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第四冊 手帳

手帳

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 そのスケッチを見付けたのは偶然だった。

 正確にいえば、黒ずんだ革の手帳に四つ折りで挟まれていたんだけどね。床に落ちた手帳を拾い上げた時に、はらりと何かが落ちたのに気付いたの。

 そもそもその手帳は、神楽さんが残してくれてた資料に埋もれていたみたい。

 今まで何度も資料を探しに来ていた筈のに、全く気付かなかったよ。

 この日も、ちょっと調べたいことがあって、神楽さんの部屋で資料を取りに来ていたんだよね。で、見付けたわけ。 

(どう見ても男性用だよね、これ……)

 すくなくとも、この手帳は神楽さんのじゃない。

 神楽さんは意外と可愛いもの好きだったからね。キャラクター入りの手帳を使ってたのを覚えてる。それに比べこの手帳は、機能的なビジネスタイプの手帳だ。愛用されてたんだね。よく使い込まれている。

(だったら、誰が使ってたのかな? それに、この紙は?)

 好奇心に負けて紙を開いてみた。

 見た瞬間、息を飲む。だって、そこに描かれていた綺麗な女性は、私のよく知る人だったからだ。

 背中まで伸ばした黒髪。

 くっきりとした二重の二十代半ばの女性。

 意思が強そうな目。

 形が良い鼻。

 厚くもなく薄くもない、ふっくらとした唇。

 鉛筆で描かれたものだけど、細部にわたってよく描かれている。

 そして何より、この女性のことを大事に想っているのが、ひしひしと伝わってきた。線の一本一本丁寧に描かれてるしね。

 そう……描かれてる女性は神楽さんだった。

 男物の手帳に神楽さんを描いたスケッチ。

(まさか……神楽さんが追い掛けて行った相手って……)

 この手帳の持ち主かもしれない。

 不意に頭を過る。

 もう資料を探すところじゃないよ。

 取り敢えず資料を探すのを一旦止めて、私は手帳とスケッチを持って急いで一階に下りた。

【どうかしましたか?】

『探してた資料は見付かったのか?』

 探しに行ってすぐに戻って来た私に、家神様同居人と朱里様が訊いてくる。

「資料はまだ。それより、ちょっとこれ見て」

 手帳とスケッチを慌てて二人に見せる。

「これって、神楽さんだよね」

 テンション高めに尋ねる。

『……懐かしいものを見付けてきたな』

 目を細める朱里様。口元は綻んでいる。家神様は黙ったままだ。

 因みに、契約を交わしていない私には家神様の姿は見えない。声も聞こえない。出来るのは、気配を感じ取るだけ。でも、付藻神様や死神様たちは姿を見、声を聞くことが出来る。

 不自由があるかって訊かれたら、微妙だけど、これといって特に困ったことはなかった。最低限の意思疏通は出来てるからね。それに雰囲気で、何となくだけど感情の起伏は分かるから。

 それにそもそも、家神様は神楽さんと契約を交わしている。私は留守を預かるだけ。あくまで、家神様の主は神楽さんなんだよ。出来るわけないじゃない。

 たがら私は、家神様と契約を交わしていなかった。そんな気も始めからなかった。付藻神様たちにせっつかれてもね。

「この手帳の持ち主って、神楽さんが追い掛けて行った相手の物なの?」

(絶対、そうだよね)

 はやる気持ちを抑えながら尋ねる。

『そうだ。あいつは絵を描くのを得意だったな……。よく、神楽を描いておった』

「恋人だったんだね」

『そうじゃ。二人は好きおうておった』

 そう答えた朱里様の顔は、何故か僅かに歪んで見えた。さっき見せた綻んだ笑顔とは、あまりにも対称的な表情に、私は見せてはいけないものを見せてしまったのだと思った。何故かは分からないが、罪悪感を感じる。

 紙を持ったまま黙り込む朱里様。家神様も黙ったままだ。当然私も。

 重い空気が周囲を漂う。

 何も考えずに持って来てしまったことに後悔している私を他所よそに、朱里様は小さく息を吐き出すと呟いた。

『…………痺れを切らしおって』と。

(痺れ? 何に?)

 そう訊こうとしたが声にはならなかった。戸惑う私。

 倒れるコップ。淹れたばかりのコーヒーがテーブルをつたい床を汚す。

 倒したのは私じゃない。朱里様でもない。家神様だった。珍しい。とても焦っているようだ。そんな家神様に向かって、朱里様が厳しい声を発した。

『いつまで黙っているつもりだ。いい加減に腹を括れ。馬鹿もんが』と。

 尚も何か言っているだろう家神様を無視して、朱里様は私に視線を移す。その目は幼子を愛おしいんでるように、とても優しく温かだった。

『祐樹……。今から話すことはとても大事なことだ』

 あまりにも真剣な朱里様の表情に、私は唾を飲み込む。

 朱里様は緊張する私を見詰めたまま、ゆっくりと語り出した。

 
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