1と0のあいだに

いっき

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0-れい-

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 今朝もいつものように、いちの大好物のマカロニサラダに青いレタスを添える。そうそう、大好物ばかりじゃなくって、彼の苦手なトマトも乗せないと、栄養が偏っちゃう。
 そんなことを考えて……胸に溢れるこの幸せな想いに、私は自然と顔が綻んだ。

 私達はあの日……愛を交わしてから、まるで本物の恋人同士になった。
 人型の中には、性の対象としてのみ出荷されて、身も心もボロボロになって機能を失う者もいることは知っていた。
 でも、いちは人型の私を本気で愛してくれて、いつでも優しく、温かく、私を包み込んでくれている。私はそんな彼に触れる度に、どうしようもなく、泣きそうなくらいに幸せになれるんだ。
 いちの中には玲奈……恐らく、決して忘れることのできない女性がいるのも知っている。だけれども、彼はあの日以降、私のことを必ず、間違えることなく「れい」と呼んでくれていた。


「れい。今日も、ありがとう」
 丸テーブルで向かい合ういちは、今日も爽やかに白い歯を見せて微笑んでくれている。
 それは、玲奈ではない……紛れもなく、私だけに向けてくれる笑顔で。私はこの、優しくて純粋で、時にすっごく情熱的ないちが好きで好きで仕方なくなっていた。
「えぇ、いち。今日もお仕事、頑張ってね」
 私の言葉に彼の顔はさらに綻んで、にっこりとうなずいてくれた。彼のこの一挙一動から私への愛情が滲み出てくるようで、すごく幸せな気持ちになる。

 彼のお仕事は市役所の事務。だから、毎朝、私は彼のネクタイをチェックする。そして、私が持つ背広の袖に彼が腕を通して、玄関口で「行ってらっしゃい」の唇を交わして。彼が働いている間、私がこの家の家事をする。
 それが、私のこの幸せな日常になっていた。

 私は彼が出てすぐに洗い物、そしてこの家の掃除を始めた。
 いつものようにリビングに掃除機をかけて、各部屋の整理も始める。私に充てがわれた部屋はさほど散らかることはなく、殺風景なくらいですぐに掃除は終わった。いちの部屋はきちんと整頓されているように見えるけれど、所々、シャツや靴下なんかがぶっきら棒に脱ぎ捨てられていて、こんな所を見るとやはり彼は男性なんだって実感して微笑ましくなる。
 いちの部屋の片付けを大体終えた頃だった。私はふと、いちの机の中が気になった。
 勝手に見てはいけない……そのことは分かっていた。だけれども私は、彼の全てが知りたくて。その机の引き出しには、私の知らないいちがいるような気がして。
(少しだけ……少しだけ、だから)
 私は昂ぶる鼓動を抑えて、そっとその引き出しを引いた。

 引き出しも彼の部屋の中と同じ。見た目にはすっきりと片付いているように見えるけれど、所々、不要と思われる紙なんかがくしゃっと丸めて置かれていた。
 でも私は、その中で伏せて置かれていた一つの写真立てが気になって、それを手に取って見た。
「これは……」
 それに写っていたのは、まさに私の知らないいちだった。
 青々とした空の下、透き通るような海を背景に満面の笑みを浮かべる、小麦色の肌をした彼。そして、その隣にいるのはとっても可愛らしい……茶色の髪を輝かせて両頬に笑くぼを作り、白い八重歯を輝かせた彼女だった。
「この娘が……」
 玲奈さん。それは、この写真を見てすぐに分かった。

 写真のいちは、私が見たこともないような、とろけそうな幸せな笑顔をしている。私は……彼にこんな表情をさせたことがない。
 玲奈さんはとっても明るくて、やんちゃそうで……だけれども、その体全体から優しさが滲み出していて。私とはまるで正反対の女性だった。

 何故だろう……私の瞳からは大粒の涙がポタポタと溢れた。
 胸が締め付けられるほどに苦しくて、できれば私がこの写真の玲奈さんに取って代わりたくって。こんな感情、初めてだ。
 悔しい……私の想いはそう名付けられるのだろうか。

 そんな正体不明の感情に支配された私はじっとしていられなくて。居ても立っても居られなくなって、私は家を飛び出した。




 私は茶色く染まった自らの髪に触れた。それは、写真の中の彼女……玲奈と同じ色。
 いちの昔の奥さんで、彼が決して忘れられない人。そう……私にあの笑顔を向けて欲しい。写真の中の彼がしていた、私の知らなかったあの笑顔を。
 その一心で、私は美容院へ行って玲奈と全く同じ髪型にして、玲奈と同じメイクをした。
 分かっていた。それは、自分が『れい』だということを否定する行為で、自分をより傷つけることになるって。だけれども私は、あの写真を見て……そうせずにはいられなかったのだ。

 いちはこんな私を見て、玲奈と同じように愛してくれるだろうか? 勿論、今までも愛してくれていたんだけど、玲奈に対するそれは何処か特別な気がして……私は息苦しくて仕方がなかった。

 がちゃんとドアの開く音がして、私はすっと玄関へ向かった。
 鼓動は鳴る。ドックン、ドックンと、まるで私の口から飛び出しそうになる。
「ただいま……」
 玄関口のいちの顔は、一瞬、硬直した。
「おかえりなさい」
 私は努めて、笑顔で迎える。
 だけれども彼の表情はまるで凍りついたかのようで。
「れい……どうして?」
 私に尋ねる彼の顔は悲し気に歪んだ。
「だって、私……愛されたいの。あなたの最愛の人……決して忘れることのできない女性と同じように……」
 そのまま、暫しの間、沈黙が続いた。しかし……『ピシャリ』という音と共に、私の右頬には鋭い痛みが走った。
 一瞬何が起こったのか分からなかったけど……私はすぐに理解した。いちが初めて、私に手を上げたんだ。
「僕は、れいにそんなことして欲しくない!」
 きっぱりとそう言って私を睨む彼の目には大粒の涙が滲んで、その美しい瞳は潤んで揺れていた。
「でも、私……」
「れいはれい! 玲奈じゃなくって、今、僕の目の前にいるのはれいなんだ!」
 彼はそう言って、私をギュッと強く抱きしめた。強く、強く……まるで潰れそうになるくらいに。
 だけれども、彼の温もりは私の全身に伝わってきて。私がさっきまで感じていた息苦しさは、すっかりと消えてなくなっていたんだ。
 それは、いちが初めて表す剥き出しの感情だった。その目は真っ直ぐに、他の誰でもない私……『れい』を見てくれていて。私の胸には熱いものが込み上げた。
「いち……ごめんなさい。そうよね。あなたは私……れいを見てくれているんだよね」
「れいはれいだ。愛しくて、堪らない……もう、離さない」
 いちが顔を押し付ける私の肩は、じんわりと熱く濡れて。私の胸にまで染み込むその熱さは、彼の想いの全てを物語っていた。
「うん、そうだよね。ごめんね、いち……私も、あなたを離さない」

 私はこの先、何があろうとも……たとえ、命を投げ出しても、愛しいいちを離さない。そう……私がその機能を失ってしまったとしても、ずっと、この人を想い続ける。
 この日……彼の優しくて柔らかい温もりを感じながら、私はそう決意したんだ。
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