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3. Trattoria・Gatto・Bianca
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「ごめんください……」
場違いな事で気持ちが萎縮して声が少し小さくなったが、断りを入れてから玄関の引き戸を開ける。
中に入って目に飛び込んできたのは、壁一面の群青色。照明が点いていなくても鮮やかである事が晴継にも分かるくらいで、この色を壁に使うのは珍しいと感じた。
声を掛けたが、返事は返ってこない。このままカギだけ取ってサッと帰るのも選択肢だったが、それだと泥棒みたいで嫌なので晴継はもう一度声を掛ける事にした。
「すみませーん……」
すると、今度は店の奥から「はーい」と女性の声が返ってきた。人が居ると分かっただけで、少しホッとした。
こちらへ向かって、人が近付いて来る音が聞こえてくる。
「はいはい、どちら様ですか~?」
ひょこっと現れたのは、スラリとした長身の若い女性。年齢は20代半ばくらい? 白のコックコートに身を包み、艶のある長い黒髪を後ろで束ねている。大人なお姉さんという感じがする。一瞬、先程の白猫と姿と重なって見えた気がした。
オドオドした顔をしている晴継を見て、小首を傾げる女性。晴継は一連の流れを説明して、カギを取らせてくれないか? と説明した。
「そうなんや~、ごめんなさいね。アンジェは普段だと賢くてとても良い子なんだけど……こんなイタズラするなんて、珍しいわね」
女性は驚きながらも、謝ってくれた。その言葉遣いも、標準語と比べて柔らかい感じがする。恐らく、これが地元の方言である金沢弁なのだろう。
「そうなんですね。アンジェって名前も、なんだかオシャレですね」
「ホントは“アンジェラ”っていう名前なんやけど、ちょっと長いから略して“アンジェ”って呼んでるの。ちなみに、“アンジェラ”はイタリア語で“天使”っていう意味」
「天使……」
自分にされた仕打ちを考えると、天使というよりは小悪魔と表現した方が正しいのだけど。晴継は心の中でそう呟いた。
すると、何かに気付いた女性は胸ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を一枚抜き出すと両手で晴継に差し出してきた。
「申し遅れました。私、この店の店長をしている白雪と申します」
まるでビジネスウーマンのようにピシッとした姿勢に、晴継は恐縮しながら名刺を受け取る。名刺には“Trattoria・Gatto・Bianca / 白雪 智美”と流暢な文字で書かれていた。それから、畏まった感じから少し砕けた感じで「智美さんでいいですからね」と言ってくれた。
そして、気になるのは店名。先程も猫の名前をイタリア語で付けていたから、店名もイタリア語から取っているのかな。
名刺を見つめながら考えていたら、智美さんは何となく晴継が思っている事を察した様子で、説明してくれた。
「“トラットリア・ガット・ビアンカ”。“ガット”はイタリア語で“猫”、“ビアンカ”は同じくイタリア語で“白”。だから、直訳すると“トラットリア・白猫”という意味ね」
智美さんの説明に「なるほど」と思う一方で、「そもそも“トラットリア”って何?」と思う。
「ごめんごめん、普通の人は分からんよね」
反応に困る晴継の顔を見て、智美さんはうっかりしていたという風に笑いながら謝ってくれた。
「“トラットリア”というのは、イタリア語で大衆食堂みたいに誰でも気軽に入れるご飯屋さんの事なの。逆に、ドレスコードがあるような高級レストランは“リストランテ”と呼ばれているの」
「へ~……そうなんですね」
智美さんの説明を聞いて、感心する晴継。リストランテは聞いた事があるし、レストランと響きが似ているから何となく見当がつく。
それから……智美さんは少し悲しそうな表情を浮かべて、続けた。
「ひがし茶屋街は昔から続くお茶屋さんもあったけれど、普通に地元の人が住んでいる家も多かったのよ。それがここ十年程で一気に観光地化が進んで、商売を始める人も増えてきたの。でも……新しく出来たお店の大半は、外から来る観光客向け。値段も観光地価格で、地元の人が気軽に食べれるような値段設定ではない。だから、この辺りに住む人々は気軽にご飯を食べる場所が無くて困っていたの。だから、観光で来た人も地元の人も気軽に入れるお店を開きたいと思って、お店を開いたのよ」
しんみりと語る智美さんに、晴継も簡単に言葉を返せなかった。
観光客が大勢来るようになる事は、決してメリットばかりではない。商売をする人にとってはビジネスチャンスかも知れないが、そこに住む地元の人々にお金が落ちてくる事は無い。それどころか、ゴミや騒音、迷惑行為などデメリットばかりだ。みんながみんな、歓迎しているとは言い難いのは分かる。
「……っと、ごめんなさいね。こんな話しちゃった上に引き留めてしまって。それより、大事なお家のカギ、アンジェが銜えちゃったから一応消毒しましょうか?」
「い、いえ。大丈夫で――」
智美さんからの思いがけない提案に、晴継は慌てて固辞しようとしたが……室内に、腹の音が盛大に鳴り響いた。音の主は、晴継。
その音の大きさに一瞬きょとんとした顔をした智美さんだったが、すぐに大きな声で笑い出した。
「何、そんなにお腹空いていたの?」
「はい……」
自分の腹の音の大きさと他人に腹の音を聞かれた事の両方の恥ずかしさで俯きながら、晴継は小さな声で頷く。
時計を見れば、正午を10分程過ぎた頃。朝からずっと歩きっぱなしで、晴継のお腹はかなり空いていた。
すると、智美さんはここでも予期せぬ事を提案してきた。
「そうだ! これから試作品を作るんだけど、晴継君もお昼食べていかない? 是非是非感想を聞かせてほしいな」
「いえいえ、そんな……」
唐突に切り出された提案に、晴継は断ろうとした。いくらアンジェの件で振り回されたとは言え、お昼ご飯まで甘えるのは流石に悪いと思った。
「若い男性の意見を聞きたいなと前々から思っていたの。それに、アンジェの件で晴継君には迷惑をかけたし、そのお詫びの意味も込めて。ね?」
そういう風に言われると、今度は断るのが逆に悪く感じてしまう。おまけに、智美さんが手を合わせてこちらの答えを上目遣いで窺っている。
「……分かりました。お言葉に甘えさせて頂きます」
結局、折れたのは晴継の方だった。お腹が空いているのは事実だし、昼食代を節約出来るのなら乗っかりたいという気持ちも心のどこかにあった。
成り行きでお相伴に与る事になったけれど、本当に良いのだろうか……。自問自答する晴継とは対照的に、智美さんはどこか気分が上がっているように映った。
場違いな事で気持ちが萎縮して声が少し小さくなったが、断りを入れてから玄関の引き戸を開ける。
中に入って目に飛び込んできたのは、壁一面の群青色。照明が点いていなくても鮮やかである事が晴継にも分かるくらいで、この色を壁に使うのは珍しいと感じた。
声を掛けたが、返事は返ってこない。このままカギだけ取ってサッと帰るのも選択肢だったが、それだと泥棒みたいで嫌なので晴継はもう一度声を掛ける事にした。
「すみませーん……」
すると、今度は店の奥から「はーい」と女性の声が返ってきた。人が居ると分かっただけで、少しホッとした。
こちらへ向かって、人が近付いて来る音が聞こえてくる。
「はいはい、どちら様ですか~?」
ひょこっと現れたのは、スラリとした長身の若い女性。年齢は20代半ばくらい? 白のコックコートに身を包み、艶のある長い黒髪を後ろで束ねている。大人なお姉さんという感じがする。一瞬、先程の白猫と姿と重なって見えた気がした。
オドオドした顔をしている晴継を見て、小首を傾げる女性。晴継は一連の流れを説明して、カギを取らせてくれないか? と説明した。
「そうなんや~、ごめんなさいね。アンジェは普段だと賢くてとても良い子なんだけど……こんなイタズラするなんて、珍しいわね」
女性は驚きながらも、謝ってくれた。その言葉遣いも、標準語と比べて柔らかい感じがする。恐らく、これが地元の方言である金沢弁なのだろう。
「そうなんですね。アンジェって名前も、なんだかオシャレですね」
「ホントは“アンジェラ”っていう名前なんやけど、ちょっと長いから略して“アンジェ”って呼んでるの。ちなみに、“アンジェラ”はイタリア語で“天使”っていう意味」
「天使……」
自分にされた仕打ちを考えると、天使というよりは小悪魔と表現した方が正しいのだけど。晴継は心の中でそう呟いた。
すると、何かに気付いた女性は胸ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を一枚抜き出すと両手で晴継に差し出してきた。
「申し遅れました。私、この店の店長をしている白雪と申します」
まるでビジネスウーマンのようにピシッとした姿勢に、晴継は恐縮しながら名刺を受け取る。名刺には“Trattoria・Gatto・Bianca / 白雪 智美”と流暢な文字で書かれていた。それから、畏まった感じから少し砕けた感じで「智美さんでいいですからね」と言ってくれた。
そして、気になるのは店名。先程も猫の名前をイタリア語で付けていたから、店名もイタリア語から取っているのかな。
名刺を見つめながら考えていたら、智美さんは何となく晴継が思っている事を察した様子で、説明してくれた。
「“トラットリア・ガット・ビアンカ”。“ガット”はイタリア語で“猫”、“ビアンカ”は同じくイタリア語で“白”。だから、直訳すると“トラットリア・白猫”という意味ね」
智美さんの説明に「なるほど」と思う一方で、「そもそも“トラットリア”って何?」と思う。
「ごめんごめん、普通の人は分からんよね」
反応に困る晴継の顔を見て、智美さんはうっかりしていたという風に笑いながら謝ってくれた。
「“トラットリア”というのは、イタリア語で大衆食堂みたいに誰でも気軽に入れるご飯屋さんの事なの。逆に、ドレスコードがあるような高級レストランは“リストランテ”と呼ばれているの」
「へ~……そうなんですね」
智美さんの説明を聞いて、感心する晴継。リストランテは聞いた事があるし、レストランと響きが似ているから何となく見当がつく。
それから……智美さんは少し悲しそうな表情を浮かべて、続けた。
「ひがし茶屋街は昔から続くお茶屋さんもあったけれど、普通に地元の人が住んでいる家も多かったのよ。それがここ十年程で一気に観光地化が進んで、商売を始める人も増えてきたの。でも……新しく出来たお店の大半は、外から来る観光客向け。値段も観光地価格で、地元の人が気軽に食べれるような値段設定ではない。だから、この辺りに住む人々は気軽にご飯を食べる場所が無くて困っていたの。だから、観光で来た人も地元の人も気軽に入れるお店を開きたいと思って、お店を開いたのよ」
しんみりと語る智美さんに、晴継も簡単に言葉を返せなかった。
観光客が大勢来るようになる事は、決してメリットばかりではない。商売をする人にとってはビジネスチャンスかも知れないが、そこに住む地元の人々にお金が落ちてくる事は無い。それどころか、ゴミや騒音、迷惑行為などデメリットばかりだ。みんながみんな、歓迎しているとは言い難いのは分かる。
「……っと、ごめんなさいね。こんな話しちゃった上に引き留めてしまって。それより、大事なお家のカギ、アンジェが銜えちゃったから一応消毒しましょうか?」
「い、いえ。大丈夫で――」
智美さんからの思いがけない提案に、晴継は慌てて固辞しようとしたが……室内に、腹の音が盛大に鳴り響いた。音の主は、晴継。
その音の大きさに一瞬きょとんとした顔をした智美さんだったが、すぐに大きな声で笑い出した。
「何、そんなにお腹空いていたの?」
「はい……」
自分の腹の音の大きさと他人に腹の音を聞かれた事の両方の恥ずかしさで俯きながら、晴継は小さな声で頷く。
時計を見れば、正午を10分程過ぎた頃。朝からずっと歩きっぱなしで、晴継のお腹はかなり空いていた。
すると、智美さんはここでも予期せぬ事を提案してきた。
「そうだ! これから試作品を作るんだけど、晴継君もお昼食べていかない? 是非是非感想を聞かせてほしいな」
「いえいえ、そんな……」
唐突に切り出された提案に、晴継は断ろうとした。いくらアンジェの件で振り回されたとは言え、お昼ご飯まで甘えるのは流石に悪いと思った。
「若い男性の意見を聞きたいなと前々から思っていたの。それに、アンジェの件で晴継君には迷惑をかけたし、そのお詫びの意味も込めて。ね?」
そういう風に言われると、今度は断るのが逆に悪く感じてしまう。おまけに、智美さんが手を合わせてこちらの答えを上目遣いで窺っている。
「……分かりました。お言葉に甘えさせて頂きます」
結局、折れたのは晴継の方だった。お腹が空いているのは事実だし、昼食代を節約出来るのなら乗っかりたいという気持ちも心のどこかにあった。
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