スパダリ社長の狼くん

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第五章

二十八話

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どれほど止まって欲しいと願っても、時間は無常に流れていく。秋が過ぎ去り、今年もクリスマスが訪れる。忍の37歳の誕生日だ。瞬が待ち続けているチャンスはまだ来ない。


「お前が好きな果物全部使ったんだ。美味いよ」
 小さく口を開く忍にゼリーを含ませる。
「美味しいな……さすが瞬だね、ありがとう」
「お前のためならなんでもするよ。昼は何がいい?」
「うん……考えておく」
 いつもこうだ。食欲などないから、リクエストはすぐには出てこない。最後まで何も言わないことも多い。それでも何とか食べてもらうために瞬は食べやすいものを考える。リビングに移動させた忍のベッドの隣で片時も離さずに握っているその手が日に日に骨ばっていくことも、体温を失っていくことも、気付きたくないけれど……触れられなくなるよりは全然、マシだった。きっと忍にとってはこの闘病期間は辛いだけだとわかっていても離せない。


 時々せん妄の症状が現れるようになった忍は、過去の恐怖をむき出しにすることもある。それでも体は顕著な反応をするほどの力を残していなくて、怯えたように目を見開いて、小さな声で「もう許して」「どうして僕なんだ」と呟く程度。しかし、訪問看護のスタッフがバイタルを繋げばその心音は早鐘を打つような波形に変わっており、そんな時はスタッフが慌ただしく行き交うこともある。次第にそんな状態になってしまった忍を落ち着かせることができるのは瞬だけなのだと分かってくれてからは、瞬に一任してくれた。忍の肩を抱きしめて「大丈夫だから、俺がいるから」と繰り返しているうちに忍は穏やかに眠りの淵に落ちていく。
 最初の頃とは逆転したような立場にも、悲しさよりも辛さよりもどうしようもないやるせなさが残る。
 瞼を閉ざした端正な顔はますます白くなり、抗がん剤の治療は行われなかったために綺麗な黒髪はそのまま。そんな姿を見ていると、いつ呼吸が止まってしまうかと胸が抉られるように痛んだ。
 そっとリビングを出た瞬が、嗚咽を殺す。蹲りたいのを堪えて、忍のために必死で声を殺す。
うっすらと目を開き、窓の外の明るい世界を一瞥して、忍が悲しそうに耳をすませていることに気づかないまま、止められない涙をしとどに流す。
 今はまだ、頑張るんだよとしか言ってやれない。最期に甘やかしてやるために──生きる力を持たせてやるために、今はまだ。




 夕方になって気力を振り絞って瞬が作ってくれたゼリーを食べてみるものの、反射的に嘔吐してしまう。
「ごめん……」
と呟いて咳き込む忍の頭を抱き寄せて、瞬は何度も忍を褒めた。
「いい。食おうとしてくれただけで……頑張ったな。忍、ありがとう。よく頑張った。偉いよ」
「瞬……もう、いいよね……?」
これ以上頑張らなくて、いいよね……? そう尋ねた忍に瞬の体が電気を流されたように震える。
「お前が……良くないだろ……?」
 瞬が言葉を絞り出す。
「こんな終わり方でいいのか? 悔しいだろ……? もっと足掻けよ、無様でも何でもいいから……本当はお前が一番認めたくないんだろ……? お前の中の傷ついてるお前が可哀想だ、誰にも振り向かれないでお前自身にも押し込められて、本当はそれがお前の本音なのに」
 瞬の言葉に忍の中の何かが反応した。碧翠の瞳の中心で瞳孔が開く。力を失っていた手が瞬の体に取り縋る。
「いやだ……死にたくない。こんな、こんな風に死ぬなんて嫌だ、死にたくない! 助けて……誰か助けて、僕をもう解放して……死にたくない!!」
 忍が叫ぶ。抱きしめてやりながら瞬が何度も頷いてその声を受け止めた。
 錯乱して死にたくないと叫ぶ力があれば、まだ。

 瞬が己の体を確かめるように軽く指を腕に滑らせた。
まだ、最後のチャンスがあるんだと。






 叫び通したまま昏睡していた忍が不意に瞼を開いて窓の外から瞬に視線を移した。かすかに微笑みを浮かべた唇を僅かに動かして言葉を紡ぐ。
「たくさん頑張ったね……よく、我慢したね……甘えていいよ。なんでも聞いてあげるから……」
 手を差し伸べる力も残らない忍がベッドに横になったまま微笑む。瞬の喉から堪え続けた嗚咽が漏れた。床に座り込んでその手のひらを握りしめる。かすかに力を込めた忍がなんとかその髪を撫でた。柔らかい髪を絡めながら梳いてやる。ますます酷く涙を落とす瞬に、最期の力を全て込めて遺言プレゼントを遺す。
「大丈夫……君はとっても強い子だ。たくさんのことに耐えて、たくさんのことを乗り越えて、こんなに僕を幸せにしてくれた……強くて、いい子だよ。大丈夫……」
ゆっくりと瞼から力が抜けてしまうのに抗うことはせず、縋り付いてくる瞬の震える声を受け止める。
「嘘だろ……嫌だ、置いていかないで……一人にしないって言ったじゃねえか、逝かないで……嫌だ、お前がいなきゃ生きられないんだ、頼むから逝かないで……」
「大丈夫……僕はずっとそばにいるから。たとえ僕の姿が君には見えなくなってしまっても、僕の指が触れているのがわからなくなってしまっても……僕はずっと君のそばにいるんだよ。こんなに君が好きなんだ……置いてなんて、いけないよ……ずっと、そばにいるんだよ……忘れないで。僕は誰より、君を……」
言葉が途切れる。激しく咳き込んだ忍が大量に喀血した。瞬もろとも染め上げて、その喉から微かな息が漏れる。

 来た。今がその時だ。最後の最後の番狂せ。

「忍……大好きだ、お前のことが、本当に……。だから、ごめんなさい。許して」
 瞬がその体を抱き上げて部屋を飛び出した。

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