スパダリ社長の狼くん

soirée

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第一章

七話

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AZUMI ANIMAL CLINICは完全に忍たち以外の患者を入れない体制になっていた。待合室の照明が消されていることに瞬が不審な顔をする。


院長である安曇の命令でナースたちも雇いの医師たちも一時的に帰宅をさせられている。大型犬専用の処置代の前で両手をポケットに入れて彼らを迎えた安曇の貼り付けたような笑みに、忍はちらりと瞬を見る。


「瞬、先に説明してからにしようか。君のその足首は放置していると歩行を困難にしてしまう。治すにはかなりの激痛を伴うから本当は人間用の病院で麻酔をかけてあげたかったんだけどね──君の足の骨の形はかなり特殊らしいんだ。ごめんね、何も言わずに連れてきて──我慢してほしい」

瞬の耳がピクリと動いた。安曇がトイレを指差す。

「シュン、この治療、大人のおじさんでもおしっこチビることあるから先にトイレいっといてくれる? 終わったらここに上がって待ってて。舌噛まないようにこれ噛んで」
「え? ちょっと待て──麻酔なしってことか?」

戸惑ったように聞いてきたその目に申し訳なさそうに忍が頷く。だが、瞬は意外にもあっさり頷いた。

「分かった」

これには忍と安曇が目を瞬く。
「俺はこう見えて痛みには強いぜ? 今までどれだけ耐えてきたと思ってるんだよ。いいぜ、耐えりゃいいんだろ。普通に歩く分にはなんてことないけど走るとやっぱ痛えし治してもらえるならその方がいいしな」

さっさとトイレに向かうその背を見送って忍と安曇は顔を見合わせる。
「意外と無用な心配だったのかも?」
「彼の予想を上回る痛みでないことを願うよ」

戻ってきた瞬が処置代に上がるのを待って安曇が棒を手渡す。
「? なんだこれ」
「さっきも言ったけどたまに舌噛んじゃう子がいるから咥えといて。あとこれは」
言いながら丸めたバスタオルを両手に握らせる。
「握ってると多少我慢しやすいから持っててね。シュンは理性があるから大丈夫と思うけど、噛み付いたりしないでね」

さて、と安曇が足首に触れる。
「じゃ、ちょっと痛いけど頑張ろうか」


瞬が覚悟を決めて目を閉じる。
安曇の手が力任せに固まった関節を正常な位置に押し戻し始める。さすがに三年も放置された脱臼の処置は痛いなどというものではないのか、瞬の全身に脂汗が浮いた。目を閉じて木切れを噛み締め、必死で耐えるその髪を撫でながら忍も奥歯を噛み締める。

 握りしめたバスタオルでは耐えきれなくなったのか、瞬の手がバスタオルを離して自らの体に爪を立てる。痛みが分散していないと気がもたないのだろう。
「うぅぅっ………」
一声も漏らさずにいたその喉から唸り声が漏れた。指先が震えている。
安曇もこれほどの体格の相手の関節の処置とあって大粒の汗をかいている。
キツく閉じた瞬の目に涙が滲む。
痛みのあまり何度も体勢を変えようとする瞬を忍が抑えている状態だ。早く終わってくれと忍が心の中で念じていたのが伝わってしまったのか、瞬の口が開いて木切れが落ちる。いけないと慌てた忍が迷わずその口に片手の親指を差し込んだ。
瞬が気づかずに力一杯その指を噛み締める。

「大丈夫だ──すぐに終わる。大丈夫。僕がいる」

噛み締められた指の痛みを感じさせない低い声で瞬に囁き続ける忍の声に、瞬が両手を握り締める。


しかしこの状態でも彼は喚きも泣きもしない。自分で言うだけあって痛みへの耐性はかなりのもののようだ。通常ならば大の男が取り乱して絶叫する治療である。


時間にすればほんの二十分ほどだっただろう、永遠にも思えたその二十分が過ぎて安曇が汗を拭う。その手が瞬の足首から離れた。

「良し。終わったよ──すごいねシュン。本当によく頑張った。東條さんは余計な手間増やしてくれてるから減点ね」

瞬の全身から力が抜ける。ゆっくり目を開いて己が何を噛み締めていたのかやっと気づいたその顔が愕然とする。
「お前……!!なんで……!!」
犬歯で噛み締めていなかったのが幸いだ。それでも忍の手には深く歯形が残ってしまって血が滲んでいる。
治療は耐え抜いたくせにここにきて取り乱す瞬に忍が呆れて指を抜く。
「大丈夫だよ。あんなに頑張って処置に耐えたのに何で今泣くのかな。裕也、僕の処置は後でいい。せっかく戻したんだ、固定用のギプスが先だ」
「そうだね。シュン、東條さんのは重症じゃないから大丈夫。足固定するから膝立てて」
「俺よりあいつを……!!」
「瞬、おとなしく治療を受けるんだ。言うことを聞いて。sit、いい子だ」

 忍の命令に従って座り直したその足首を固定しながら安曇が首を傾げる。
「しかしよく躾けられてるねぇ、シュン。そんな犬用の命令、なんで素直に聞いちゃうの」
「なんでって……なんか体が勝手に従っちまうから……」
「誰かに教えられてるよね、それは。誰に?」
だれに? 瞬も不思議に思う。今までの飼い主ではない。誰だろう。
 二人のやりとりを横目に、忍は複雑な顔をする。ダイナミクスには現在もまだ様々な謎がある。コマンドに従う彼を、ただでさえ第二性を持たないnormalの安曇が不思議に思うのは無理もない。だが、瞬は? もしや瞬は自分がSubだと自覚していないのだろうか。

 ギプスでガッチリと関節を固定して安曇は手早く忍の処置に移る。とはいえこちらは消毒と抗生剤で良さそうだ。
「東條さんも無茶しすぎ。ああいう時は服とか離しちゃってたタオルとかもっと他のもの使ってね。さぁ、処置終わり。シュンくんよく頑張りました」
歩くのに困るだろうと自分が昔骨折した際に使っていた松葉杖を渡そうとする安曇に瞬がまたもあっさり首を振る。
「いらねぇ。これくらいの痛みでふらついたりしねぇし」
たしかに彼は足を引きずりながらではあるが平然と歩いている。動物たちの持つ忍耐強さには安曇も常々驚かされてはいるが、どうやら瞬にはその点でも獣じみたところがあるようだ。
「経過を見たいから一週間後にもう一度来てね」


安曇に見送られて動物病院を後にする。痛みに動じず歩くその長身を軽く見上げて忍はご褒美はどうしようかと考える。瞬はよく頑張った。褒めてやらねば気の毒だ。ただでさえAfter careの大事なSubなのだから。
「ねぇ瞬、ご褒美は何がいい? 僕が仕事に行っている間退屈しないようにゲームでも買ってあげようか」
尋ねると、瞬の目が躊躇いがちに忍を見た。
「何?」
「その……知られたくなかったんだけどな……俺昨日お前の部屋の本開いてほとんど読めなくてさ……漢字が。学校行ってなかったし……けどこのままだとさすがに困る気がするから俺にも解ける問題集とかそーゆーやつが欲しい。この歳で小学生用のって普通に恥ずかしいから今まで買えなかったんだが……」
 意外なリクエストに忍がきょとんとする。今時の若者には珍しい。学びたいというわけだ。
「そう……だったら僕は手助けできるかもしれない。これでも東大卒だ──教えてあげるよ。他の教科もね」
「! マジか?! すげぇ嬉しいだろそれは!」
尾がちぎれんばかりに揺れている。
素直な青年に微笑みを向けて車のドアを開けた。




 満面の笑みで帰路を過ごした瞬は、リビングに入るなり顔を伏せて座り込んだ。
うずくまってしまったその姿に忍が疑問符を浮かべる。
「瞬? どうした?」
「すげぇ痛かった……」
突然涙を滲ませて唇をかみしめてしまったその顔に苦笑を禁じ得ない。涙をこぼすまいとしきりに瞬きをしているのが健気だ。
気を張っている間は平気な顔ができても家に着いて飼い主と二人きりになれば弱ってしまうというのは可愛い。
「大丈夫? よく頑張ったね」
もっと褒めて欲しいと思っているのは尻尾を見ればわかる。
「偉いよ。あの治療は普通の人間なら泣き喚いて失禁してもおかしくない。声も出さずに耐えたなんてすごいじゃないか」
しゃがみ込んでいるその髪を撫でてやると、瞬は忍の腕に甘えるように首をもたせかけて上目遣いで忍を見つめる。ん? と視線で問い返してやりながら背後から抱き起こして膝の上に座らせる。軽く振り向くと耳の毛並みが忍の頬に触れる。なんとも言えない柔らかさでつい触りたくもなる。
「なぁ」
「うん?」
「一緒に寝て欲しいんだけどだめか」
思わず目を瞬く。焦ったように瞬が付け加えた。
「あ、そういう意味でじゃないぞ。ただ、俺今寝つけそうにないんだけどすげぇ眠いっていう拷問に近い状態だからそばにいて欲しいっていうだけだ」
要するに甘えたいのだろう。本当にこの見た目でこの性格は反則だな、と半ば感心しながらその体を抱き上げて立ち上がる。安曇とは別の意味で飼い主キラーである。
二人で寝るなら広い瞬のベッドがいいだろう。
廊下を進みながら何気なく問いかける。
「さすがの大型犬だな。君何キロあるの?」
「あっおい、いいよ自分で歩ける──」
「重いって意味じゃないよ。いや重いけど持てないほどじゃないから安心して。大型犬は抱っこしてると重みが愛しいんだよ」

 背中を撫でる忍の手が瞬の眠気を誘う。うとうとし始めている瞬をベッドに下ろして忍がその隣に腰を下ろした。ヘッドボードに背を預けて本を開いたその足に顔を埋めるように瞬が額をつけてくる。片手でその髪を撫でながらページを捲る忍が、予想以上に幸せなものになった日常に目を細めた。






 ベッドに横になって窓から外を見上げると、浮かんでいるのは満月と見まごう月だ。
あの晩からまだ3日も経っていないのだと改めて気付かされる。
丸二日一緒に過ごして見て、瞬は戸惑いを隠しきれなかった。
瞬がどんなに荒れても辛抱強く諭し、物を壊そうが噛みつこうが怒りもしなかった飼い主は初めてだ。
何を考えているのだろうと、単純に思う。
忍の人となりは二日という短い期間でも疑う余地もなく信頼に値するものだとわかる。穏やかな口調も優しい眼差しも、瞬を怯えさせるところは全くない。

(あの、手──……)

つい、何度も思い返してしまう。瞬の髪に触れる暖かな感触を。
どの飼い主からも、親からさえも与えられたことのない安堵感──その手が罷り間違っても瞬の髪を乱暴に引っ張ることはないし、突然殴りつけてくることもないと信じさせてくれる。
(俺のこと、自慢に思ってくれるかな)
彼が選んでくれた服を着て、痛い治療に耐えて治した足でまっすぐ立ったら褒めてくれるだろうか。いつも一緒にいてくれるだろうか。布団に顔を埋める。

微かに忍の残り香がするその布団に、全身を守られているような心地がした。
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