8 / 31
一輪の薔薇
しおりを挟む
彼が去った後の店内で、リネットは真っ赤になった顔を両手で覆った。
(何なのよ、あの男……! 私の魔法をあんなに真っ直ぐ褒めるなんて…これは王子の気まぐれよ!)
怒っているはずなのに、心臓がいつもより少しだけ速く打っていることに、リネットはまだ気づかないふりをしていた。
店を出たルカは、そのまま真っ直ぐ城へは戻らなかった。
彼は薄い街着のフードを深く被り、人混みに紛れる。しかし、雑踏の中にいても、その洗練された立ち振る舞いや、無意識に背筋の伸びた歩き方は、隠しきれない高貴な育ちの良さを物語っていた。
ルカが足を止めたのは、大通りに面した一軒の立派な花屋だった。そこは王宮へも納品しているという、王都でも指折りの有名店だ。
「いらっしゃいませ。……おや、お客様。何かお探しで?」
店主はルカの纏うただならぬ空気を感じ取り、揉み手で近づいてくる。ルカは「仕事モード」の、隙のない優雅な微笑を浮かべて口を開いた。
「すみません、お花を一輪ください」
「左様でございますか。どなたに差し上げるのですか?」
店主の問いに、ルカは一瞬だけ、路地裏の小さな店で憤慨していた少女の姿を思い浮かべた。
「……とても可憐な。……けれど、鋭い棘(とげ)のある方に」
「おや、それはまた……。では、こちらの見事な赤い薔薇などいかがでしょう。温室で最高級の肥料を使って育てられた、今が盛りの一品です」
ルカは差し出された薔薇を買い取り、城の自室へと持ち帰った。
執務机の上に置かれたその薔薇は、確かに美しい。形も整い、色も鮮やかだ。しかし、ルカが手をかざして魔力を探ると、そこにあるのはただの「植物の生命力」だけだった。
(……やっぱり、違うな)
リネットが育てる花にあった、あの水が血管を流れるような瑞々しさや、土と光が呼吸を合わせているような一体感が、この最高級の薔薇には決定的に欠けていた。
「『知識で分かっても、心でお花と対話できなきゃ無理』……だったかな」
ルカは独り言をこぼすと、じっとその薔薇を見つめた。
全属性を操り、どんな高位魔法も初見で再現してきた天才が、今、少女に言われた「対話」という難題に挑もうとしていた。
彼は見よう見まねで、リネットの指先の動きを再現するように、ゆっくりと魔力を練り上げた。
「土の温度に合わせる……そして、光の屈折率を……」
まずは掌に小さな光を灯し、それを水の魔法に溶け込ませていく。強大な魔力が薔薇に触れた瞬間、花びらがビクリと震えた。
「……あ。……ごめん、驚かせたね」
ルカは慌てて魔力を絞った。今まで、魔法とは「対象を屈服させ、意のままに操るもの」だと思っていた。だが、今は違う。
彼はかつてないほど繊細に、薔薇が何を求めているのかを探るように、静かに目を閉じた。
部屋の隅、影に溶け込むように立っていたセバスは、主人の背中をじっと見守っていた。
かつて戦場で敵を焼き払い、あるいは冷徹に政務をこなしてきたその指先が、今はたった一輪の薔薇を前に、震えるほど繊細に魔力を編み上げている。
(……静かなもんだ。あんなに必死なルカ、初めて見たよ)
セバスは声をかけず、静かにその場を立ち去った。主人が「心」という、魔力よりも扱いにくいものと向き合い始めたことに、柄にもなく感心してしまったからだ。
ルカは夜が更けるのも忘れ、一輪の薔薇に語りかけ続けた。
「喉は乾いていないかい?」
「光は眩しすぎないかな」
返事のない植物を相手に、彼は自分の内側にある傲慢さを一つずつ削ぎ落とすように、静かな時間を過ごしていた。
(何なのよ、あの男……! 私の魔法をあんなに真っ直ぐ褒めるなんて…これは王子の気まぐれよ!)
怒っているはずなのに、心臓がいつもより少しだけ速く打っていることに、リネットはまだ気づかないふりをしていた。
店を出たルカは、そのまま真っ直ぐ城へは戻らなかった。
彼は薄い街着のフードを深く被り、人混みに紛れる。しかし、雑踏の中にいても、その洗練された立ち振る舞いや、無意識に背筋の伸びた歩き方は、隠しきれない高貴な育ちの良さを物語っていた。
ルカが足を止めたのは、大通りに面した一軒の立派な花屋だった。そこは王宮へも納品しているという、王都でも指折りの有名店だ。
「いらっしゃいませ。……おや、お客様。何かお探しで?」
店主はルカの纏うただならぬ空気を感じ取り、揉み手で近づいてくる。ルカは「仕事モード」の、隙のない優雅な微笑を浮かべて口を開いた。
「すみません、お花を一輪ください」
「左様でございますか。どなたに差し上げるのですか?」
店主の問いに、ルカは一瞬だけ、路地裏の小さな店で憤慨していた少女の姿を思い浮かべた。
「……とても可憐な。……けれど、鋭い棘(とげ)のある方に」
「おや、それはまた……。では、こちらの見事な赤い薔薇などいかがでしょう。温室で最高級の肥料を使って育てられた、今が盛りの一品です」
ルカは差し出された薔薇を買い取り、城の自室へと持ち帰った。
執務机の上に置かれたその薔薇は、確かに美しい。形も整い、色も鮮やかだ。しかし、ルカが手をかざして魔力を探ると、そこにあるのはただの「植物の生命力」だけだった。
(……やっぱり、違うな)
リネットが育てる花にあった、あの水が血管を流れるような瑞々しさや、土と光が呼吸を合わせているような一体感が、この最高級の薔薇には決定的に欠けていた。
「『知識で分かっても、心でお花と対話できなきゃ無理』……だったかな」
ルカは独り言をこぼすと、じっとその薔薇を見つめた。
全属性を操り、どんな高位魔法も初見で再現してきた天才が、今、少女に言われた「対話」という難題に挑もうとしていた。
彼は見よう見まねで、リネットの指先の動きを再現するように、ゆっくりと魔力を練り上げた。
「土の温度に合わせる……そして、光の屈折率を……」
まずは掌に小さな光を灯し、それを水の魔法に溶け込ませていく。強大な魔力が薔薇に触れた瞬間、花びらがビクリと震えた。
「……あ。……ごめん、驚かせたね」
ルカは慌てて魔力を絞った。今まで、魔法とは「対象を屈服させ、意のままに操るもの」だと思っていた。だが、今は違う。
彼はかつてないほど繊細に、薔薇が何を求めているのかを探るように、静かに目を閉じた。
部屋の隅、影に溶け込むように立っていたセバスは、主人の背中をじっと見守っていた。
かつて戦場で敵を焼き払い、あるいは冷徹に政務をこなしてきたその指先が、今はたった一輪の薔薇を前に、震えるほど繊細に魔力を編み上げている。
(……静かなもんだ。あんなに必死なルカ、初めて見たよ)
セバスは声をかけず、静かにその場を立ち去った。主人が「心」という、魔力よりも扱いにくいものと向き合い始めたことに、柄にもなく感心してしまったからだ。
ルカは夜が更けるのも忘れ、一輪の薔薇に語りかけ続けた。
「喉は乾いていないかい?」
「光は眩しすぎないかな」
返事のない植物を相手に、彼は自分の内側にある傲慢さを一つずつ削ぎ落とすように、静かな時間を過ごしていた。
0
あなたにおすすめの小説
あなたの片想いを聞いてしまった夜
柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」
公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。
政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。
しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。
「好きな人がいる。……片想いなんだ」
名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。
うわさの行方
下沢翠花(しもざわすいか)
恋愛
まだ十歳で結婚したセシリア。
すぐに戦場へ行ってしまった夫のニールスは優しい人だった。
戦場から帰るまでは。
三年ぶりにあったニールスは、なぜかセシリアを遠ざける。
ニールスの素っ気ない態度に傷つき疲弊していくセシリアは謂れのない酷い噂に追い詰められて行く。
妻が通う邸の中に
月山 歩
恋愛
最近妻の様子がおかしい。昼間一人で出掛けているようだ。二人に子供はできなかったけれども、妻と愛し合っていると思っている。僕は妻を誰にも奪われたくない。だから僕は、妻の向かう先を調べることににした。
【完結】ルースの祈り ~笑顔も涙もすべて~
ねるねわかば
恋愛
悪路に閉ざされた貧しい辺境ルースライン領。
兄を支えたい子爵令嬢リゼは、視察に来た調査官のずさんな仕事に思わず異議を唱える。
異議を唱えた相手は、侯爵家の子息で冷静沈着な官吏ギルベルト。
最悪の出会いだった二人だが、領の問題に向き合う中で互いの誠実さを知り、次第に理解し合っていく。
やがてリゼが王都で働き始めたことを機に距離を縮める二人。しかし立ちはだかるのは身分差と政略結婚という現実。自分では彼の未来を縛れないと、リゼは想いを押し込めようとする。
そんな中、故郷の川で拾われる“名もなき石”が思わぬ縁を呼び、リゼの選択と領の未来を動かしていく――。
想いと責務の狭間で揺れる青年と、自分を後回しにしがちな少女。
すれ違いと葛藤の先で、二人は互いを選び取れるのか。
辺境令嬢の小さな勇気が恋と運命を変えていく。
※作中の仕事や災害、病、小物の知識などは全てフィクションです。史実や事実に基づいていないことをご理解ください。
※8万字前後になる予定です。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる