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一 : 当主の苦悩(1) - 織田家の現状
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応仁の乱以降、将軍家の没落と共に長年足利家を支えてきた有力大名の細川・斯波・赤松といった守護職も急速に力を失っていった。地方では新興勢力の台頭により主従関係が覆る下克上が各地で起こっていた。駿河の今川や甲斐の武田など一部の名門は生き残ったが、大半は滅亡または実権を奪われた。
東海道筋でも下克上の嵐が吹き荒れていた。美濃では油売りから戦国大名に成り上がった斉藤“山城守”道三、三河では中小勢力から抜きん出た松平“次郎三郎”清康(松平元康の祖父)、尾張では守護代の家老という庶流から躍進した織田信秀……などが勃興した。
それに対して、駿河を代々治める今川家は清和源氏の家系で、足利将軍家の継承権を有する名門の家柄だった。その今川家は、義元の代に勢力を伸張させていった。
義元は五男で出生時には既に長兄が跡を継ぐことが決まっていて、四歳で仏門に出された。しかし、長兄が急逝したのに伴い還俗、空席となった当主の座を継ぐべく手を上げる。これに反発した家臣との間で勃発した御家騒動に勝利した義元は、晴れて今川家の当主に就いた。
その後、家中の内紛によって弱体化した三河の松平家にも手を伸ばし、庇護することと引き換えに嫡男である竹千代(後の松平元康)を人質として預かる盟約を結んだ。松平家臣の叛意により竹千代が尾張の織田家へ送られる不測の事態はあったが、これにより松平家を配下に収めることで三河を併呑することに成功した。
一方で隣国・甲斐を治める武田家とは早い段階から交誼を重ね、当主“陸奥守”信虎の娘を義元の正室に迎えて同盟を結び、嫡子“大膳太夫”晴信による信虎追放後もその関係性は堅持された。また、相模の北条家とは領土を巡って一時関係が悪化したが、武田家の仲介もあって互いに縁組を結び、これにより今川・武田・北条の三家同盟を結成するに至った。その結果、今川は背後から領国を脅かされる不安が無くなり、東へ勢力を拡大する環境が整った。
義元は都への強い憧れを抱いており、応仁の乱によって荒廃した都から落ち延びてきた公家達を駿府に受け容れただけでなく、自らも公家の装束や化粧をしていたとされる。多くの戦国大名が隣国を侵略することによる領土拡大に傾倒する中、義元は上洛することを最終目標に掲げた稀有な存在であった。
その今川義元が、満を持して上洛すべく腰を上げる。京を目指す途上にある領地の大名達、特に国境を接する尾張では衝撃が大きかった。
永禄三年五月十二日、今川義元は駿府を発った。これは公式な記録の上の話であり、配下の家臣が兵の数を整えたり行軍に必要とする兵糧や秣を支度したりする必要があるため、実際にはもっと早い段階から事前に情報は洩れていたと考えられる。
正式に今川義元が駿府を出発したとする報せを受けた信長は、直ちに主立った家臣を清須城に集めた。
「今川が遂に動いたと報せが入った。遠江の与力や三河の松平を合わせ、総勢二万五千。一説では四万とも言われている」
「四万……」
信長の口から明かされた数字に、居並ぶ面々は言葉を失った。
当時の大名が一万の兵を率いることは滅多に無かった。激戦として有名な第四次川中島の戦いでも武田方二万・上杉方一万四千だが、武田家は甲斐および信濃の大半を収めており、上杉家は交易などで財政的に余裕があったからこそ、これだけの兵を動員出来た背景がある。それが今回今川は四万の兵を率いるというのは、当時の常識では考えられない事態だった。ちなみに織田家では信秀の時代も含めて一万を超える兵を扱った経験は無く、現在動員出来る兵の数は八千が限度だ。
「兵を各所に割けば各個撃破されてしまうでしょう。ここは思い切って全ての兵を清洲へ集中させ、籠城策を採るのが最善かと……」
林“新五郎”秀貞が自らの考えを述べると、すかさず柴田“権六”勝家が反論する。
「籠城とは救援の見込みがある時にこそ有効な策。城に篭もるより野戦を仕掛けるべきだ」
「いや、四万の兵を率いるとなれば兵站の維持も難しかろう。持久戦に持ち込めば先に音を上げるのは今川の方だ」
佐久間“右衛門尉”信盛が発言すると森“三左衛門”可成が噛み付く。
「何を!! 犠牲を省みず無理攻めされたら如何する!! 今の我等では到底防ぎきれぬぞ!!」
侃々諤々の白熱した議論が繰り広げられる中、信長は額に手をやり溜め息を漏らした。
(……これが、今の織田家の現状か)
先代の信秀は、一代で尾張国のみならず三河国にも版図を広げるまでに成長させた実力者だった。その信秀は早い段階に信長を嫡子と決めた。信長の他に二人兄が居たが側室の生まれで、信長は正室土田御前から生まれた為だった。正当な血筋もあるが、幼い時分から信長の器量を信秀が評価していたのも大きかった。
ただ、信長は元服する前から周囲の者が眉を顰める程の奇行の持ち主だった。奇抜な服装、勝手気ままな振る舞いに人々は信長のことを“うつけ”と蔑み、その悪評は周辺諸国にも知れ渡る程だった。跡継ぎがこのような有様だから御家の将来を危ぶんだ家臣達が信秀に考え直すよう進言したが、信秀は頑として聞き入れなかった。
絶対的君主であり、最大の理解者である信秀が健在な間は、それで良かった。
しかし、天文二十一年に信秀が急逝したことで状況は一変した。
家督は信秀の意向に従って信長が継いだものの、家臣達の間では元々“うつけ”と言われていた信長の器量に疑問を抱く者が多かった。加えて、信長の弟“勘十郎”信行が出来の悪い兄とは対照的に品行方正な常識人だったことから、大半の家臣が信行を新たな当主として担ぐべく相次いで造反の動きを見せた。その顔触れは信行の傳役である柴田勝家だけでなく、筆頭家老の林秀貞や秀貞の弟“美作守”通具などの有力家臣が多数含まれており、形勢は明らかに信長側が不利だった。
信秀の死から四年後の弘治二年、信長に反旗を翻した信行方と稲生の地で激突。信行方千七百に対して信長方七百と不利な状況だったが、林通具を信長自ら討ち取るなど劣勢を跳ね返して勝利を収めた。土田御前の懇願により信行は助命され、家臣達も謀叛の罪を問われず赦された。だが、翌年の弘治三年に再度信行に謀叛の動きがあると傳役の勝家から密告があり、信行は謀殺された。
家中を二分した内紛を収束させた信長だったが、先代信秀の時と比べて所領を減らしただけでなく、有能な家臣を失ったのは大きな痛手であった。足軽などの下級兵は幾らでも補充が利くが、一部隊を指揮する武将は替えが利かず育成に時間が掛かる。
さらに、信秀死去とそれに伴う内紛に乗じる形で、鳴海城を任されていた山口“左馬助”教継が今川方の調略に応じて寝返り、さらに大高・沓掛の両城も今川の手に陥ちてしまった。これにより、尾張国内に今川方の足掛かりとなる拠点が生まれたことになる。
そして一番深刻なのは……御家存亡の危機こそ家中が一致団結して対処しなければならないのに、信長は誰を信じれば良いか分からなかった。家老格の林秀貞と柴田勝家は信長を見限って信行を擁立した過去があり、森可成は隣国美濃の生まれで元々斎藤道三の家臣、佐久間信盛は一貫して信長方に属しているが成り行きに任せていた面が大きく向背定まらず。“うつけ”と呼ばれていた頃から信長を慕う者達はまだ若年で、家中に及ぼす影響力は小さい。この現状を相談したくても内心を打ち明けられる腹心が居ないことを、嘆きたい気持ちだった。
結局、この日は籠城派と主戦派の対立は埋まらず、翌日改めて話し合いを行うことで決着した。
東海道筋でも下克上の嵐が吹き荒れていた。美濃では油売りから戦国大名に成り上がった斉藤“山城守”道三、三河では中小勢力から抜きん出た松平“次郎三郎”清康(松平元康の祖父)、尾張では守護代の家老という庶流から躍進した織田信秀……などが勃興した。
それに対して、駿河を代々治める今川家は清和源氏の家系で、足利将軍家の継承権を有する名門の家柄だった。その今川家は、義元の代に勢力を伸張させていった。
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一方で隣国・甲斐を治める武田家とは早い段階から交誼を重ね、当主“陸奥守”信虎の娘を義元の正室に迎えて同盟を結び、嫡子“大膳太夫”晴信による信虎追放後もその関係性は堅持された。また、相模の北条家とは領土を巡って一時関係が悪化したが、武田家の仲介もあって互いに縁組を結び、これにより今川・武田・北条の三家同盟を結成するに至った。その結果、今川は背後から領国を脅かされる不安が無くなり、東へ勢力を拡大する環境が整った。
義元は都への強い憧れを抱いており、応仁の乱によって荒廃した都から落ち延びてきた公家達を駿府に受け容れただけでなく、自らも公家の装束や化粧をしていたとされる。多くの戦国大名が隣国を侵略することによる領土拡大に傾倒する中、義元は上洛することを最終目標に掲げた稀有な存在であった。
その今川義元が、満を持して上洛すべく腰を上げる。京を目指す途上にある領地の大名達、特に国境を接する尾張では衝撃が大きかった。
永禄三年五月十二日、今川義元は駿府を発った。これは公式な記録の上の話であり、配下の家臣が兵の数を整えたり行軍に必要とする兵糧や秣を支度したりする必要があるため、実際にはもっと早い段階から事前に情報は洩れていたと考えられる。
正式に今川義元が駿府を出発したとする報せを受けた信長は、直ちに主立った家臣を清須城に集めた。
「今川が遂に動いたと報せが入った。遠江の与力や三河の松平を合わせ、総勢二万五千。一説では四万とも言われている」
「四万……」
信長の口から明かされた数字に、居並ぶ面々は言葉を失った。
当時の大名が一万の兵を率いることは滅多に無かった。激戦として有名な第四次川中島の戦いでも武田方二万・上杉方一万四千だが、武田家は甲斐および信濃の大半を収めており、上杉家は交易などで財政的に余裕があったからこそ、これだけの兵を動員出来た背景がある。それが今回今川は四万の兵を率いるというのは、当時の常識では考えられない事態だった。ちなみに織田家では信秀の時代も含めて一万を超える兵を扱った経験は無く、現在動員出来る兵の数は八千が限度だ。
「兵を各所に割けば各個撃破されてしまうでしょう。ここは思い切って全ての兵を清洲へ集中させ、籠城策を採るのが最善かと……」
林“新五郎”秀貞が自らの考えを述べると、すかさず柴田“権六”勝家が反論する。
「籠城とは救援の見込みがある時にこそ有効な策。城に篭もるより野戦を仕掛けるべきだ」
「いや、四万の兵を率いるとなれば兵站の維持も難しかろう。持久戦に持ち込めば先に音を上げるのは今川の方だ」
佐久間“右衛門尉”信盛が発言すると森“三左衛門”可成が噛み付く。
「何を!! 犠牲を省みず無理攻めされたら如何する!! 今の我等では到底防ぎきれぬぞ!!」
侃々諤々の白熱した議論が繰り広げられる中、信長は額に手をやり溜め息を漏らした。
(……これが、今の織田家の現状か)
先代の信秀は、一代で尾張国のみならず三河国にも版図を広げるまでに成長させた実力者だった。その信秀は早い段階に信長を嫡子と決めた。信長の他に二人兄が居たが側室の生まれで、信長は正室土田御前から生まれた為だった。正当な血筋もあるが、幼い時分から信長の器量を信秀が評価していたのも大きかった。
ただ、信長は元服する前から周囲の者が眉を顰める程の奇行の持ち主だった。奇抜な服装、勝手気ままな振る舞いに人々は信長のことを“うつけ”と蔑み、その悪評は周辺諸国にも知れ渡る程だった。跡継ぎがこのような有様だから御家の将来を危ぶんだ家臣達が信秀に考え直すよう進言したが、信秀は頑として聞き入れなかった。
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しかし、天文二十一年に信秀が急逝したことで状況は一変した。
家督は信秀の意向に従って信長が継いだものの、家臣達の間では元々“うつけ”と言われていた信長の器量に疑問を抱く者が多かった。加えて、信長の弟“勘十郎”信行が出来の悪い兄とは対照的に品行方正な常識人だったことから、大半の家臣が信行を新たな当主として担ぐべく相次いで造反の動きを見せた。その顔触れは信行の傳役である柴田勝家だけでなく、筆頭家老の林秀貞や秀貞の弟“美作守”通具などの有力家臣が多数含まれており、形勢は明らかに信長側が不利だった。
信秀の死から四年後の弘治二年、信長に反旗を翻した信行方と稲生の地で激突。信行方千七百に対して信長方七百と不利な状況だったが、林通具を信長自ら討ち取るなど劣勢を跳ね返して勝利を収めた。土田御前の懇願により信行は助命され、家臣達も謀叛の罪を問われず赦された。だが、翌年の弘治三年に再度信行に謀叛の動きがあると傳役の勝家から密告があり、信行は謀殺された。
家中を二分した内紛を収束させた信長だったが、先代信秀の時と比べて所領を減らしただけでなく、有能な家臣を失ったのは大きな痛手であった。足軽などの下級兵は幾らでも補充が利くが、一部隊を指揮する武将は替えが利かず育成に時間が掛かる。
さらに、信秀死去とそれに伴う内紛に乗じる形で、鳴海城を任されていた山口“左馬助”教継が今川方の調略に応じて寝返り、さらに大高・沓掛の両城も今川の手に陥ちてしまった。これにより、尾張国内に今川方の足掛かりとなる拠点が生まれたことになる。
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