音のない世界を裂く!

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~第九章 リハーサル~

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 手話サークル合宿も二日目。

『なぁ、君に伝えたいんだ。
君のことが好きなんて言うのも
僕は照れるけれど』

 音楽に合わせて手話、口話、そして……『表情』をつける。この曲の主人公の気持ち……分かるような気がする。体の内面からくすぐったくて、むず痒くなっていく、この気持ち。
 沙羅を見ると……何故だか、この曲を演じることに、魂が入ってしまうんだ。

「たっくん、メッチャ表情、良くなった!」
 パンダが爽やかな笑顔で言う。
「うん……昨日までとは、まるで別人……」
 チェリーも、赤くなって消え入りそうな声で言う。
「そ、そうですか?」
 僕は照れ臭くなる。
「そうだよ。全然違うよ。なぁ、沙羅も、そう思うよなぁ」
 パンダが、ぼんやりしてた沙羅に急に話を振った。
「え、あ……ああ、そうね。たっくん、凄く表情、良くなったわよ」
 沙羅は頬を赤らめ、慌てて取って付けたように言った。そんな彼女を見て、僕の顔も火照ってくる。
「それにしても、一日でこんなに変わるなんて……たっくん、もしかして、本当に誰かに恋をした?」
 パンダが冗談混じりにニッと笑う。僕はギクッとした。
「え……そ、そんなことないですよ」
「そうよ、パンダ。しょうもないこと言ってないで、早く練習再開するわよ」
 沙羅も慌てた様子でCDの調整に入る。
「いや、しょうもないことって……沙羅が昨日、たっくんに言ったんじゃんか」
 理不尽な物言いに、パンダは不満そうな顔をする。
「そ、そんなの、冗談に決まってるじゃない。きっと、たっくんもみんなの表情の作り方を見て、学んで上達したのよ。何たって、たっくんは真面目なんだから」
 CDの調整を終えた沙羅と目が合う。
 すると、沙羅の頬は少し赤くなり……僕の顔も火照り始めて、お互いに目を逸らした。
「何だ、変なの」
 パンダは腑に落ちない様子だ。
 しかし、チェリーは、そんな僕と沙羅の様子をじっと見つめていた。
 再開した練習でも、僕の『表情』は絶好調で……いつも魅せられる沙羅の『表情』も、最上級に磨きがかかっていた。

「ねえ……」
 練習の間の休憩中。
 いつも赤いチェリーが、やはりサクランボのように赤くなって僕の元へ来た。いつも小さな声を、より消え入りそうなくらい小さくして、そっと僕に話し掛ける。
「沙羅さんと……何かあった?」
「えっ……い、いや、何も……」
 心臓が跳ね上がった。
 パンダは何も気付いていないようだったが、やはり『女性の勘』は何かを感じ取っていたようだ。
「やっぱり……何かあったんだ」
 否定したのに、バレバレみたいだ。僕は頭を掻く。
「う……ん……僕、昨日からあの人を見ると、変なんです。何かこう……切なくなるというか、苦しくなるというか……。何か、こう……初めて感じる気持ちなんです」
 すると、チェリーはやはり赤いながらも、つぶらな瞳をそっと細めた。
「恋……よね」
「え、いや……そんなんじゃないですよ。多分……」
 大慌てで言う僕に、チェリーはニコッと笑った。
「私も、そう」
「えっ?」
「私も……去年、同じだった。去年……この合宿で、初めて恋をした」
「え、そ……そうなんですか?」
 驚きの発言に仰天した。
(チェリーも、恋? それも、去年のこの合宿で!?
 相手は誰なんだろう……?)
 聞きたいことは山ほどあったのに、休憩時間は間も無く終わる。
「沙羅さんは、きっと……難しいと思うけど、頑張って……。それが、手話コーラスの一番の上達に繋がるから……」
 やはり真っ赤な微笑みを浮かべるチェリーは、聞こえるか聞こえないくらいの声でそう言った。


「さて……ついに、明日はリハーサルよ。みんなの手話コーラスを見ることもできるし……私達の手話コーラスを見て貰える。気合い入れて、頑張るわよ」
 どことなく、心ここにあらずのように見える沙羅はそう言った。
「リハーサルでは……本番さながらにするの。だから、立ち位置を決めて移動なんかも練習しなくちゃいけない」
「そう、そう。間奏で寸劇入れたりもするんだよな。『恋唄』の場合は、やっぱり男が自分の恋心を女に伝える、みたいな」
 パンダがそう言った途端、僕は沙羅と目が合った。お互い、赤くなって目を逸らす。
 その様子を見たチェリーの顔に、笑みが浮かんだような気がした。

「沙羅……さん、たっくんの寸劇の指導……お願いします」
「えっ、チェリー、何言ってんの? たっくんのペア、チェリーでしょ!?」
 突然の思いがけない提案に、沙羅は真っ赤になって大慌てする。
「でも……演技、沙羅さんの方が上手いし……多分、その方がたっくんもすぐに上達できるから……」
「考えてみたら、そうだよな! じゃあ俺は、チェリーを教えるよ」
 チェリーのお節介な提案にパンダも乗る形となり、僕は沙羅のマンツーマンの指導を受けることになった。顔に血が上ってゆき、かぁっと熱くなっていくのを感じた。

「……さぁ、この間奏での寸劇。男……あなたが私の手首を取って……手の甲を撫でるように『愛してる』って手話をするの。やってみて」
 沙羅が目を逸らしながら言う。
「……はい」
 僕もどうしても彼女の瞳を見ることができない。
 CDから早いテンポの音楽が流れ、僕達は全身で『音楽』を表現し……『寸劇』を行う間奏に差し掛かった。
 僕は沙羅に近付き……手首を持つ。
 沙羅は少し驚いたように目を丸くし、僕を見る。手の甲を撫でる仕草をし、『愛してる』の手話をする。
 愛しい……抱き締めたい。
 『あの時』感じた、その想いを込めて。
 沙羅は瞳に歓喜の光を輝かせ、僕を見つめる。そんな沙羅の光が僕を明るく照らす。
 僕の心は彼女の瞳に吸い込まれる。
 僕の意識も吸い込まれて、『自分』が『自分』でなくなってゆく……。

「寸劇終わり……手話コーラスに戻る部分よ」
 沙羅が真っ赤な顔で言う言葉に、僕の意識は引き戻された。
 僕の顔はカァーッと火照ったまま、まだその熱が抜けない。

 演技……?
 沙羅のそれは、物凄い『吸引力』があった。『想い』を伝える僕の心を吸い込み、僕が『僕』でなくなった。
 『恋』って、こんな感じ?
 想う人に吸い込まれ、『自分』が『自分』でなくなってゆく……。
 『恋唄』……分かった。
 何だか、分かったような気がする。

 僕は今度は、沙羅を真っ直ぐ見つめた。
「沙羅……さん。僕、分かってきたような気がします」
「えっ?」
「『本物の手話コーラス』……それは『手話』で『言葉』を伝えること、『表情』で『気持ち』を伝えること、『体全体』で『音楽』を伝えること。そして……自分の『魂』で『相手』……『見る人』の『魂』を揺さぶること」
「そうね」
 沙羅は瞳を優しく細め、微笑んだ。
「『手話コーラス』……それは、『音楽』で『見る人』の心を振動させる。それにはね、自分が伝える『音楽』になりきる……『音楽』そのものにならないといけない。『恋唄』は、男の子が自分の愛する女性に溢れんばかりの想いを伝える歌。『音楽』を奏でて……魂を揺さぶって、『見る人』にその『音楽』の主人公になってもらうの。そして、『見る人』の忘れられない一瞬にする……それが、私達の目指している『本物の手話コーラス』よ」
 その言葉が、僕の心に染み渡った。
 やっぱり、この人……沙羅さんは偉大だ。

 僕は、決意を込めて沙羅を見つめた。
「沙羅さん。僕達、明日のリハーサルでは……『本物の手話コーラス』を先輩方に見てもらいましょう。そして、先輩方の『忘れられない一瞬』にする。沙羅さんの……僕達のやってきたことは間違ってなんかない、こんなに素敵なコーラスを作り上げたんだって……そのことを証明しましょうね!」

 沙羅は少し丸くした目を、すぐに優しく細め顔を赤らめた。
「そうね……ありがとう。明日のリハーサルでは……かっくんに見せつけてやるわ。私達は決して間違ってなかったって」
 優しく、しかし力強く沙羅は言った。
 その言葉を聞いた僕は、嬉しかったけれど……何ともいえない切なさを感じた。
 僕の初めて恋したこの人の心には、やっぱり前の恋人がいる。
 沙羅さんが無意識のうちにでも発した『かっくん』という名前……そして、その言葉を発した時の目の奥の愁いを感じて、そう実感したんだ。

 手話サークル合宿のリハーサルは、本番通りの順番で、本番さながらに行われる。
 全部で七曲行われるうち、『恋唄』の順番は四番。つまり、全てのコーラスのど真ん中、一番盛り上げるべきポジションだ。
 ドクンドクンと鼓動を鳴らしながら、自分以外の手話コーラスを見る。一曲目のグループが体育館の舞台上でそれぞれのポジションにつき、下を向いている。
 最初の曲は、陽だまりのような『春風の約束』。音楽がスタートした瞬間に、舞台上の皆が顔を上げる。
 春の陽射しが降り注ぎ、爽やかな風が吹き抜ける。
 僕は、皆が演じる『音楽』に惹き込まれる。
 やはり皆それぞれ個性があり、得意分野……つまり、手話が見惚れるほどに綺麗な人、『表情』が上手くて溢れんばかりの気持ちが伝わってくる人、『体の動き』がダイナミックでまるでダンスを演じているかのような人……それぞれに魅力を感じるが、それらは全て調和していて、皆で一つの『音楽』を奏でている。そして、自分もその『音楽』に吸い込まれ、主人公となる……。
 やはり、このサークルの奏でる『手話コーラス』は本物だ。そう思った。
 舞台中央の前に置かれた椅子に座り、先輩達もじっと見入る。一昨日、僕達の講評をした時とはまるで別人で……『音楽』に吸い込まている。
 その瞳には、じんわりと涙が浮かんでいるようにも見えた。
 二曲目は、『FROZEN SKY』。冷たい空の下、展開される切ないストーリー。
 それを見ている誰もの頬に涙が伝った。

 三曲目の『Signal』が始まると同時に、僕達、『恋唄班』は円陣を組んだ。
「みんな、ついにリハーサル。本番だと思って……自分を信じて、力一杯いくのよ。失敗を恐れないで。先輩達に、私達の『本物の手話コーラス』見せつけてやりましょう」
「はい!」
 僕達は、声を合わせた。
 沙羅の目には決意の炎が灯っている。
 昨日までの『恋する女性』とはまるで別人……しかし、舞台上では本物の『恋』をするのだ。そんな彼女だからこそ、皆が付いて行く。そして、『本物の手話コーラス』を作り上げることができるのだ。
 『恋唄』のリハーサルがついに始まる。
 暗い舞台上の真ん中、僕とチェリーが隣合う位置に着く。そして、その背後にはパンダと沙羅が隣合う位置に着き、僕達は下を向く。

 『ドクン、ドクン』と鼓動は跳ね上がる。照明の消えた薄暗さの中、静謐な瞬間がその場を包み込む……。
 次の瞬間!
 躍動感溢れるサウンドが流れ出し、僕達は顔を上げた。
 僕達はこの音楽……『恋唄』の主人公になる。
 すました顔だけど、実は寂しがり屋の少女。彼女に溢れんばかりの恋心を伝えようとする、熱い気持ちを抱く少年。少女は最初は恥じらうが、徐々に少年の気持ちに心を開いてゆく……。
 そのストーリーを僕達は、体全体を使って演じる。音楽に乗せた手話は、観客席全体に僕達の溢れんばかりの恋心を響かせる。恋する主人公の高揚感、それは、観る者全てをワクワクさせる。
 音楽の間奏……沙羅とパンダが背後で『手話コーラス』を演じる間、僕は恥じらうチェリーの元へ駆け寄る。その顔はいつものように赤いが、『恋唄』の主人公の少女……すました所のある寂しがり屋さんになり切っている。僕が彼女の手首を持って手の甲を撫でる仕草をすると、彼女は照れながらも、歓喜の輝いた眼差しを僕に向ける……。
 僕達の表情、それは音楽の奏でるストーリーの情景、高揚感、主人公の気持ち……その全てを表現し、観る者を僕達の音楽の中へ誘う。そして、観客全てはその音楽の主人公になる……。
 聞こえる、聞こえないは関係ない。
 サークルの方針の対立も、関係ない。
 そこにいる者全てが『恋唄』と一つになる。そこにいる者全てが、少年の溢れんばかりの恋心を抱き、少女のように恥じらいながらも歓喜の笑みを浮かべる……。
 最後のフレーズ……『僕は、あなたと生きてゆく』。その決意を込めた『行く』という手話……下に向けた人差し指を力強く前へ上げた瞬間、僕の心の中に言い様のない感情が湧き上がった。
 それは、『恋唄』の少年の気持ちの高ぶり、少女へ気持ちを伝えることのできた喜び、そして、少女の想いを知った感動。その少年になるという『夢』……『演技』から醒めた自分の、『演じ切った』という達成感。言葉では言い表せない快感……。
 それらが、熱い気持ちの激流となって僕の胸に流れ込む。
 そして、僕は泣きそうなくらいに実感したんだ。僕は、今日、この場所で『恋唄』の主人公になれて……みんなにこの『音楽』を伝えることができて良かったって。 

 僕達の手話コーラスを照らすライトが消えるとともに、その体育館は観客達の拍手に包まれた。
 僕達は今、自分達にできる限りを出し切った。僕は、確かにそう思った。
 薄暗い舞台を捌ける。僕の目には、じんわりと涙が滲み出し、チェリーの頬にも涙が伝っていた。

 残り三曲は、やり遂げたという達成感とともに、僕達も観客となった。観客がそれぞれの曲の主人公になりきる……手話サークル『歩み』の手話コーラスには、観るものを『音楽』へ吸い込む力がある。
 先輩達が観客となり……曲の主人公となる横で、僕達もそれぞれに『音楽』に吸い込まれ、笑ったり、怒ったり、泣いたり、そんな感情が湧き上がっていた。
 リハーサル終了とともに、体育館の彼方此方から感嘆の溜息が漏れたのだった。
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