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二 : うつけ、足掻く(1) - 熱田神宮の神託
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通常、総大将の出陣となれば後ろに大勢の兵を従えて華々しく行うものだが、前触れが一切無かった為に信長が清洲城を発った時には小姓五騎しか伴っていなかった。人数が揃うのを待たない方が、味方に与える衝撃が大きいと考えての判断もあった。
(……そうだ、始めからこうしておけば良かったのだ)
漆黒に染まった中をひたすら駆ける信長は、どこか吹っ切れた表情をしていた。
向背定まらぬ者の動向に頭を抱えるくらいなら、自分が周囲に諮らず動けばいい。もし俺に従うのであれば遅れてでも追いかけてくるし、敵に寝返るのであれば付いて来ないはずだ。これで敵味方の区別がはっきりつく。
どれだけの人数が俺を追いかけてくるか見当もつかないが、熱田に集結した数で挑めばいいだけの話だ。兵数で今川より大きく劣るのは重々承知している。今更兵の多寡で一喜一憂はしない。
真に、濃の申す通りだ。幼い時分から俺のやりたいようにやってきたのだ。“うつけ”と蔑んで結構、気が狂ったと思われて上等。最期の一瞬まで、俺は俺の生き方を貫く。
肚が据わると清々しい気分になった。心を覆っていた靄が晴れるとはこれ程までに心地いいものなのか。久しく忘れていた感覚に気持ちも自然と昂ぶった。
意気軒昂な面持ちで熱田へ向かう道を疾走する信長の姿は、さながら嵐に吹き荒れる暴風のようであった。
寅の正刻(午前四時)に清洲城を出た信長は途中何度か休憩を挟みながら進み、辰の正刻(午前八時)に目的地である熱田神宮に到着した。突然の陣触れに急いで追いかけてきた者達が続々と加わり、熱田神宮へ入る頃にはそれなりの人数になっていた。
(……思いの外、多いな)
今の段階で合流しているのは、騎乗が許されている武者が大勢を占めている。行軍速度で劣る足軽が後々加わることを考えれば、今居る人数からさらに膨らむことが予想される。
顔触れを見ても、徹底抗戦を叫んでいた柴田勝家や森可成、信長の信頼篤い池田恒興や丹羽長秀、さらに内通の疑いがある林秀貞や佐久間信盛の姿もあった。秀貞や信盛はてっきり日和見するか留守居に回るかと考えていたが、周囲に流される形で付き従ってきたか。どうやら主立った面々は皆揃っているようだ。まずは、重畳。気にしてはいないが、やはり兵の数は多い方が良い。
見栄えが良くなって内心満足すると、後を柴田勝家に任せて信長は一人境内を散策に出た。その足取りは思案に耽るというより、何かを探している様子だった。
木々が生い茂る一帯に差し掛かると、信長の接近に反応して茂みが揺れた。それに対して信長は身構えるでもなく、鷹揚に言葉を掛けた。
「……待ちくたびれたぞ」
直後、茂みから突然影が現れた。
「そりゃねぇですよ、殿」
泣き出しそうな声を上げたのは、“猿”こと藤吉郎だった。
藤吉郎の皺くちゃな顔を見て信長はからからと笑った。
「冗談だ、許せ。それより、頼んでいたものは?」
「……殿の冗談は冗談に聞こえない」
小さな抗議を漏らしてから、藤吉郎は茂みに隠しておいた籠を引っ張り出す。その中身を改めた信長は満足そうに頷いた。
「上出来だ。褒めて遣わす」
「へぇ、ありがとうございます。……されど殿、こんなもの何に使われるのですか?」
藤吉郎が疑問を口にすると、信長は意味深な笑みを浮かべて答えた。
「まぁ見ておれ。“ものは使い様”と言うではないか」
種明かしはしてもらえず、藤吉郎は「へえ」と応じるしかなかった。それから信長は藤吉郎に幾つか指示を与えると、用は済んだとばかりに本殿の方へ歩いていった。
卯の初刻(午前九時)になると、徒士や足軽も熱田神宮に集結し始めた。同時刻、信長は戦勝祈願を行うことを決め、主立った者も同席するよう命じた。
右筆に命じて今回の合戦の勝利を祈願する文を用意させ、祀られている熱田大神へ奉物と共に捧げる。
信長が御神前で跪いて静かに戦勝を祈っていると―――本殿の奥から甲冑が触れ合う音が聞こえた。
何の音だろうか。静粛に戦勝祈願していた一同が小首を傾げる。直後、今度は本殿の外が俄かに騒がしくなった。
何事かと外に目を向けてみれば、一羽の白鷺が本殿の前に舞い降りているではないか!
白鷺はその美しい姿や優雅な仕草から、古来より吉兆の象徴として広く知られていた。
「戦勝祈願が行われている最中、いきなり本殿の屋根に白鷺が止まったと思えば、そのまま舞い降りてきた……」
「もしや、この白鷺は熱田大神の化身か……」
雑兵達の囁きが波紋のように広がっていく中、当事者である白鷺は注目を浴びていることなどお構いなしに悠々とした足取りで境内を歩き回る。
突然の出来事にどよめきが起こり、異様な雰囲気が辺りに包まれる。
「これぞ僥倖!!」
その一声でざわついていた将兵が水を打ったように静まり返った。その声の主は……総大将・信長!
「その白鷺こそ熱田大神が遣わした神託!! この戦、熱田大神の御加護を受けた我等の勝利に間違いなし!!」
直後、男達の咆哮が地鳴りとなって沸き立った。
興奮した将兵達が次々と雄叫びを挙げ、手にしていた刀や槍を天に向かって突き上げる。熱田神宮は厳かで静謐な雰囲気から一変し、人々の声で大地も空気も揺れていた。
「勝利間違いなし!!」
「御大将万歳!!」
信長が投じた一石で、織田方の将兵に熱が伝播していくのがひしひしと伝わってきた。
あまりにも神懸かった展開に、決戦に及び腰だった林秀貞や佐久間信盛の頬にも赤みが帯びていた。『もしかすると勝てるかも……」と思い始めているのかも知れない。
柴田勝家や森可成は単純なもので、突然舞い降りた僥倖に味方の勝利を信じて疑わない様子だった。日頃落ち着いている丹羽長秀もまた、熱気に呑まれて皆と同じように拳を天に突き上げていた。
(……まずは、良し)
将兵の反応を確かめた信長は、側に居た勝家を呼んだ。
「権六」
「はっ!!」
「これより出陣する。急ぎ支度を整えよ」
「承知致しました!!」
勝家は興奮冷めやらぬ調子で応じると、大股で歩いていった。他の家臣達もそれに続き、境内で奇蹟を目撃した雑兵達も勢いに任せて出撃に取り掛かる。
いつしか御神前の間には信長一人だけになっていた。
「……もういいぞ」
信長が呟くと、奥から人影がひょっこりと現れる。
出てきたのは熱田の鳥居前町で米問屋を営んでいる商人の息子、弥助だった。その手には何故か具足を持っている。
「あのー、吉法師様……」
「ん? 何だ?」
「その、本当によろしかったのですか? こんな神様を騙すようなことをして……」
これまでのやりとりは、奇蹟でも何でも無い。全て、信長が仕込んだ茶番劇だったのだ。
清洲城を出る間際、信長は藤吉郎に四つのことを申し付けた。
一つ。熱田の弥助に言伝を届けること。
二つ。熱田神宮に白鷺を届けること。可能なら純白なもの。
三つ。同じく熱田神宮まで具足を一着用意すること。
言伝を携えた藤吉郎はその足で弥助の実家に直行、有無を言わさず連れ出した。弥助も信長が“うつけ”と呼ばれていた頃に散々振り回された経験があるので、理由も詳しく聞かされず連れ出されても文句一つ漏らさなかった。
それから熱田神宮まで連れて来られると弥助は御神前の控え室へ押し込まれ、信長は藤吉郎が用意した具足を手渡しながらこう告げた。
『これから戦勝祈願を行う。俺が御神前で跪いたら具足を鳴らせ』
所謂“やらせ”の強要だった。驚く弥助だったが、相手は何を言っても聞かない信長。抗っても無駄と黙って受け容れるしかなかった。
「天罰が恐ろしいか? 若い頃に各地の祠や神社の御神体を明かして回ったではないか。天罰が下るなら疾うに俺の身に下っておるわ」
大胆不敵に言い放った信長は傲然と胸を張った。
信長は幼少期から神仏の存在を信じていなかった。現代社会と比べて宗教が人々の生活と密接に関わっていたこの時代で、信長のような無宗教論者は稀少だった。領主の圧政と年貢の搾取に苦しんでいた農民は死後に極楽へ行けることを日々の糧に生きていたし、坊主が唆せば一揆も起こした。それ程にまで信仰心が実世界と繋がっていたので、神罰の存在も本気で恐れていた。
「まぁ、そりゃそうですけど……」
弥助も信長の我が儘に付き合わされ、一緒に御神体の正体を何度も目撃していた。当初こそ自分の身に災いや不幸が降り懸かるのではないかとビクビクしていたが、一日経っても、三日経っても、一月経っても、そして今に至るまで自分の身に天罰は降り懸からなかった。悪魔の証明が立証されたのである。それでも、信心深い弥助は今回の仕掛けにおどおどしていたのだが……。
「それに、熱田の商人達は俺に勝ってもらわないと困るのだろ?」
信長の問いかけに弥助は無言で頷いた。
熱田や津島は信長の父・信秀の統治下に入って以降、自由な商いが奨励されて商人達は様々な恩恵を受けていた。一方、今川では昔からの御用商人が幅を利かせており、遠江や三河の富は駿河の今川へ吸い上げられる構造になっていた。そういった観点から考えれば、尾張の商人達には信長に是が非でも今川を斥けてもらいたかった。
「それで……勝てそうなのですか?」
弥助が恐る恐る訊ねると、信長は素っ気無く「分からん」とだけ答えた。
正直なことを言えば、熱田大神の加護で勝てるならどんな代償を払ってでも縋りたかった。普段神仏の存在を信じていない信長がその力に頼るということは、それだけ今回の戦に並々ならぬ勝利への執念を燃やしている裏返しだった。
まともにぶつかれば、敗北は必至。覆し難い圧倒的な差を埋める為に、最大限手は尽くしたつもりだ。あとは天に全てを委ねるしかない。
どうせ人間は五十年程度しか生きられないのだ。ならば精々足掻くまでだ。
「あの、吉ぽ……いえ、信長様」
呼び名を改めた弥助は、意を決した表情で信長の方に向き直った。
「必ず、帰ってきて下さいね。待ってますから」
これから出陣すれば、帰って来るのは勝った場合だけ。弥助もまた、信長が勝つと信じているのだ。
(……まさかこんな所で俺を信じてくれる者に出逢えるとは、な)
古株の家臣には嫌われたが、領民からは好かれているという印象はあった。やんちゃをしていた頃は“うつけ”と呼ばれていたが、それでも信長は自らの身分を笠に着るような態度は一切見せなかった。自分から気さくに話しかけ、領民の悩み事や困り事に対して真剣に耳を傾けた。また、村で盆踊りが行われた際に信長はお忍びで参加して村民と一緒に踊りを踊ったとする逸話も残されている。
道や橋を整備し、治安に気を配り、領民が快適に暮らせるよう尽力してきた。だからこそ信長は素晴らしい領主と領民達から慕われていた。
俺が勝つと信じている者が待ってくれている以上、戻って来なければなるまい。
「―――うむ」
信長は短く応えると、本殿から出て行った。
眼前に広がっていたのは、身分の上下を問わず俺を信じて従ってくれる力強い味方達が境内を埋め尽くさんばかりの光景だった。
(……そうだ、始めからこうしておけば良かったのだ)
漆黒に染まった中をひたすら駆ける信長は、どこか吹っ切れた表情をしていた。
向背定まらぬ者の動向に頭を抱えるくらいなら、自分が周囲に諮らず動けばいい。もし俺に従うのであれば遅れてでも追いかけてくるし、敵に寝返るのであれば付いて来ないはずだ。これで敵味方の区別がはっきりつく。
どれだけの人数が俺を追いかけてくるか見当もつかないが、熱田に集結した数で挑めばいいだけの話だ。兵数で今川より大きく劣るのは重々承知している。今更兵の多寡で一喜一憂はしない。
真に、濃の申す通りだ。幼い時分から俺のやりたいようにやってきたのだ。“うつけ”と蔑んで結構、気が狂ったと思われて上等。最期の一瞬まで、俺は俺の生き方を貫く。
肚が据わると清々しい気分になった。心を覆っていた靄が晴れるとはこれ程までに心地いいものなのか。久しく忘れていた感覚に気持ちも自然と昂ぶった。
意気軒昂な面持ちで熱田へ向かう道を疾走する信長の姿は、さながら嵐に吹き荒れる暴風のようであった。
寅の正刻(午前四時)に清洲城を出た信長は途中何度か休憩を挟みながら進み、辰の正刻(午前八時)に目的地である熱田神宮に到着した。突然の陣触れに急いで追いかけてきた者達が続々と加わり、熱田神宮へ入る頃にはそれなりの人数になっていた。
(……思いの外、多いな)
今の段階で合流しているのは、騎乗が許されている武者が大勢を占めている。行軍速度で劣る足軽が後々加わることを考えれば、今居る人数からさらに膨らむことが予想される。
顔触れを見ても、徹底抗戦を叫んでいた柴田勝家や森可成、信長の信頼篤い池田恒興や丹羽長秀、さらに内通の疑いがある林秀貞や佐久間信盛の姿もあった。秀貞や信盛はてっきり日和見するか留守居に回るかと考えていたが、周囲に流される形で付き従ってきたか。どうやら主立った面々は皆揃っているようだ。まずは、重畳。気にしてはいないが、やはり兵の数は多い方が良い。
見栄えが良くなって内心満足すると、後を柴田勝家に任せて信長は一人境内を散策に出た。その足取りは思案に耽るというより、何かを探している様子だった。
木々が生い茂る一帯に差し掛かると、信長の接近に反応して茂みが揺れた。それに対して信長は身構えるでもなく、鷹揚に言葉を掛けた。
「……待ちくたびれたぞ」
直後、茂みから突然影が現れた。
「そりゃねぇですよ、殿」
泣き出しそうな声を上げたのは、“猿”こと藤吉郎だった。
藤吉郎の皺くちゃな顔を見て信長はからからと笑った。
「冗談だ、許せ。それより、頼んでいたものは?」
「……殿の冗談は冗談に聞こえない」
小さな抗議を漏らしてから、藤吉郎は茂みに隠しておいた籠を引っ張り出す。その中身を改めた信長は満足そうに頷いた。
「上出来だ。褒めて遣わす」
「へぇ、ありがとうございます。……されど殿、こんなもの何に使われるのですか?」
藤吉郎が疑問を口にすると、信長は意味深な笑みを浮かべて答えた。
「まぁ見ておれ。“ものは使い様”と言うではないか」
種明かしはしてもらえず、藤吉郎は「へえ」と応じるしかなかった。それから信長は藤吉郎に幾つか指示を与えると、用は済んだとばかりに本殿の方へ歩いていった。
卯の初刻(午前九時)になると、徒士や足軽も熱田神宮に集結し始めた。同時刻、信長は戦勝祈願を行うことを決め、主立った者も同席するよう命じた。
右筆に命じて今回の合戦の勝利を祈願する文を用意させ、祀られている熱田大神へ奉物と共に捧げる。
信長が御神前で跪いて静かに戦勝を祈っていると―――本殿の奥から甲冑が触れ合う音が聞こえた。
何の音だろうか。静粛に戦勝祈願していた一同が小首を傾げる。直後、今度は本殿の外が俄かに騒がしくなった。
何事かと外に目を向けてみれば、一羽の白鷺が本殿の前に舞い降りているではないか!
白鷺はその美しい姿や優雅な仕草から、古来より吉兆の象徴として広く知られていた。
「戦勝祈願が行われている最中、いきなり本殿の屋根に白鷺が止まったと思えば、そのまま舞い降りてきた……」
「もしや、この白鷺は熱田大神の化身か……」
雑兵達の囁きが波紋のように広がっていく中、当事者である白鷺は注目を浴びていることなどお構いなしに悠々とした足取りで境内を歩き回る。
突然の出来事にどよめきが起こり、異様な雰囲気が辺りに包まれる。
「これぞ僥倖!!」
その一声でざわついていた将兵が水を打ったように静まり返った。その声の主は……総大将・信長!
「その白鷺こそ熱田大神が遣わした神託!! この戦、熱田大神の御加護を受けた我等の勝利に間違いなし!!」
直後、男達の咆哮が地鳴りとなって沸き立った。
興奮した将兵達が次々と雄叫びを挙げ、手にしていた刀や槍を天に向かって突き上げる。熱田神宮は厳かで静謐な雰囲気から一変し、人々の声で大地も空気も揺れていた。
「勝利間違いなし!!」
「御大将万歳!!」
信長が投じた一石で、織田方の将兵に熱が伝播していくのがひしひしと伝わってきた。
あまりにも神懸かった展開に、決戦に及び腰だった林秀貞や佐久間信盛の頬にも赤みが帯びていた。『もしかすると勝てるかも……」と思い始めているのかも知れない。
柴田勝家や森可成は単純なもので、突然舞い降りた僥倖に味方の勝利を信じて疑わない様子だった。日頃落ち着いている丹羽長秀もまた、熱気に呑まれて皆と同じように拳を天に突き上げていた。
(……まずは、良し)
将兵の反応を確かめた信長は、側に居た勝家を呼んだ。
「権六」
「はっ!!」
「これより出陣する。急ぎ支度を整えよ」
「承知致しました!!」
勝家は興奮冷めやらぬ調子で応じると、大股で歩いていった。他の家臣達もそれに続き、境内で奇蹟を目撃した雑兵達も勢いに任せて出撃に取り掛かる。
いつしか御神前の間には信長一人だけになっていた。
「……もういいぞ」
信長が呟くと、奥から人影がひょっこりと現れる。
出てきたのは熱田の鳥居前町で米問屋を営んでいる商人の息子、弥助だった。その手には何故か具足を持っている。
「あのー、吉法師様……」
「ん? 何だ?」
「その、本当によろしかったのですか? こんな神様を騙すようなことをして……」
これまでのやりとりは、奇蹟でも何でも無い。全て、信長が仕込んだ茶番劇だったのだ。
清洲城を出る間際、信長は藤吉郎に四つのことを申し付けた。
一つ。熱田の弥助に言伝を届けること。
二つ。熱田神宮に白鷺を届けること。可能なら純白なもの。
三つ。同じく熱田神宮まで具足を一着用意すること。
言伝を携えた藤吉郎はその足で弥助の実家に直行、有無を言わさず連れ出した。弥助も信長が“うつけ”と呼ばれていた頃に散々振り回された経験があるので、理由も詳しく聞かされず連れ出されても文句一つ漏らさなかった。
それから熱田神宮まで連れて来られると弥助は御神前の控え室へ押し込まれ、信長は藤吉郎が用意した具足を手渡しながらこう告げた。
『これから戦勝祈願を行う。俺が御神前で跪いたら具足を鳴らせ』
所謂“やらせ”の強要だった。驚く弥助だったが、相手は何を言っても聞かない信長。抗っても無駄と黙って受け容れるしかなかった。
「天罰が恐ろしいか? 若い頃に各地の祠や神社の御神体を明かして回ったではないか。天罰が下るなら疾うに俺の身に下っておるわ」
大胆不敵に言い放った信長は傲然と胸を張った。
信長は幼少期から神仏の存在を信じていなかった。現代社会と比べて宗教が人々の生活と密接に関わっていたこの時代で、信長のような無宗教論者は稀少だった。領主の圧政と年貢の搾取に苦しんでいた農民は死後に極楽へ行けることを日々の糧に生きていたし、坊主が唆せば一揆も起こした。それ程にまで信仰心が実世界と繋がっていたので、神罰の存在も本気で恐れていた。
「まぁ、そりゃそうですけど……」
弥助も信長の我が儘に付き合わされ、一緒に御神体の正体を何度も目撃していた。当初こそ自分の身に災いや不幸が降り懸かるのではないかとビクビクしていたが、一日経っても、三日経っても、一月経っても、そして今に至るまで自分の身に天罰は降り懸からなかった。悪魔の証明が立証されたのである。それでも、信心深い弥助は今回の仕掛けにおどおどしていたのだが……。
「それに、熱田の商人達は俺に勝ってもらわないと困るのだろ?」
信長の問いかけに弥助は無言で頷いた。
熱田や津島は信長の父・信秀の統治下に入って以降、自由な商いが奨励されて商人達は様々な恩恵を受けていた。一方、今川では昔からの御用商人が幅を利かせており、遠江や三河の富は駿河の今川へ吸い上げられる構造になっていた。そういった観点から考えれば、尾張の商人達には信長に是が非でも今川を斥けてもらいたかった。
「それで……勝てそうなのですか?」
弥助が恐る恐る訊ねると、信長は素っ気無く「分からん」とだけ答えた。
正直なことを言えば、熱田大神の加護で勝てるならどんな代償を払ってでも縋りたかった。普段神仏の存在を信じていない信長がその力に頼るということは、それだけ今回の戦に並々ならぬ勝利への執念を燃やしている裏返しだった。
まともにぶつかれば、敗北は必至。覆し難い圧倒的な差を埋める為に、最大限手は尽くしたつもりだ。あとは天に全てを委ねるしかない。
どうせ人間は五十年程度しか生きられないのだ。ならば精々足掻くまでだ。
「あの、吉ぽ……いえ、信長様」
呼び名を改めた弥助は、意を決した表情で信長の方に向き直った。
「必ず、帰ってきて下さいね。待ってますから」
これから出陣すれば、帰って来るのは勝った場合だけ。弥助もまた、信長が勝つと信じているのだ。
(……まさかこんな所で俺を信じてくれる者に出逢えるとは、な)
古株の家臣には嫌われたが、領民からは好かれているという印象はあった。やんちゃをしていた頃は“うつけ”と呼ばれていたが、それでも信長は自らの身分を笠に着るような態度は一切見せなかった。自分から気さくに話しかけ、領民の悩み事や困り事に対して真剣に耳を傾けた。また、村で盆踊りが行われた際に信長はお忍びで参加して村民と一緒に踊りを踊ったとする逸話も残されている。
道や橋を整備し、治安に気を配り、領民が快適に暮らせるよう尽力してきた。だからこそ信長は素晴らしい領主と領民達から慕われていた。
俺が勝つと信じている者が待ってくれている以上、戻って来なければなるまい。
「―――うむ」
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