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親心
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◇◇◇
時はウィリアム帰還直後に遡る。
ウィリアムは胸に抱えたどうしようもない無力感と喪失感を拭えずに、気が沈んでいる。考える事の出来る生物は、気が沈むと悲観的な思考に傾く。負の考えに囚われると、虚無感が思考を低下させ、その感情から抜け出せなくなり、時には自死に至る病を発症する。
ウィリアムも帰還中は兵士達に無様な姿を見せまいと気を張っていたのだが、軽武装を解いた途端、虚しさに襲われた。
今、執務室にいるのは、ウィリアムと家令のヨハンだけだ。執事のフィルは、ウィリアムの朝食を取りに行った。ウィリアムは静かに物思いに耽っている。
このままヴィーに二度と会えなくなるのではないか、世界が滅んでも、ルフ様はヴィーの悲しみを取り除くためになら記憶を操作されるだろう。成長した美しいヴィーはルフ様と二人だけの世界で末永く幸せに暮らす。ルフ様との子をなし、愛おしげに子を見つめる女神のようなヴィーと、その隣には見目麗しいと聞くルフ様が優しく微笑んでいる。という場面を夢想して「私も嬰児を抱きたい」と呟いた。
ウィリアムの呟きに対して、結婚して七年目になる愛妻ハンナが懐妊したことを、先日、ウィリアムに報告したばかりのヨハンは「ええ。待ち遠しゅうございます」と返した。
その言葉はウィリアムを現実に引き戻した。
生まれたばかりで初めてアルバートとシルヴィアに対面した日。我が子を抱き上げた時の喜びは忘れられない幸福な時間であると共に、この子を何としても守らねば、という重責に身が竦む瞬間でもあった。
私達の愛情を注ぎ込み育てた愛娘は、神を虜にした。誇るべきことであり、落ち込むことではない。
「そうだな。待ち遠しいな」
子の成長は嬉しい反面、親離れの時を思うと寂しくなる。子の成長に負けぬよう、親も成長せねばならぬな。
不思議だ。霧が晴れたように、不安が消えた。人だけでなく全ての動物の赤児は、周囲の大人の庇護欲を刺激し、生きる活力を与える魔法を持っているのだろうか。
自信を取り戻したウィリアムは、自分が空腹であることに気が付き、愉快なった。
ヨハンは、いつもの調子に戻った主の様子に安堵した。
◇
一方、気を失ったまま館に戻ったエドワードは、今朝まで使用していた客室に運び込まれ、寝台に横たわっている。
急ぎ駆け付けたマリーとノア、そして、ガルシア伯爵夫妻が傍らで心配そうに見守っている。
「内蔵の損傷も、外傷もまったくありません。エドワード殿は、魔力を枯渇し、気を失っておられるようです。ただ、魔獣に襲われたショックで心傷を負われた可能性は否めません」
ナイトレイ侯爵家専属医師ギルバート・ハリスの診たところ、エドワードは至って健康だ。それどころか、先日診たはずの、落馬した際の古傷すら跡形もなく消えている。肌、爪、髪の状態もこの上なく良い。着用していた服の破れていることだけが、魔獣に襲われた痕跡だった。恐らく、魔獣に抵抗して、魔力を使い果たしたようだ。二、三日中には目覚めるだろう。
実に興味深い。
ハリスは、エドワードが目覚めた時にどんな話を聞かせてくれるのか、期待感で胸が高鳴った。
◇
「太古の昔、この地より世界は始まった」という伝承が口伝で残されている。
今はこの地でしか見ることのできない現象もある。それが、魔獣出現だ。
グランドール大国で魔獣が出現するのは、ここ、ナイトレイ領だけだ。
神々の住まう森が何らかの影響を及ぼしているのか。真相は分からないが、土地の力が強いのは確かだ。他の土地からナイトレイ領を訪れた者は、ある種の結界が張られているように感じる。それ程に、近寄りがたい聖域のような空気で満ちている。
浮世離れした彼の地を訪れているのだという現実に、ガルシア伯爵夫妻は震えた。改めてナイトレイ侯爵家の力量を頼もしく思うと同時に、この地で暮らす愛娘の行く末に不安を覚えた。
「私はこの地に魔獣がいることを失念していた。マリー、私は心配でならない。帰ってくるつもりはないのかい」
予測はしていたが、父オーウェンの言葉に、マリーは胸が締め付けられた。親思う心にまさる親心。まだ親にはなっていないマリーだが、シルヴィアを思う気持ちは親心に近い。身につまされる思いに応えられないことが辛い。
「お父様、お母様、私を生み育てて頂き、誠にありがとう存じます。私はこの地で、愛する御方に巡り会うことができました。すべては、お父様とお母様の御陰でございます。私は果報者ですわ。二つの故郷を持つことができましたもの」
分かっていたことだ。愛娘は優しい言葉で、帰るつもりは無いと言い切っている。愛娘が強く賢く美しい淑女に成長できたのは、親の力ではない。周囲の人間に恵まれた幸運もだが、マリー自身のたゆまぬ努力が実を結んだのだ。
「私達はマリーの幸せを願うことしかできない」
「私もお父様とお母様の幸せを心より願っておりますわ」
翌日、ガルシア伯爵夫妻は、エドワードをマリーに託し、侯爵領を後にした。
◇◇◇
時はウィリアム帰還直後に遡る。
ウィリアムは胸に抱えたどうしようもない無力感と喪失感を拭えずに、気が沈んでいる。考える事の出来る生物は、気が沈むと悲観的な思考に傾く。負の考えに囚われると、虚無感が思考を低下させ、その感情から抜け出せなくなり、時には自死に至る病を発症する。
ウィリアムも帰還中は兵士達に無様な姿を見せまいと気を張っていたのだが、軽武装を解いた途端、虚しさに襲われた。
今、執務室にいるのは、ウィリアムと家令のヨハンだけだ。執事のフィルは、ウィリアムの朝食を取りに行った。ウィリアムは静かに物思いに耽っている。
このままヴィーに二度と会えなくなるのではないか、世界が滅んでも、ルフ様はヴィーの悲しみを取り除くためになら記憶を操作されるだろう。成長した美しいヴィーはルフ様と二人だけの世界で末永く幸せに暮らす。ルフ様との子をなし、愛おしげに子を見つめる女神のようなヴィーと、その隣には見目麗しいと聞くルフ様が優しく微笑んでいる。という場面を夢想して「私も嬰児を抱きたい」と呟いた。
ウィリアムの呟きに対して、結婚して七年目になる愛妻ハンナが懐妊したことを、先日、ウィリアムに報告したばかりのヨハンは「ええ。待ち遠しゅうございます」と返した。
その言葉はウィリアムを現実に引き戻した。
生まれたばかりで初めてアルバートとシルヴィアに対面した日。我が子を抱き上げた時の喜びは忘れられない幸福な時間であると共に、この子を何としても守らねば、という重責に身が竦む瞬間でもあった。
私達の愛情を注ぎ込み育てた愛娘は、神を虜にした。誇るべきことであり、落ち込むことではない。
「そうだな。待ち遠しいな」
子の成長は嬉しい反面、親離れの時を思うと寂しくなる。子の成長に負けぬよう、親も成長せねばならぬな。
不思議だ。霧が晴れたように、不安が消えた。人だけでなく全ての動物の赤児は、周囲の大人の庇護欲を刺激し、生きる活力を与える魔法を持っているのだろうか。
自信を取り戻したウィリアムは、自分が空腹であることに気が付き、愉快なった。
ヨハンは、いつもの調子に戻った主の様子に安堵した。
◇
一方、気を失ったまま館に戻ったエドワードは、今朝まで使用していた客室に運び込まれ、寝台に横たわっている。
急ぎ駆け付けたマリーとノア、そして、ガルシア伯爵夫妻が傍らで心配そうに見守っている。
「内蔵の損傷も、外傷もまったくありません。エドワード殿は、魔力を枯渇し、気を失っておられるようです。ただ、魔獣に襲われたショックで心傷を負われた可能性は否めません」
ナイトレイ侯爵家専属医師ギルバート・ハリスの診たところ、エドワードは至って健康だ。それどころか、先日診たはずの、落馬した際の古傷すら跡形もなく消えている。肌、爪、髪の状態もこの上なく良い。着用していた服の破れていることだけが、魔獣に襲われた痕跡だった。恐らく、魔獣に抵抗して、魔力を使い果たしたようだ。二、三日中には目覚めるだろう。
実に興味深い。
ハリスは、エドワードが目覚めた時にどんな話を聞かせてくれるのか、期待感で胸が高鳴った。
◇
「太古の昔、この地より世界は始まった」という伝承が口伝で残されている。
今はこの地でしか見ることのできない現象もある。それが、魔獣出現だ。
グランドール大国で魔獣が出現するのは、ここ、ナイトレイ領だけだ。
神々の住まう森が何らかの影響を及ぼしているのか。真相は分からないが、土地の力が強いのは確かだ。他の土地からナイトレイ領を訪れた者は、ある種の結界が張られているように感じる。それ程に、近寄りがたい聖域のような空気で満ちている。
浮世離れした彼の地を訪れているのだという現実に、ガルシア伯爵夫妻は震えた。改めてナイトレイ侯爵家の力量を頼もしく思うと同時に、この地で暮らす愛娘の行く末に不安を覚えた。
「私はこの地に魔獣がいることを失念していた。マリー、私は心配でならない。帰ってくるつもりはないのかい」
予測はしていたが、父オーウェンの言葉に、マリーは胸が締め付けられた。親思う心にまさる親心。まだ親にはなっていないマリーだが、シルヴィアを思う気持ちは親心に近い。身につまされる思いに応えられないことが辛い。
「お父様、お母様、私を生み育てて頂き、誠にありがとう存じます。私はこの地で、愛する御方に巡り会うことができました。すべては、お父様とお母様の御陰でございます。私は果報者ですわ。二つの故郷を持つことができましたもの」
分かっていたことだ。愛娘は優しい言葉で、帰るつもりは無いと言い切っている。愛娘が強く賢く美しい淑女に成長できたのは、親の力ではない。周囲の人間に恵まれた幸運もだが、マリー自身のたゆまぬ努力が実を結んだのだ。
「私達はマリーの幸せを願うことしかできない」
「私もお父様とお母様の幸せを心より願っておりますわ」
翌日、ガルシア伯爵夫妻は、エドワードをマリーに託し、侯爵領を後にした。
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