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~最終章 音のない世界を裂く!~
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「みんな! ついに、この日がやってきたわね!」
新交祭当日……本番の日。
社福棟の教室に皆を集めた沙羅は飛び切りの笑顔だった。
そして、サークル員のみんなもはじけんばかりの笑顔になる。
沙羅の笑顔が太陽のようにサークル員みんなを照らして、みんなが笑顔になる……本当に、最高の部長だ。そう思った。
「みんな! 本当に今日まで、このサークルの方針に……『本物の手話コーラス』を作り上げる、そんな方針について来てくれて、ありがとう! 楽しいはずのサークルで厳しいことも沢山言ってしまったし、私自身、自分のやり方に自信をなくした時もあった。でも……みんなの手話コーラスが完成に近付くにつれて、厳しい中でも、みんなの楽しそうな笑顔を見る度に、みんなと一緒に『本物の手話コーラス』を目指すことができて良かった。そう思ったんだ」
それは、何一つ飾らない彼女の『本物の気持ち』だった。
「だから、今日はみんな、失敗を恐れないで! やるべきことはみんな、今までやってきたんだから。自由に楽しく手話コーラスをやろう!」
それは、どちらかというとかっくんの方針……彼女とは相反する方針だけど、本番の直前にそれを語る沙羅の想いに、熱いものが込み上げた。
「そして……」
彼女は視線を少し僕に向け、少し微笑んだ。
「みんなで、聾者の……『音のない世界』を裂く! それが、今日の使命よ!」
「はい!」
サークル員みんなの返事が揃った。
みんなが、音のない世界を裂く……その使命に向けて、一つになった瞬間だった。
ステージは校庭に設置されている。春の太陽の下、爽やかな陽射しのもと、行われる。
サークル員はステージ裏で、各々のグループに分かれて待機する。
まず、最初に『春風の約束』、次に『FROZEN SKY』……曲が進むにつれて、ドクン、ドクンと鼓動が跳ね上がる。
三曲目『Signal』が始まると同時に、僕達『恋唄班』は円陣を組んだ。
「みんな、分かってるよね?」
「はい!」
「私達は、音のない世界を……」
「裂く!!」
皆で同時の掛け声を発して……僕達は『Signal班』のはけたステージへ向かった。
ステージを見守る観衆。
静寂が鼓動を加速して、僕の中で響き渡る。
沈黙で時が止まる……ステージ上の誰もが、微動だにしない。僕達の『音のない時間』。静まり返る、波のない時間……。
次の瞬間!それを切り裂き、躍動に溢れた『恋唄』のサウンドが流れ出す。
僕達は顔中の筋肉を使い、サウンドの『表情』を表現する。腕を上げて手を巧みに動かし……足でリズムをとり、『音楽』の旋律を奏でる。
(届け……音のない世界に住む君に!)
僕の視線が観衆の波を裂く。
体全体で『音楽』を表現する僕の視線の先……一直線上に里菜が映る。
僕が全身で奏でる音楽を『聴く』彼女は、音の持つ『宇宙』に吸い込まれる。
広く、優しく、美しい世界。
彼女の今まで知らなかった世界……。
僕は全身で音楽を表現し、そして……遠くから僕を見つめる彼女に語りかける。
(どうだい? 『音楽』って、素晴らしいだろう? ワクワクするだろう?)
生まれて初めて『音楽』に触れた里菜は感動に震え、目に涙を滲ませる……それが、ステージにいる僕にも分かった。
(もう、君に『音楽が嫌いだ』なんて言わせない。『音が聞こえないから』とも言わせない。
だって、『音楽』は誰の心も振動させるんだから。
だから、僕は……君の音のない世界を裂く!)
溢れんばかりの熱い想いを音楽に乗せる。
そして、僕は『恋唄』の主人公になる。彼女の意識も僕の奏でる『音楽』に吸い込まれ……この曲のヒロインになる。
すました顔だけど、実は寂しがり屋の里菜。彼女に溢れんばかりの恋心を伝えようとする、熱い気持ちを抱く僕。里菜は最初は恥じらうが、徐々に僕の気持ちに心を開いてゆく……。
その手話コーラスで、僕と里菜は確かに『恋唄』に登場する少年と少女になったのだ。
「お疲れ様~!」
力を込めた渾身の演技を終えた僕達は、再度社福棟の教室へ集まった。
僕は……いや、僕達は、渾身の『本物の手話コーラス』をやり遂げたんだ。その達成感が、僕の胸を熱く湿らせる。
みんなも……沙羅もチェリーもパンダも、その目に涙を浮かべているように見えた。
「やったね、みんな! 今年の手話コーラス、大成功だったよ」
沙羅がサークル員みんなの前で、溢れんばかりの笑顔になる。
今年は観客の数も例年の倍以上だったようで……それは、『今年の手話コーラスはいつもと違う』という評判、そしてコーラスが始まってからの最高の盛り上がりが多くの人達を惹きつけた。そして、僕達の手話コーラスが観客を『魅せる』手話コーラスだった。その成果だった。
「でも、みんな……これで新交祭は全て終わったわけじゃないのよ。明日には、外からのお客様との『交流会』もあるんだから。明日も、大忙しよ!」
そう。新交祭は二日あるのだが、二日目には外部のお客さんとの『交流会』をこの教室で開催する。
コーラスが終わって取り敢えず一息はついたが、まだ気は抜けないのだ。
「だけど……」
沙羅は心なしか僕の方を見て、ニコッと笑った。
「交流会の準備はほとんど済んでいるし、あとは明日、セッティングするだけ。今日はみんなお疲れだろうし、これで解散! みんな、模擬店とか、自分の行きたい所、行って来なさいな!」
「はーい!」
「やったぁ。学祭はまだまだ、これからだぁ」
みんなの晴れ晴れとした歓声が上がる。
それは勿論、このコーラスを精一杯演じ切ったからのこそ上げられる、清々しい歓声だった。
そんな歓声とともに、各々自分の目的の場所に向かう準備をしている皆の横を笑顔で通り抜けた沙羅は、僕の横ですっと目を瞑った。
「たっくん……本当に、ありがとね。あの時の言葉……とっても嬉しかった」
そして、睫毛の長い美しい目を開けて続けた。
「早く、彼女の元へ行きなよ。私も……行くからさ」
沙羅の視線の先には、ドアを開けた前で飛び切りの笑顔を見せるかっくんがいた。僕はそんな沙羅とかっくんを見て、切ないけれど温かい……そんな不思議な気持ちになったのだった。
教室を出た僕は彼女……里菜のもとへ向かった。そう。三回生の教室。
彼女には手話コーラスの後、その感想を聞かせてもらう約束をしていたんだ。
本当は、不安だった。僕はみんなと一緒にあんなに練習して、精一杯、『本当の手話コーラス』を演じ切った。
でも……本当に、彼女に音楽を伝えることができたのだろうか? 彼女の『音のない世界』を裂くことができたのだろうか?
僕の一人よがりな……自己満足にはなっていなかっただろうか?
彼女の感想がとても楽しみな反面、そんな不安が塵のように少しずつ、しかしかさ高く積もり、僕の心臓はバクバクと、口から飛び出しそうなくらいだった。
三回生の教室の前に着き……僕は、大きく深呼吸をした。
心臓のバクバクを抑えるように、かさ高く積もった不安の塵を吹き飛ばすように。
僕は恐る恐るそのドアを開けた。
(お疲れ様!)
そこにあったのは、左腕の上をグーでトントンと叩く、『お疲れ様』の手話。そして……まさに、『恋唄』の少女のように純粋な、恥じらいと感動の涙を含んだ天使のような笑顔。
その瞬間……僕の中の不安は完全に消え去った。
その代わりに、僕の目から感動の涙が溢れ出した。
僕は……やったんだ。彼女の……里菜の『音のない世界』を裂いて、彼女に音楽を伝えることができたんだ。
(どうして? 何で、泣くの?)
彼女は慌てた様子で手話で尋ねる。
しかし、僕が両手を開いて胸の前で上下させて、『嬉しい』の手話を思い切り、飛び切りの笑顔で振りまくと、彼女は安堵と可笑しさの入り混じった素敵な笑顔を僕に向けてくれたのだ。
(手話コーラス……本当に素敵だった。音を知らない……音楽を聴いたことのない私も、音楽に吸い込まれるようだったわ)
涙も落ち着いて向かいに座った僕に、彼女は手話と最高の笑顔で僕に感動を伝えてくれた。
(僕……本当は不安でした。自分のやっていることは間違ってないかって。あなたを……『音のない世界』に住むあなたを愚弄しているんじゃないかって)
手話でそんなことを話す僕の手を手の平でそっと包み込んで、彼女はすっと目を瞑り、静かに首を横に振った。
(そんなことはない。あなたは、私に教えてくれた。音の聞こえない私に、『音楽』の素晴らしさを……『音楽』を『聴く』ことのワクワクを。そして、あなたの手話コーラスを『聴いている』間、私は、『音のない世界』から抜け出すことができた。幼い頃から……私を束縛していた鎖から、解き放たれたの)
彼女の手話は難しい表現も多くて、手話を始めてまだ一ヶ月ちょっとの僕には分からない部分もあったけれど……。でも、彼女の表情、口の動き、手話に込めた気持ち……それらを全て感じて、僕の心には、彼女の想いが痛いくらいに伝わったのだ。
彼女は続ける。
(もう、私……『音楽が嫌いだ』なんて言わない。だって、あなたの奏でる音楽が、こんなにも深く私の胸に響いたんだから)
そんな彼女の言葉を『聞いて』、僕の目にはまたしても感涙が込み上げた。
それを必死で抑えて、僕は話す。
(ねぇ。里菜さんも……手話サークルに入りませんか?)
僕のその手話に彼女は少し目を丸くしたが……すぐに僕の意図を理解したように、柔らかな微笑みを浮かべた。
僕は続ける。
(今、手話サークルには聾の人はいないです。だから、基本に忠実な『標準語』は身につけることができるけど、本物の手話は知らない。だから……里菜さんは、手話サークルに必要だと思うんです)
里菜は微笑みながら頷いた。
「それに……」
僕は手話をやめて声を出した。
「あなたは、僕にも……『必要な人』だから」
手に注目していた里菜はキョトンと、不思議な目を僕に向けた。そんな彼女に、僕の顔が綻ぶ。
僕は手話を再開した。
(だから、里菜さん……僕達の手話サークルに入って下さい)
すると、里菜は白い歯を見せて目を細めた。
(ええ、分かったわ。本物の手話……あなた達に教えてあげる。今のあなた達、手話サークルなら……きっと、私達、聾者を『音のない世界』の呪縛から救ってくれる。私、そう思ったんだもの)
里菜のその言葉に、僕の胸に熱い感激が込み上げた。
(やった……ありがとうございます! じゃあ、明日……早速、僕達の交流会に来て下さい。そこで、皆に紹介しますので……)
僕が手話でそう話していた時……
「ちょっと、あんた。何、お姉ちゃんを口説いてるの?」
背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、悪戯な笑みを浮かべた里香がそこにいたのだ。
「い、いや、口説いてるとかじゃないって。ただ、里菜さんはうちの手話サークルに必要だし、それに、里菜さんも入ってくれた方が絶対に毎日楽しくなるし……」
「全くもう……まぁ、確かにあんたの手話コーラスは凄かったし、感動したけど、それで急に調子づくのもどうかと思うけど」
「え、里香も見てたの?」
「あー、ひっどーい。お姉ちゃんの隣で見てたのに。あんた、お姉ちゃんしか目に入ってなかったのね」
「い、いや、だから、本当に違うって……」
新交祭の夕暮れ時。
窓から射し込む春の夕陽に照らされて戯れ合う僕と里香を、里菜は目を細めて柔らかく見つめていた。
新交祭当日……本番の日。
社福棟の教室に皆を集めた沙羅は飛び切りの笑顔だった。
そして、サークル員のみんなもはじけんばかりの笑顔になる。
沙羅の笑顔が太陽のようにサークル員みんなを照らして、みんなが笑顔になる……本当に、最高の部長だ。そう思った。
「みんな! 本当に今日まで、このサークルの方針に……『本物の手話コーラス』を作り上げる、そんな方針について来てくれて、ありがとう! 楽しいはずのサークルで厳しいことも沢山言ってしまったし、私自身、自分のやり方に自信をなくした時もあった。でも……みんなの手話コーラスが完成に近付くにつれて、厳しい中でも、みんなの楽しそうな笑顔を見る度に、みんなと一緒に『本物の手話コーラス』を目指すことができて良かった。そう思ったんだ」
それは、何一つ飾らない彼女の『本物の気持ち』だった。
「だから、今日はみんな、失敗を恐れないで! やるべきことはみんな、今までやってきたんだから。自由に楽しく手話コーラスをやろう!」
それは、どちらかというとかっくんの方針……彼女とは相反する方針だけど、本番の直前にそれを語る沙羅の想いに、熱いものが込み上げた。
「そして……」
彼女は視線を少し僕に向け、少し微笑んだ。
「みんなで、聾者の……『音のない世界』を裂く! それが、今日の使命よ!」
「はい!」
サークル員みんなの返事が揃った。
みんなが、音のない世界を裂く……その使命に向けて、一つになった瞬間だった。
ステージは校庭に設置されている。春の太陽の下、爽やかな陽射しのもと、行われる。
サークル員はステージ裏で、各々のグループに分かれて待機する。
まず、最初に『春風の約束』、次に『FROZEN SKY』……曲が進むにつれて、ドクン、ドクンと鼓動が跳ね上がる。
三曲目『Signal』が始まると同時に、僕達『恋唄班』は円陣を組んだ。
「みんな、分かってるよね?」
「はい!」
「私達は、音のない世界を……」
「裂く!!」
皆で同時の掛け声を発して……僕達は『Signal班』のはけたステージへ向かった。
ステージを見守る観衆。
静寂が鼓動を加速して、僕の中で響き渡る。
沈黙で時が止まる……ステージ上の誰もが、微動だにしない。僕達の『音のない時間』。静まり返る、波のない時間……。
次の瞬間!それを切り裂き、躍動に溢れた『恋唄』のサウンドが流れ出す。
僕達は顔中の筋肉を使い、サウンドの『表情』を表現する。腕を上げて手を巧みに動かし……足でリズムをとり、『音楽』の旋律を奏でる。
(届け……音のない世界に住む君に!)
僕の視線が観衆の波を裂く。
体全体で『音楽』を表現する僕の視線の先……一直線上に里菜が映る。
僕が全身で奏でる音楽を『聴く』彼女は、音の持つ『宇宙』に吸い込まれる。
広く、優しく、美しい世界。
彼女の今まで知らなかった世界……。
僕は全身で音楽を表現し、そして……遠くから僕を見つめる彼女に語りかける。
(どうだい? 『音楽』って、素晴らしいだろう? ワクワクするだろう?)
生まれて初めて『音楽』に触れた里菜は感動に震え、目に涙を滲ませる……それが、ステージにいる僕にも分かった。
(もう、君に『音楽が嫌いだ』なんて言わせない。『音が聞こえないから』とも言わせない。
だって、『音楽』は誰の心も振動させるんだから。
だから、僕は……君の音のない世界を裂く!)
溢れんばかりの熱い想いを音楽に乗せる。
そして、僕は『恋唄』の主人公になる。彼女の意識も僕の奏でる『音楽』に吸い込まれ……この曲のヒロインになる。
すました顔だけど、実は寂しがり屋の里菜。彼女に溢れんばかりの恋心を伝えようとする、熱い気持ちを抱く僕。里菜は最初は恥じらうが、徐々に僕の気持ちに心を開いてゆく……。
その手話コーラスで、僕と里菜は確かに『恋唄』に登場する少年と少女になったのだ。
「お疲れ様~!」
力を込めた渾身の演技を終えた僕達は、再度社福棟の教室へ集まった。
僕は……いや、僕達は、渾身の『本物の手話コーラス』をやり遂げたんだ。その達成感が、僕の胸を熱く湿らせる。
みんなも……沙羅もチェリーもパンダも、その目に涙を浮かべているように見えた。
「やったね、みんな! 今年の手話コーラス、大成功だったよ」
沙羅がサークル員みんなの前で、溢れんばかりの笑顔になる。
今年は観客の数も例年の倍以上だったようで……それは、『今年の手話コーラスはいつもと違う』という評判、そしてコーラスが始まってからの最高の盛り上がりが多くの人達を惹きつけた。そして、僕達の手話コーラスが観客を『魅せる』手話コーラスだった。その成果だった。
「でも、みんな……これで新交祭は全て終わったわけじゃないのよ。明日には、外からのお客様との『交流会』もあるんだから。明日も、大忙しよ!」
そう。新交祭は二日あるのだが、二日目には外部のお客さんとの『交流会』をこの教室で開催する。
コーラスが終わって取り敢えず一息はついたが、まだ気は抜けないのだ。
「だけど……」
沙羅は心なしか僕の方を見て、ニコッと笑った。
「交流会の準備はほとんど済んでいるし、あとは明日、セッティングするだけ。今日はみんなお疲れだろうし、これで解散! みんな、模擬店とか、自分の行きたい所、行って来なさいな!」
「はーい!」
「やったぁ。学祭はまだまだ、これからだぁ」
みんなの晴れ晴れとした歓声が上がる。
それは勿論、このコーラスを精一杯演じ切ったからのこそ上げられる、清々しい歓声だった。
そんな歓声とともに、各々自分の目的の場所に向かう準備をしている皆の横を笑顔で通り抜けた沙羅は、僕の横ですっと目を瞑った。
「たっくん……本当に、ありがとね。あの時の言葉……とっても嬉しかった」
そして、睫毛の長い美しい目を開けて続けた。
「早く、彼女の元へ行きなよ。私も……行くからさ」
沙羅の視線の先には、ドアを開けた前で飛び切りの笑顔を見せるかっくんがいた。僕はそんな沙羅とかっくんを見て、切ないけれど温かい……そんな不思議な気持ちになったのだった。
教室を出た僕は彼女……里菜のもとへ向かった。そう。三回生の教室。
彼女には手話コーラスの後、その感想を聞かせてもらう約束をしていたんだ。
本当は、不安だった。僕はみんなと一緒にあんなに練習して、精一杯、『本当の手話コーラス』を演じ切った。
でも……本当に、彼女に音楽を伝えることができたのだろうか? 彼女の『音のない世界』を裂くことができたのだろうか?
僕の一人よがりな……自己満足にはなっていなかっただろうか?
彼女の感想がとても楽しみな反面、そんな不安が塵のように少しずつ、しかしかさ高く積もり、僕の心臓はバクバクと、口から飛び出しそうなくらいだった。
三回生の教室の前に着き……僕は、大きく深呼吸をした。
心臓のバクバクを抑えるように、かさ高く積もった不安の塵を吹き飛ばすように。
僕は恐る恐るそのドアを開けた。
(お疲れ様!)
そこにあったのは、左腕の上をグーでトントンと叩く、『お疲れ様』の手話。そして……まさに、『恋唄』の少女のように純粋な、恥じらいと感動の涙を含んだ天使のような笑顔。
その瞬間……僕の中の不安は完全に消え去った。
その代わりに、僕の目から感動の涙が溢れ出した。
僕は……やったんだ。彼女の……里菜の『音のない世界』を裂いて、彼女に音楽を伝えることができたんだ。
(どうして? 何で、泣くの?)
彼女は慌てた様子で手話で尋ねる。
しかし、僕が両手を開いて胸の前で上下させて、『嬉しい』の手話を思い切り、飛び切りの笑顔で振りまくと、彼女は安堵と可笑しさの入り混じった素敵な笑顔を僕に向けてくれたのだ。
(手話コーラス……本当に素敵だった。音を知らない……音楽を聴いたことのない私も、音楽に吸い込まれるようだったわ)
涙も落ち着いて向かいに座った僕に、彼女は手話と最高の笑顔で僕に感動を伝えてくれた。
(僕……本当は不安でした。自分のやっていることは間違ってないかって。あなたを……『音のない世界』に住むあなたを愚弄しているんじゃないかって)
手話でそんなことを話す僕の手を手の平でそっと包み込んで、彼女はすっと目を瞑り、静かに首を横に振った。
(そんなことはない。あなたは、私に教えてくれた。音の聞こえない私に、『音楽』の素晴らしさを……『音楽』を『聴く』ことのワクワクを。そして、あなたの手話コーラスを『聴いている』間、私は、『音のない世界』から抜け出すことができた。幼い頃から……私を束縛していた鎖から、解き放たれたの)
彼女の手話は難しい表現も多くて、手話を始めてまだ一ヶ月ちょっとの僕には分からない部分もあったけれど……。でも、彼女の表情、口の動き、手話に込めた気持ち……それらを全て感じて、僕の心には、彼女の想いが痛いくらいに伝わったのだ。
彼女は続ける。
(もう、私……『音楽が嫌いだ』なんて言わない。だって、あなたの奏でる音楽が、こんなにも深く私の胸に響いたんだから)
そんな彼女の言葉を『聞いて』、僕の目にはまたしても感涙が込み上げた。
それを必死で抑えて、僕は話す。
(ねぇ。里菜さんも……手話サークルに入りませんか?)
僕のその手話に彼女は少し目を丸くしたが……すぐに僕の意図を理解したように、柔らかな微笑みを浮かべた。
僕は続ける。
(今、手話サークルには聾の人はいないです。だから、基本に忠実な『標準語』は身につけることができるけど、本物の手話は知らない。だから……里菜さんは、手話サークルに必要だと思うんです)
里菜は微笑みながら頷いた。
「それに……」
僕は手話をやめて声を出した。
「あなたは、僕にも……『必要な人』だから」
手に注目していた里菜はキョトンと、不思議な目を僕に向けた。そんな彼女に、僕の顔が綻ぶ。
僕は手話を再開した。
(だから、里菜さん……僕達の手話サークルに入って下さい)
すると、里菜は白い歯を見せて目を細めた。
(ええ、分かったわ。本物の手話……あなた達に教えてあげる。今のあなた達、手話サークルなら……きっと、私達、聾者を『音のない世界』の呪縛から救ってくれる。私、そう思ったんだもの)
里菜のその言葉に、僕の胸に熱い感激が込み上げた。
(やった……ありがとうございます! じゃあ、明日……早速、僕達の交流会に来て下さい。そこで、皆に紹介しますので……)
僕が手話でそう話していた時……
「ちょっと、あんた。何、お姉ちゃんを口説いてるの?」
背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、悪戯な笑みを浮かべた里香がそこにいたのだ。
「い、いや、口説いてるとかじゃないって。ただ、里菜さんはうちの手話サークルに必要だし、それに、里菜さんも入ってくれた方が絶対に毎日楽しくなるし……」
「全くもう……まぁ、確かにあんたの手話コーラスは凄かったし、感動したけど、それで急に調子づくのもどうかと思うけど」
「え、里香も見てたの?」
「あー、ひっどーい。お姉ちゃんの隣で見てたのに。あんた、お姉ちゃんしか目に入ってなかったのね」
「い、いや、だから、本当に違うって……」
新交祭の夕暮れ時。
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どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。
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