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~第三章 ノートテイク~
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「ノートテイカーは、二人が聾者を挟んで座り、交代でテイクをしてゆきます。一人が先生の話をノートに書く間、もう一人は教科書や資料をペンなどで指す役目をします」
僕達は、障害学生学習支援ルームで説明を受けていた。説明をしているのは、入学式の時に挨拶をしていた青年だ。
「ノートテイクは、先生の話を聾者に同時通訳するようなものです。なので、先生の言葉を全て書こうとすると、まず追いつきません。先生の言いたいポイントをどれだけ的確にまとめられるか、が鍵となります」
一通りの説明が終わり、僕と里香は三コマ目から実際にノートテイクをすることになった。
「では、ノートテイクをしていただく聴覚障害学生を紹介します……といっても、如月さんの方には紹介の必要はないし、幸田君も入学式の時からご存知かも知れないですが」
青年は、少し笑って言った。
里香は目を輝かす。
清楚な笑みを満面に浮かべた里菜が来たのだ。里菜が艶やかに細める目と合うと、僕も何だか体の奥がくすぐったくなり、ドクンと鼓動が脈打った。
里菜を挟み、里香と僕でノートテイクをする。
まず、僕が先生の言うことをノートにとる番をした。
しかし、先生は早口で……恐らく、普通に受けている分にはそう感じることはないのだろうが、話の内容を全てノートに書こうとすると、とてつもなく早口で全く書ける気がしない。書いている間に先生が次の話に進み、今書こうと思っていたことも忘れる。
さらに、そんな調子だからノートに書く字もミミズが這ったような汚い字になってしまい、読めたものじゃない。
ふと里菜を見ると、清楚な顔の眉間に皺を刻み、明らかに不機嫌な表情になっていた。
(まずい、ちゃんとノートをとらなくては……)
しかし、ちゃんとしようとすればするほど、やはりうまくいかず、字は汚く、先生の話の論点を伝えられなくなっていく。
その時、ついに堪忍袋の緒が切れた里菜が、ノートを奪いこんなことを書いた。
『ちゃんとやって! 字は汚ないし、先生の話も全然分からない』
そして、僕をキッと睨んだ。
(怒られた……)
ちゃんとやろうとはしているのだけど、自分の能力がついていかないんだ。
僕は、小さくなった。
『すみません』
ノートにそれだけ書いて僕の番は終わったのだった。
僕は里香と役割を交代した。里香がノートをとる。
僕は、教科書の対応する部分をペンで指す。ペンで指しながら、ノートの様子を伺っていた。
(綺麗……見やすい!)
そう思った。
先生の話を簡潔に、的確に纏めて、尚且つ丁寧にノートにとっている。僕のとった汚いノートと比べると、それはさながら芸術だった。
「お疲れ様」
ノートテイク後、里香が意味ありげに笑いながら言う。里菜は、左腕の上をグーに握った右手でトントンと叩いた。
『お疲れ様』という手話らしい。
清楚な笑顔が戻り、もうすっかり機嫌が直っているように見えた。しかし、僕の気持ちは晴れない。
里菜と里香が手を巧みに動かし『話』をしている。時折、笑顔が溢れたり眉間に皺を寄せたりする。
でも、僕はそのやりとりに入っていけない。何とも言えない疎外感が僕を襲って、やるせなくなった。
里菜が、僕に手を振りながら笑顔で去って行った。
「初めてのノートテイク、どうだった?」
里香が、やはり意味ありげな含み笑いを浮かべる。
「見て分かるだろ。ボロボロだよ」
「でも、お姉ちゃん、初めてにしては見込みあるって言ってたよ」
「まさか。お前のテイクと全然違ったじゃん」
「私は小さい時から、お姉ちゃんの耳の代わりしてたから、当たり前。あんたは身近にそういう人、いないでしょ?」
「まぁ、そうだけど……」
「ともかく。『音のない世界』での講義なんて、今のあんたには想像もつかないでしょ。まずは、そこからよ」
やはり悪戯な笑みを浮かべて言う。
「じゃあ、次の講義、頑張ってねー」
「次って、僕らが受ける講義じゃんか」
「そ、頑張るの」
里香は片目を瞑ってウィンクし、僕のでこを人差し指でポンと軽く押した。
『音のない世界』での講義。
そう、里香は言っていた。
僕は、音のある、先生の声を聞くことのできる世界で講義を受けている。それが、『音のない世界』ではどうなるのだろう?
僕は鞄から耳栓を出し、自分の耳につけた。また『音のない世界』に閉じ込められる。
先生の声も、黒板に書くチョークの音も、学生達の声も聞こえず、周囲の壁が自分に向かって迫りくるように教室が狭く感じる。
こんな世界で、どうやって講義を受ける?
頼れるのは目に映るものだけ。
黒板に書かれる字。
先生の身振り手振り。
先生の口の動き。
それらしか頼りにすることができない
今まで意識せずとも自然に耳から入ってきた情報が、目に意識を集中し読み取ることでしか自分のものにする術がない。
周りの学生達が一度に笑顔を浮かべた。
何故? 先生が冗談を言ったから?
周りの反応の理由が、『音のない世界』にいる僕には皆目見当がつかない。
こんな状況の中で、講義を受けることなんて可能なのだろうか?
初めて経験する僕には、なす術がなかった。
「『音のない世界』で受ける講義、どうだった?」
講義後、里香が笑顔で尋ねた。もう耳栓を外していたのだが、僕のやっていたことはお見通しだったみたいだ。
「今まで当たり前に耳から入ってきた『声』がなくなるって……こんなに恐怖なんだって思った。目で見るものしか頼りにできない。そんな状況で、講義を受けるなんて……」
「そうね。本来は耳が聞こえない状況だったら『生きていく』のが精一杯。でも、お姉ちゃんも、ここにいる聾者の学生も、そんな状況を乗り越えて……自分で打破して講義を受けるの。だから、それをサポートする側も、生半可な気持ちでやってはいけない。だって、聾者にとっては『目に映ること』が全てなんだから。聾者の『目に映ること』は的確で、絶対に間違えてはいけないの」
里香は凛とした目を僕に向ける。
そんな彼女は、僕と同年齢とは思えないほど大人で……僕は思わずドキドキした。
「『目に映ること』が全て……」
僕は、里香の言葉を反復する。
『音のない世界』に住む彼女らと、僕は真剣に向き合いたい。
いつでも……紙とペンのない時でも彼女らの想いを知り、僕の想いを伝えたい。
だから、僕は……
「僕、手話を習う」
「えっ?」
「里香とお姉さんが手話で話していた時……何かこう、自分って聾者のことを何も知らないんだって思った。目で見ることしか頼れない世界に住む、そんなお姉さんや聾者の人達の『言葉』が分かるようにならなかったら、聾者のことを本当に知ることはできないと思うんだ。だから僕は『手話サークル』に入る」
僕は、生まれて初めて自分の意志で、自分の決意を語った。
僕達は、障害学生学習支援ルームで説明を受けていた。説明をしているのは、入学式の時に挨拶をしていた青年だ。
「ノートテイクは、先生の話を聾者に同時通訳するようなものです。なので、先生の言葉を全て書こうとすると、まず追いつきません。先生の言いたいポイントをどれだけ的確にまとめられるか、が鍵となります」
一通りの説明が終わり、僕と里香は三コマ目から実際にノートテイクをすることになった。
「では、ノートテイクをしていただく聴覚障害学生を紹介します……といっても、如月さんの方には紹介の必要はないし、幸田君も入学式の時からご存知かも知れないですが」
青年は、少し笑って言った。
里香は目を輝かす。
清楚な笑みを満面に浮かべた里菜が来たのだ。里菜が艶やかに細める目と合うと、僕も何だか体の奥がくすぐったくなり、ドクンと鼓動が脈打った。
里菜を挟み、里香と僕でノートテイクをする。
まず、僕が先生の言うことをノートにとる番をした。
しかし、先生は早口で……恐らく、普通に受けている分にはそう感じることはないのだろうが、話の内容を全てノートに書こうとすると、とてつもなく早口で全く書ける気がしない。書いている間に先生が次の話に進み、今書こうと思っていたことも忘れる。
さらに、そんな調子だからノートに書く字もミミズが這ったような汚い字になってしまい、読めたものじゃない。
ふと里菜を見ると、清楚な顔の眉間に皺を刻み、明らかに不機嫌な表情になっていた。
(まずい、ちゃんとノートをとらなくては……)
しかし、ちゃんとしようとすればするほど、やはりうまくいかず、字は汚く、先生の話の論点を伝えられなくなっていく。
その時、ついに堪忍袋の緒が切れた里菜が、ノートを奪いこんなことを書いた。
『ちゃんとやって! 字は汚ないし、先生の話も全然分からない』
そして、僕をキッと睨んだ。
(怒られた……)
ちゃんとやろうとはしているのだけど、自分の能力がついていかないんだ。
僕は、小さくなった。
『すみません』
ノートにそれだけ書いて僕の番は終わったのだった。
僕は里香と役割を交代した。里香がノートをとる。
僕は、教科書の対応する部分をペンで指す。ペンで指しながら、ノートの様子を伺っていた。
(綺麗……見やすい!)
そう思った。
先生の話を簡潔に、的確に纏めて、尚且つ丁寧にノートにとっている。僕のとった汚いノートと比べると、それはさながら芸術だった。
「お疲れ様」
ノートテイク後、里香が意味ありげに笑いながら言う。里菜は、左腕の上をグーに握った右手でトントンと叩いた。
『お疲れ様』という手話らしい。
清楚な笑顔が戻り、もうすっかり機嫌が直っているように見えた。しかし、僕の気持ちは晴れない。
里菜と里香が手を巧みに動かし『話』をしている。時折、笑顔が溢れたり眉間に皺を寄せたりする。
でも、僕はそのやりとりに入っていけない。何とも言えない疎外感が僕を襲って、やるせなくなった。
里菜が、僕に手を振りながら笑顔で去って行った。
「初めてのノートテイク、どうだった?」
里香が、やはり意味ありげな含み笑いを浮かべる。
「見て分かるだろ。ボロボロだよ」
「でも、お姉ちゃん、初めてにしては見込みあるって言ってたよ」
「まさか。お前のテイクと全然違ったじゃん」
「私は小さい時から、お姉ちゃんの耳の代わりしてたから、当たり前。あんたは身近にそういう人、いないでしょ?」
「まぁ、そうだけど……」
「ともかく。『音のない世界』での講義なんて、今のあんたには想像もつかないでしょ。まずは、そこからよ」
やはり悪戯な笑みを浮かべて言う。
「じゃあ、次の講義、頑張ってねー」
「次って、僕らが受ける講義じゃんか」
「そ、頑張るの」
里香は片目を瞑ってウィンクし、僕のでこを人差し指でポンと軽く押した。
『音のない世界』での講義。
そう、里香は言っていた。
僕は、音のある、先生の声を聞くことのできる世界で講義を受けている。それが、『音のない世界』ではどうなるのだろう?
僕は鞄から耳栓を出し、自分の耳につけた。また『音のない世界』に閉じ込められる。
先生の声も、黒板に書くチョークの音も、学生達の声も聞こえず、周囲の壁が自分に向かって迫りくるように教室が狭く感じる。
こんな世界で、どうやって講義を受ける?
頼れるのは目に映るものだけ。
黒板に書かれる字。
先生の身振り手振り。
先生の口の動き。
それらしか頼りにすることができない
今まで意識せずとも自然に耳から入ってきた情報が、目に意識を集中し読み取ることでしか自分のものにする術がない。
周りの学生達が一度に笑顔を浮かべた。
何故? 先生が冗談を言ったから?
周りの反応の理由が、『音のない世界』にいる僕には皆目見当がつかない。
こんな状況の中で、講義を受けることなんて可能なのだろうか?
初めて経験する僕には、なす術がなかった。
「『音のない世界』で受ける講義、どうだった?」
講義後、里香が笑顔で尋ねた。もう耳栓を外していたのだが、僕のやっていたことはお見通しだったみたいだ。
「今まで当たり前に耳から入ってきた『声』がなくなるって……こんなに恐怖なんだって思った。目で見るものしか頼りにできない。そんな状況で、講義を受けるなんて……」
「そうね。本来は耳が聞こえない状況だったら『生きていく』のが精一杯。でも、お姉ちゃんも、ここにいる聾者の学生も、そんな状況を乗り越えて……自分で打破して講義を受けるの。だから、それをサポートする側も、生半可な気持ちでやってはいけない。だって、聾者にとっては『目に映ること』が全てなんだから。聾者の『目に映ること』は的確で、絶対に間違えてはいけないの」
里香は凛とした目を僕に向ける。
そんな彼女は、僕と同年齢とは思えないほど大人で……僕は思わずドキドキした。
「『目に映ること』が全て……」
僕は、里香の言葉を反復する。
『音のない世界』に住む彼女らと、僕は真剣に向き合いたい。
いつでも……紙とペンのない時でも彼女らの想いを知り、僕の想いを伝えたい。
だから、僕は……
「僕、手話を習う」
「えっ?」
「里香とお姉さんが手話で話していた時……何かこう、自分って聾者のことを何も知らないんだって思った。目で見ることしか頼れない世界に住む、そんなお姉さんや聾者の人達の『言葉』が分かるようにならなかったら、聾者のことを本当に知ることはできないと思うんだ。だから僕は『手話サークル』に入る」
僕は、生まれて初めて自分の意志で、自分の決意を語った。
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