分できる。
いや、そもそも閨事で身を立てたからといって、ルネに貴賤が付く訳では――
「兄さん? ――ああそうか。そうなんだ。ははっ。あはははっ。ははははははははははははははははははははは」
ルネは頭をかき上げながら、取り乱したように笑い声をあげた。
「兄さんはいいよねえ? お貴族サマに仕えてお上品に暮らしてればいいんだからさ。だから、可哀そうなボクのこと内心では蔑んでたんだ?」
「それは違う」
「何が違うっていうんだよ! 冷やかしなら帰ってよ! ボクは兄さんなんかいなくたって稼げるんだ!」
「ルネ!」
「ほら、お客さんのお帰りだ!」
取りなすこともできず、男娼宿の下男に店の外まで引きずり出された。
燕尾服を破かれなかったのは不幸中の幸いだろう。
今日のところはルネの腹の虫を収めるのは難しいか、と屋敷に戻る途中。なんとなく馴染みのある視線を感じた。
「……!!」
悪魔憑きのアネットお嬢様がついに徘徊しだしていても別に驚きもしないが、尾行ならもっとうまくやって欲しいなと思う。
お嬢様が荒唐無稽なことを言ったところで本気にする者もいないだろうから、僕も気にせず帰るが。
「嬢ちゃんいくら? お、いい体してんじゃん。ちょっとレアドロップ引き当てて大金入ったからさ、いくらでも出すから相手してよ」
「や……っ」
――世話が焼ける。
このような場所で突っ立っているから、アネット様は酔っ払いに立ちんぼか何かと間違われたようだ。
「今空いてんでしょ。金ならあるからさ……来いよオラ」
対応が遅れた僕自身に苛立ちながら、アネット様目掛けて全速力で駆けた。
が、次の瞬間、僕は信じがたい光景を目の当たりにした。
「離せよバカヤロウ!」
そう啖呵を切ったアネットお嬢様は、酔っ払いの腕を振り払い間髪入れずに男のみぞおちに強フックを放った。
クリーンヒット。もろにフックを食らった酔っ払いはよろけ、後ろの木箱に足を引っかけて体を打ち付け、痛みに悶えていた。
――は?
だが、アネット様の快進撃も長くは続かないようだ。
「てめえ、カイムに何しやがった?」
「やったなクソアマ。ただで帰れると思うんじゃねえぞ」
「たっぷり可愛がってやるからよ、覚悟しいや」
人相の悪い連中がゾロゾロと集まってくる。
アネットお嬢様は鬼気迫る表情で相対しているが、いくらなんでも多勢に無勢だろう。
「お嬢様、こっちです」
「……っ!」
ようやくアネットお嬢様の腕を掴むと引き寄せ、近くにあったプランター類を道の真ん中へ蹴り転がした。
そのままアネット様の腕を引っ張り、可能な限りの速さで走って追っ手を撒いた。
驚いたことに、結構本気で走ってもアネット様の足並みはなかなか乱れなかった。
追っ手の姿は、みるみるうちに小さくなっていった。
「もう、大丈夫でしょう」
治安の悪い街区を走り切り、寂れた喫茶店に入ったところで二人息を切らしながら席に着いた。
走っているうちは必至で意識に上らなかったが、ここにきて筋肉痛と疲労が襲ってくる。
「お嬢様は、大きなお怪我はございませんか」
「たぶん、だいじょ、ぶ……」
マスターは何も言わず、ただ注文を聞く。まずは場所代代わりにと二人分の紅茶を頼んだ。
「ユベールは、こんなところで何をしていて?」
それは僕が聞きたい質問だ。
別に律儀に答えてやる必要もないと思うが、どうせお嬢様からの漏洩を心配する必要もないのだからと、僕は本当の嘘をつくことにした。
「アネットお嬢様と私だけの秘密ですよ」
「ええ、分かったわ」
「実は生き別れの弟が男娼街にいるのです。だから、定期的に様子を見に行っているのですよ」
案の定アネット様は驚いた顔をして応えた。
「そう……」
こんな話を信じるのも難しいかと僕がへらへら笑いながら考えていると、アネット様は予想の上を行く言葉を発す。
「私も妹がいるから、そういう気持ち、少しは分かるかもしれない」
――妹?
アネットお嬢様は末子のはずだ。妹君も弟君もいらっしゃらない。
万が一の可能性としては、ご主人様に私の知らない隠し子がいるのかもしれないが。
「あ……妹みたいに可愛がっている友達がいるの。ごめんなさい、こういう同情は迷惑かしら」
「いえいえ、勿体ないお言葉でございます。お気遣いありがとうございます。ただ、今日はちょっと兄弟喧嘩をしてしまいまして」
マスターが熱い紅茶を運んできた。
話を一時中断し、カップを一つアネット様の前に、もう一つを僕の側に置く。
「そうなのね。早く仲直りできるといいわね……」
だが、その後、僕と弟のルネが仲直りする機会は訪れなかった。
ルネが籍を置く店は僕を出禁にした。
それでも、配下を使って様子を確かめていられるうちは良かった。
* * *
夜の長い季節の、ある寒い日のことだった。
様子を探らせていた配下から、弟ルネが消息を絶ったとの連絡があった。
店でも移ったのだろうと軽く考えることにしたが、男娼街の付近に用事があったのでついでに少し探してみることにした。
昼間はそこまで人の多くない男娼街の一角に、妙な人だかりができていた。
布をかぶせられた「何か」に妙な胸騒ぎを覚え、急ぎ足でその中心に向かった。
ルネだった。
夜盗にでも襲われたのか、それとも質の悪い客と一悶着あったのか。
もう何も言わなくなったルネが、そこに横たわっていた。
発見が早く、寒い時期で腐敗までいかなかったのは幸いだった。
治安の悪い街区でこんな事件が起こるのはそんなに珍しいことじゃない。
身寄りのないルネの遺体はもとより厄介者扱いで、引き取るのに時間はかからなかった。
ご主人様の許しも得ずに弟を連れてきてしまったが、そのことについて何の咎めを受けることもなかった。
それどころか、埋葬の許可までいただいた。ゴスラン家ゆかりの神殿には葬れないが、それでも良い。
日頃の行いが良いから、最期くらいは兄らしいことがしてやれたろう?
別に、ルネが死んだのは日頃の行いが悪いからなんてことでは決してないが――
そんなことをへらへら笑いながら考えていて――疲れる。
墓穴を掘るための道具を探していたらアネットお嬢様に見つかり、そのままついてこられた。
この寒い中、お嬢様はご丁寧にコートを着込んで埋葬予定地までついてきた。
「初めましてかしら? 弟さん、ユベールに似てるわね。あ、目、開きっぱなしね……。閉じてしまってよくて?」
冷たくなった弟に話しかけていたかと思えば、こちらを見上げてそんなことを聞いてくる。
「死後硬直が始まってだいぶ経っているから、閉じるのは難しいですよ。すぐに土に還しますし、そのままゆっくりさせてやってください」
「そう。分かったわ」
さて、ご主人様の許可は頂いたのだから、早いうちに墓穴を掘ってやらないと……と思いはするが、なかなか体が動かない。
ここまでルネを運んできたのに比べればスコップなんて羽のように軽いにもかかわらず、持ち手を掴むことすらかなわない。
横に立っていたアネット様が白い息を吐きながら、いたたまれない顔をして言った。
「ご愁傷様……」
「これで罪深い弟もようやく――!」
「解放されます」と言い続けることができず、視界が少々右にブレた。同時に左頬に渇いた痛みが走る。
一瞬何が起こったのか分からず、頭の中が白く明滅した。
引っぱたかれた……!?
いくら悪魔憑きのお嬢様と言われていたって、アネット様がこれまで使用人に手を上げたことはない。少なくとも僕は聞いていない。
だから、当然の急襲に反応できなかった。いや、どこかにアネット様は手は出さないだろうという気の緩みがあったのかもしれない。
「ユベールの弟だろう! ユベール一人ぐらい弟の生き方を認めてやれよ。じゃなきゃ、誰が認めてやれるんだよ!」
僕の頬を張ったアネットお嬢様はしかし、目からじんわりと涙を滲ませながら声を張り上げて言った。
切れ長の美しいアメジストの瞳から、ほろほろと涙が零れていた。
だって、おかしいじゃないか。アネット様にとってルネは、赤の他人だろう?
「私の弟のことなのに、涙を流して下さってありがとうございます」
アネット様は手のひら同士をしきりに揉んでいた。おそらく、痛むのだろう。
「ごめんなさい。でも、だって、ユベールの弟さんだったら私の弟みたいなものだもの」
「弟のために涙一つ流せない兄に変わって泣いてくれるお嬢様がいて、弟も浮かばれると思います」
「嘘よ。だってユベール――泣いてるじゃない」
少し目を赤くしたアネット様と目が合う。
泣いている? 僕が?
自分の目尻に、人差し指を滑らせた。
確かに、指先が湿っぽくなった。
ああそうか。
僕は。
悲しかったのか――
いったいいつから自分が悲しいということにも気づかなくなっていたのだろうか。
今や僕のほうが、アネットお嬢様よりよっぽど人形じゃないか。
アネット様はスコップを持つと、僕の手にそれをつかませて言った。
「早く休ませてあげましょう、弟さんのこと。私も手伝うから」
アネット様に埋葬を手伝わせたなんて知られたら後でどんなお咎めが待っているか分からないのに、僕はそれを止める気になれなかった。
「ありがとうございます。助かります」
そう答えると、スコップを取ってようやく墓穴を掘り始めることができた。
人一人が収まる穴を掘るのは、予想以上に時間がかかる。
掘っても掘っても終わらない。掘っても掘っても掘っても掘っても掘っても掘っても掘っても掘っても……
それでも、アネット様が手伝ってくれたおかげで随分早く終わったと思う。
ルネの埋葬が終わったときには、そろそろ日が暮れ始めるかという頃合になっていたが。
「さっきは偉そうなことを言ってごめんなさい。私だって、ユベールみたいになったら妹、ううん、妹みたいに思ってる子のこと、どこまで考えていられるか分からないわ」
「弟のことを案じていただいてありがとうございます。アネットお嬢様なら大丈夫ですよ」
アネットお嬢様はどこか呆けたような表情でさらに続けて。
「ありがとう。ユベールが『大丈夫』って言ってくれると、大丈夫な気がする」
アネット様は本当に面白いお嬢様だと思う。
ただ面白いだけでなくて――感性も美しい。
最近のアネットお嬢様は奇行もそうそうなくなったのだが、まだまだご主人様の心配は尽きない。
だが、ご主人様は少し心配し過ぎだ、と僕は感じてきた。
※女体化受けでまだ男バレしないので、攻め視点のこちらだけ読むとほぼHLです。
※受けが転生前の記憶を取り戻す前の人格については哲学的ゾンビとする設定です。
生きているという嘘をついている。
僕がアネットお嬢様に感じる、素直な印象だった。穿った見方だということは承知している。
しかし、人形に仕えるのは味気ないものだ。
面白みがない。
アネットお嬢様。物静かで大人しく、親の言うことをよく聞き、我がままで人を振り回すこともない。
神の道に忠実で、ゴスラン家の氏神との縁にかかわらず精霊の祝福をよく受け、神童と謳われるほどに聡い。
見目麗しく人目を惹き付ける容貌を備えながら、世俗に流されることもない。
それだけ揃っているのだから、代々聖女を輩出しているゴスラン家においてアネットお嬢様がその候補と目されていたのは順当だったろう。
そんな「自慢のいい子」が遅れてきた反抗期に入ったのだから、周囲は大変だ。
早い娘ならもう嫁いでいるという年頃になってようやく自我が芽生えたせいか、反動は相当なものだった。
人が変わったように粗雑な言動を取るようになり、侍従を避けて部屋に引きこもる。
狼狽したご主人様が悪魔祓いの祈祷など試みたもの、当のアネット様があれでは効果の出るはずもなかった。
口さがないメイド連中の何人が舌禍でクビになっただろう。大した興味はないから、数えないが。
ただ、血のつながっている訳でもない使用人は多かれ少なかれ似たようなことを感じていた。
表には出さないだけで、僕も似たようなものだ。
そんなことを考えながら、如何にも忠実な従僕であるかのように装ってポットを持ち上げた。
へらへら笑いながら、冷めかけてきている紅茶をご主人様のティーカップに注いでいく。
湯気は立たなかった。
「そういえば、アネットは元気か」
モーリス様が覇気のない声で問う。
モーリス様――アネットお嬢様のお父君であられる――とアネットお嬢様についてお話するときは、常に離れの執務室を閉じ切ってだった。
通行に不便で暖かい飲み物はあまりお出しできないのだが、そのことについて聞くほど僕は野暮ではない。
「ええ、元気でいらっしゃいますよ。今日はご学友とブロワーヌ庭園に行かれたそうです」
「友達とはうまくやっているのか?」
「仲良くお過ごしのようです。レティシア様、ああ、いつもの話し出すと止まらないというご友人ですね、が今日もしゃべりっぱなしだったそうで、疲れたからしばらく一人で静かに過ごしたいとおっしゃっていました」
モーリス様は一瞬だけ机から目を離した。が、すぐに元の書き物に戻る。
「そうか」
「鎮静効果のあるカモミールティーをお出ししましたので、ゆっくりお休みになられていると存じますよ」
「ありがとう。何もかもユベール君に任せきりで申し訳ないな」
「とんでもないことでございます」
没落貴族、いや没役元貴族の僕がレティシア様と同じ学校に通えるのも、ご主人様のおかげだ。
そういう意味で今の言葉に偽りはない。
十二歳のとき、領地の不作続きで父が破産した。父の顔はもうあまり覚えていない。
たくましい母はさっさと父に見切りをつけて、アネット様の姉に当たるゴスラン家の長女の家庭教師に落ち着いた。
ガヴァネスの務まる母に処世術を叩きこまれたのは幸運だった。
おかげでこうして、モーリス様の厚い信任を得られている。
長いものに巻かれておけばいいだけなのだから、楽な仕事だ。
へらへら笑いながら離れの執務室を後にした。
そろそろ紅茶が切れた時間だろう。ちょっとアネットお嬢様の様子を見に行ったほうが良いか。
ちょうどアネットお嬢様の部屋に着くころ、ハンドベルの音がした。
誰が呼び出されたかは鈴の音色、それに支給されている指輪が光るかで分かるのだが、確認するまでもなかった。アネット様が呼び出すのは僕ばかりだからだ。また、ご指名か――
「アネットお嬢様」
「早くて助かるわ。入って」
「失礼します。――!?」
アネット様の部屋の戸を開けて、すぐに閉めかけた。
だって、当たり前だろう? 部屋の奥には困り顔で乱れた着衣の胸元を押さえるアネット様がいたのだから。
「早く入って、そこ閉めて」
顔を赤くしたアネットお嬢様が泣きそうな声で言う。
厄介なことに巻き込まれそうだと、心配半分興味半分の心持ちで部屋に失礼した。
「何かございましたか?」
「服の紐が解けてしまったの。ユベール、ごめんなさい、結ぶの手伝ってくれないかしら」
「失礼ながらお嬢様。他のメイドは応じなかったのですか? もしお呼びされても参らないということでしたら、私が連れて参りますよ」
「ユベールに頼んでは駄目?」
――新手の嫌がらせか?
まあいい。たとえアネットお嬢様が何か企んだとしても、悪魔憑きのお嬢様とご主人様の信認の厚い僕、どちらの言い分が通るかは火を見るより明らかだろう。
だから僕は、涼しい顔をして応えた。
「畏まりました」
「助かるわ」
アネットお嬢様の背中に回ると、お嬢様の手の届かないドレスの背中に紐を通していく。
貴族令嬢のお召し物というものは、華美で豪奢でお嬢様方の美を最大限に引き立てるように仕立てられている代償として、使用人の手を借りなければ着替えもままならないようになっている。
それでも、普通は貴族階級の女性は自分の手で着替えなどしないから問題ないのだが。
風変りなアネットお嬢様は最近メイドに触れられるのも嫌らしく、自分で結べるところは結んでしまっているとは耳にしていた。
そうでなくても、本来お嬢様の身の回りの世話など男のやる仕事ではない。
男がするには一段低いと思われている仕事を執事にやらせようとするから、アネット様は他の執事からも避けられているのだった。が、モーリス様への恩を返すにはちょうど良い仕事だ。
それに、屈辱的と考えるとアネット様の思う壺だろう。人を殺すわけでもなければ汗水流すわけでもない楽な仕事だ。そう考えることにして、へらへら笑いながらアネット様の着付けを済ませた。
「ありがとう。助かったわ。ユベールって器用なのね」
「子どものころは兄弟の着付けをしていたので、その経験が役に立ちました」
「妹がいるのね。ユベールに似て、笑顔が可愛らしそう」
「いえ、弟です。私の故郷では、子どものうちは男の子でも女の子でもドレスを着せる風習が残っているのですよ。私も着ていました。今ではとても着られませんが」
なんてこぼれ話をすると、アネットお嬢様は身を乗り出して返す。
「そんなことはないと思うわ! 今だって、ユベールだったらとっても素敵だと思う」
――今度は、そういう嫌がらせか?
が、アネット様はすぐに姿勢を正し、それ以上ドレスのことについて話してはこなかった。
「ユベールの時間を取らせて悪かったわね。ありがとう。仕事に戻って頂戴」
「礼には及びません。アネット様のお世話も、大事なお仕事です」
そう答えると、アネット様はうすぼんやりとした表情でうわごとの様に呟く。
最近時折見せる、どこか世界から切り離されているような儚げな顔で呟く。
「そうね。仕事よね……」
「さて、私は他の仕事もありますのでこれで失礼します。何かございましたらまたお呼び下さい」
「ええ、ありがとう」
そうして僕はアネット様の部屋を後にした。
昔と比べたら、ずいぶん面白いお嬢様に育ったものだ。
* * *
曲がりなりにも貴族出身の母をもった僕は、運が良かったと思う。
幼い頃は兄弟水入らずと育った弟も、腹違いだったから父が破産したときに生き別れになった。
それから彼ら母子がどう暮らしてきたかは知らない。
男娼街で弟を見たときは本当に驚いた。
それから暇を見ては弟に指名を入れるようになった。
別に罪滅ぼしとかそういう意図があった訳じゃない。ただ金なんて溜まる一方で使い道がないから、経済に回ればいいと思っただけだ。
だいたいいつも弟は疲れを溜めているから、積もる話より寝かせてやっていることが多い。
「ルネ。起きろ。時間だ」
僕は無邪気に眠っている弟のルネを起こそうと、その体を軽く叩いた。
弟は寝息を止め目尻を泳がせると、寝ぼけまなこを腕でこすった。
「ふぁ! あぁ……もうそんな時間か。寝すぎて背中が痛い。兄さん、背中揉んでよ」
とても一つ違いの弟には思えない、あどけない声で甘えてくる。
それもそのはずで、ルネは声変わりを迎えていなかった。否、声変わりを殺した、というほうが正しい。
変声期を迎える前に去勢を受けると、声変わりせず少年の声を残すことができる。それが好事家によく売れるらしい。
変声期を殺したルネの、翼でも生えているかのような声はとても美しかった。
「まったく、どちらが客だか分からないな」
「ははっ」
そのまま体を転がしてうつ伏せになる弟の、腰をごりごりと揉みほぐしてやる。
確かに硬かった。できるなら、もう少し良い寝床を用意してやりたい。
「ん。ありがと、兄さん。ああ、そういえばさ、話忘れてたんだけど」
「何だ」
ルネはにこりと微笑みながら起き上がり、寝台のへりに座った。
嬉しそうに、続ける。
「自慢していい?」
「何だ?」
「聞いてよ、ボクさ、ついに一位になったんだよ。すごくない?」
「一位?」
「そう、一位。この店で今一番買われてんのがボクってこと。凄いでしょう凄いでしょう。ね、褒めてよ」
例えば今の声がアネットお嬢様のものだったら、僕は迷わず「素晴らしいことでございます」と賛辞を送れていただろう。
しかし弟のルネには、いや、弟だからこそ、ルネの言葉を素直に受け入れられなかった。
表情に出さないということすら、弟相手にはできなかった。
「あ、ああ……」
別に、男娼に求められているのは閨事ばかりじゃない。
特に、ルネのようにソプラノの声を持つ男娼は朗読から歌唱から技芸で客の心を引き付けることだって十分できる。
いや、そもそも閨事で身を立てたからといって、ルネに貴賤が付く訳では――
「兄さん? ――ああそうか。そうなんだ。ははっ。あはははっ。ははははははははははははははははははははは」
ルネは頭をかき上げながら、取り乱したように笑い声をあげた。
「兄さんはいいよねえ? お貴族サマに仕えてお上品に暮らしてればいいんだからさ。だから、可哀そうなボクのこと内心では蔑んでたんだ?」
「それは違う」
「何が違うっていうんだよ! 冷やかしなら帰ってよ! ボクは兄さんなんかいなくたって稼げるんだ!」
「ルネ!」
「ほら、お客さんのお帰りだ!」
取りなすこともできず、男娼宿の下男に店の外まで引きずり出された。
燕尾服を破かれなかったのは不幸中の幸いだろう。
今日のところはルネの腹の虫を収めるのは難しいか、と屋敷に戻る途中。なんとなく馴染みのある視線を感じた。
「……!!」
悪魔憑きのアネットお嬢様がついに徘徊しだしていても別に驚きもしないが、尾行ならもっとうまくやって欲しいなと思う。
お嬢様が荒唐無稽なことを言ったところで本気にする者もいないだろうから、僕も気にせず帰るが。
「嬢ちゃんいくら? お、いい体してんじゃん。ちょっとレアドロップ引き当てて大金入ったからさ、いくらでも出すから相手してよ」
「や……っ」
――世話が焼ける。
このような場所で突っ立っているから、アネット様は酔っ払いに立ちんぼか何かと間違われたようだ。
「今空いてんでしょ。金ならあるからさ……来いよオラ」
対応が遅れた僕自身に苛立ちながら、アネット様目掛けて全速力で駆けた。
が、次の瞬間、僕は信じがたい光景を目の当たりにした。
「離せよバカヤロウ!」
そう啖呵を切ったアネットお嬢様は、酔っ払いの腕を振り払い間髪入れずに男のみぞおちに強フックを放った。
クリーンヒット。もろにフックを食らった酔っ払いはよろけ、後ろの木箱に足を引っかけて体を打ち付け、痛みに悶えていた。
――は?
だが、アネット様の快進撃も長くは続かないようだ。
「てめえ、カイムに何しやがった?」
「やったなクソアマ。ただで帰れると思うんじゃねえぞ」
「たっぷり可愛がってやるからよ、覚悟しいや」
人相の悪い連中がゾロゾロと集まってくる。
アネットお嬢様は鬼気迫る表情で相対しているが、いくらなんでも多勢に無勢だろう。
「お嬢様、こっちです」
「……っ!」
ようやくアネットお嬢様の腕を掴むと引き寄せ、近くにあったプランター類を道の真ん中へ蹴り転がした。
そのままアネット様の腕を引っ張り、可能な限りの速さで走って追っ手を撒いた。
驚いたことに、結構本気で走ってもアネット様の足並みはなかなか乱れなかった。
追っ手の姿は、みるみるうちに小さくなっていった。
「もう、大丈夫でしょう」
治安の悪い街区を走り切り、寂れた喫茶店に入ったところで二人息を切らしながら席に着いた。
走っているうちは必至で意識に上らなかったが、ここにきて筋肉痛と疲労が襲ってくる。
「お嬢様は、大きなお怪我はございませんか」
「たぶん、だいじょ、ぶ……」
マスターは何も言わず、ただ注文を聞く。まずは場所代代わりにと二人分の紅茶を頼んだ。
「ユベールは、こんなところで何をしていて?」
それは僕が聞きたい質問だ。
別に律儀に答えてやる必要もないと思うが、どうせお嬢様からの漏洩を心配する必要もないのだからと、僕は本当の嘘をつくことにした。
「アネットお嬢様と私だけの秘密ですよ」
「ええ、分かったわ」
「実は生き別れの弟が男娼街にいるのです。だから、定期的に様子を見に行っているのですよ」
案の定アネット様は驚いた顔をして応えた。
「そう……」
こんな話を信じるのも難しいかと僕がへらへら笑いながら考えていると、アネット様は予想の上を行く言葉を発す。
「私も妹がいるから、そういう気持ち、少しは分かるかもしれない」
――妹?
アネットお嬢様は末子のはずだ。妹君も弟君もいらっしゃらない。
万が一の可能性としては、ご主人様に私の知らない隠し子がいるのかもしれないが。
「あ……妹みたいに可愛がっている友達がいるの。ごめんなさい、こういう同情は迷惑かしら」
「いえいえ、勿体ないお言葉でございます。お気遣いありがとうございます。ただ、今日はちょっと兄弟喧嘩をしてしまいまして」
マスターが熱い紅茶を運んできた。
話を一時中断し、カップを一つアネット様の前に、もう一つを僕の側に置く。
「そうなのね。早く仲直りできるといいわね……」
だが、その後、僕と弟のルネが仲直りする機会は訪れなかった。
ルネが籍を置く店は僕を出禁にした。
それでも、配下を使って様子を確かめていられるうちは良かった。
* * *
夜の長い季節の、ある寒い日のことだった。
様子を探らせていた配下から、弟ルネが消息を絶ったとの連絡があった。
店でも移ったのだろうと軽く考えることにしたが、男娼街の付近に用事があったのでついでに少し探してみることにした。
昼間はそこまで人の多くない男娼街の一角に、妙な人だかりができていた。
布をかぶせられた「何か」に妙な胸騒ぎを覚え、急ぎ足でその中心に向かった。
ルネだった。
夜盗にでも襲われたのか、それとも質の悪い客と一悶着あったのか。
もう何も言わなくなったルネが、そこに横たわっていた。
発見が早く、寒い時期で腐敗までいかなかったのは幸いだった。
治安の悪い街区でこんな事件が起こるのはそんなに珍しいことじゃない。
身寄りのないルネの遺体はもとより厄介者扱いで、引き取るのに時間はかからなかった。
ご主人様の許しも得ずに弟を連れてきてしまったが、そのことについて何の咎めを受けることもなかった。
それどころか、埋葬の許可までいただいた。ゴスラン家ゆかりの神殿には葬れないが、それでも良い。
日頃の行いが良いから、最期くらいは兄らしいことがしてやれたろう?
別に、ルネが死んだのは日頃の行いが悪いからなんてことでは決してないが――
そんなことをへらへら笑いながら考えていて――疲れる。
墓穴を掘るための道具を探していたらアネットお嬢様に見つかり、そのままついてこられた。
この寒い中、お嬢様はご丁寧にコートを着込んで埋葬予定地までついてきた。
「初めましてかしら? 弟さん、ユベールに似てるわね。あ、目、開きっぱなしね……。閉じてしまってよくて?」
冷たくなった弟に話しかけていたかと思えば、こちらを見上げてそんなことを聞いてくる。
「死後硬直が始まってだいぶ経っているから、閉じるのは難しいですよ。すぐに土に還しますし、そのままゆっくりさせてやってください」
「そう。分かったわ」
さて、ご主人様の許可は頂いたのだから、早いうちに墓穴を掘ってやらないと……と思いはするが、なかなか体が動かない。
ここまでルネを運んできたのに比べればスコップなんて羽のように軽いにもかかわらず、持ち手を掴むことすらかなわない。
横に立っていたアネット様が白い息を吐きながら、いたたまれない顔をして言った。
「ご愁傷様……」
「これで罪深い弟もようやく――!」
「解放されます」と言い続けることができず、視界が少々右にブレた。同時に左頬に渇いた痛みが走る。
一瞬何が起こったのか分からず、頭の中が白く明滅した。
引っぱたかれた……!?
いくら悪魔憑きのお嬢様と言われていたって、アネット様がこれまで使用人に手を上げたことはない。少なくとも僕は聞いていない。
だから、当然の急襲に反応できなかった。いや、どこかにアネット様は手は出さないだろうという気の緩みがあったのかもしれない。
「ユベールの弟だろう! ユベール一人ぐらい弟の生き方を認めてやれよ。じゃなきゃ、誰が認めてやれるんだよ!」
僕の頬を張ったアネットお嬢様はしかし、目からじんわりと涙を滲ませながら声を張り上げて言った。
切れ長の美しいアメジストの瞳から、ほろほろと涙が零れていた。
だって、おかしいじゃないか。アネット様にとってルネは、赤の他人だろう?
「私の弟のことなのに、涙を流して下さってありがとうございます」
アネット様は手のひら同士をしきりに揉んでいた。おそらく、痛むのだろう。
「ごめんなさい。でも、だって、ユベールの弟さんだったら私の弟みたいなものだもの」
「弟のために涙一つ流せない兄に変わって泣いてくれるお嬢様がいて、弟も浮かばれると思います」
「嘘よ。だってユベール――泣いてるじゃない」
少し目を赤くしたアネット様と目が合う。
泣いている? 僕が?
自分の目尻に、人差し指を滑らせた。
確かに、指先が湿っぽくなった。
ああそうか。
僕は。
悲しかったのか――
いったいいつから自分が悲しいということにも気づかなくなっていたのだろうか。
今や僕のほうが、アネットお嬢様よりよっぽど人形じゃないか。
アネット様はスコップを持つと、僕の手にそれをつかませて言った。
「早く休ませてあげましょう、弟さんのこと。私も手伝うから」
アネット様に埋葬を手伝わせたなんて知られたら後でどんなお咎めが待っているか分からないのに、僕はそれを止める気になれなかった。
「ありがとうございます。助かります」
そう答えると、スコップを取ってようやく墓穴を掘り始めることができた。
人一人が収まる穴を掘るのは、予想以上に時間がかかる。
掘っても掘っても終わらない。掘っても掘っても掘っても掘っても掘っても掘っても掘っても掘っても……
それでも、アネット様が手伝ってくれたおかげで随分早く終わったと思う。
ルネの埋葬が終わったときには、そろそろ日が暮れ始めるかという頃合になっていたが。
「さっきは偉そうなことを言ってごめんなさい。私だって、ユベールみたいになったら妹、ううん、妹みたいに思ってる子のこと、どこまで考えていられるか分からないわ」
「弟のことを案じていただいてありがとうございます。アネットお嬢様なら大丈夫ですよ」
アネットお嬢様はどこか呆けたような表情でさらに続けて。
「ありがとう。ユベールが『大丈夫』って言ってくれると、大丈夫な気がする」
アネット様は本当に面白いお嬢様だと思う。
ただ面白いだけでなくて――感性も美しい。
最近のアネットお嬢様は奇行もそうそうなくなったのだが、まだまだご主人様の心配は尽きない。
だが、ご主人様は少し心配し過ぎだ、と僕は感じてきた。
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