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必死の逃亡
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一方その頃。
「……何なのよ、もう。一回もお花に触れずに、開店時間を過ぎるなんて」
リネットはイライラと箒を動かしていた。昨日の今日で、あんなに嬉しそうに名前を呼んでいた男が、嘘のように姿を見せない。
「やっぱり『王子様』ね。一日頑張ったら、もう満足しちゃったのかしら。結局、私はただの暇つぶしの……」
そこまで言いかけて、リネットは言葉を飲み込んだ。
通りの向こうから、一騎の馬が、およそ「散歩」とは呼べないほどの危なっかしい足取りでこちらに向かってくるのが見えたからだ。
「……ちょっと、まさか」
馬が店の前で止まる。
鞍から崩れ落ちるように降りてきたのは、土気色の顔をしたルカだった。
「やあ、……おはよう、リネット……。遅くなって、ごめん……」
「あんた……! 何その顔! 何で馬に乗ってるのよ!」
リネットが駆け寄るより先に、ルカの膝がガクンと折れた。
彼はリネットの肩に頭を預けるようにして、そのままズルズルと地面に崩れ落ちる。
「……練習、しなきゃ……。君に……忘れられちゃう前に……」
「馬鹿じゃないの!? 忘れられるわけないでしょ、こんな馬鹿なことされたら!」
リネットは慌ててルカの額に手を当てた。
「熱っ!……ちょっと、あんた死ぬ気!? ルカ!」
「ちょっと! しっかりしてよ!」
リネットは自分よりも一回り大きなルカの体を必死に支え、ふらつく足取りで店の奥へと運び込んだ。そこは、彼女がいつも眠っている、花の香りが染み付いた質素なベッドだ。
「……セバスさんは? 一緒じゃないの!?」
ベッドに横たわらせ、必死に呼びかけるリネット。しかし、熱に浮かされたルカの口から出たのは、思いもよらない言葉だった。
「……また、セバス? ……君は、あいつのことが……そんなに好きなんだね……」
ルカは焦点の定まらない瞳でリネットを睨むように見上げ、子供のように唇を尖らせた。重い体を引きずってまでここに来た自分より、まず執事の心配をされたことが、熱のせいか余計に腹立たしく、悲しかったのだ。
「はあ!? 何言ってるのよ、この分からず屋! セバスさんと一緒なら、こんな無茶させるわけないでしょって意味よ!」
リネットは呆れて声を荒らげたが、ルカはどこか不貞腐れたように顔を背けてしまった。
「……こんな状態で馬に乗って来るなんて、本当にバカじゃないの!? ちょっと待ってて。何か温かいタオル……それから、飲み物……」
リネットが慌てて準備をするために部屋を飛び出していく。
残されたルカは、リネットの枕から漂う、微かな土の香りと花の匂いに包まれていた。
(……セバス……。僕は……あいつみたいに、君をスマートに助けられない……。でも……)
意識の混濁した頭で、彼は自分と執事を比べ、リネットがセバスに向けたあの屈託のない笑顔を思い出していた。自分もいつか、あんな風に、何の後ろめたさもなく隣に立てるだろうか。
「……リネット……」
最後にその名を小さく呟くと、ルカは力尽きたように深い眠りへと落ちていった。
数分後、温かいタオルと特製のハーブティーを持って戻ってきたリネットは、幼子のように眠る王子の顔を見て、毒気を抜かれたように立ち尽くした。
「……さっきの……ヤキモチってこと? このお調子者」
温かいタオルをルカの額に乗せながら、リネットはポツリと独り言をこぼした。自分の言った言葉が後からじわじわと脳内に響き、彼女の頬は一気に林檎のように赤くなる。
(ヤキモチって……まさか、ね。あんな高貴な王子様が、ただの執事と私に……?)
そう思い直そうとするが、眠っているルカの眉間の皺が、まだセバスへの不満を訴えているように見えて、リネットの心臓はさらにうるさく跳ねた。
「……バカね、私は。こんな熱に浮かされた人の言葉を、真面目に受け取っちゃって」
リネットは照れ隠しにパタパタと手で顔を扇ぎ、ルカの呼吸を整えるために寝台の傍らへ座り込んだ。
ルカはリネットの枕に残る、日だまりと花の匂いに包まれながら、とても穏やかな表情で眠っている。
時折、熱のせいで「……リネット……」と、うわ言を漏らすたび、彼女はそのたびに「はいはい、ここにいるわよ」と、自分でも驚くほど優しい声で返事をしていた。
花の魔法で少しずつ周囲の空気を清らかにし、彼の熱を吸い取っていく。
カランコロン
そこへ、店のドアが勢いよく開く音が響いた。
「――ルカ様、こちらで勝手に『お昼寝』ですか」
現れたのは、いつもより少しだけ息を乱したセバスだった。だが、リネットのベッドで横たわる主人の姿と、それを見守るリネットの真っ赤な顔を見て、彼はすべてを察したように優雅な微笑を浮かべた。
「リネット殿。うちの『駄々っ子』が、大変なご迷惑をおかけしているようで」
「セ、セバスさん……! ちょうどよかった、この人、熱が凄くて……!」
リネットは立ち上がり、救世主を見るような目でセバスを見た。しかし、ルカは眠りながらもその気配を感じ取ったのか、リネットの手のひらをぎゅっと握りしめて離そうとしなかった。
「……何なのよ、もう。一回もお花に触れずに、開店時間を過ぎるなんて」
リネットはイライラと箒を動かしていた。昨日の今日で、あんなに嬉しそうに名前を呼んでいた男が、嘘のように姿を見せない。
「やっぱり『王子様』ね。一日頑張ったら、もう満足しちゃったのかしら。結局、私はただの暇つぶしの……」
そこまで言いかけて、リネットは言葉を飲み込んだ。
通りの向こうから、一騎の馬が、およそ「散歩」とは呼べないほどの危なっかしい足取りでこちらに向かってくるのが見えたからだ。
「……ちょっと、まさか」
馬が店の前で止まる。
鞍から崩れ落ちるように降りてきたのは、土気色の顔をしたルカだった。
「やあ、……おはよう、リネット……。遅くなって、ごめん……」
「あんた……! 何その顔! 何で馬に乗ってるのよ!」
リネットが駆け寄るより先に、ルカの膝がガクンと折れた。
彼はリネットの肩に頭を預けるようにして、そのままズルズルと地面に崩れ落ちる。
「……練習、しなきゃ……。君に……忘れられちゃう前に……」
「馬鹿じゃないの!? 忘れられるわけないでしょ、こんな馬鹿なことされたら!」
リネットは慌ててルカの額に手を当てた。
「熱っ!……ちょっと、あんた死ぬ気!? ルカ!」
「ちょっと! しっかりしてよ!」
リネットは自分よりも一回り大きなルカの体を必死に支え、ふらつく足取りで店の奥へと運び込んだ。そこは、彼女がいつも眠っている、花の香りが染み付いた質素なベッドだ。
「……セバスさんは? 一緒じゃないの!?」
ベッドに横たわらせ、必死に呼びかけるリネット。しかし、熱に浮かされたルカの口から出たのは、思いもよらない言葉だった。
「……また、セバス? ……君は、あいつのことが……そんなに好きなんだね……」
ルカは焦点の定まらない瞳でリネットを睨むように見上げ、子供のように唇を尖らせた。重い体を引きずってまでここに来た自分より、まず執事の心配をされたことが、熱のせいか余計に腹立たしく、悲しかったのだ。
「はあ!? 何言ってるのよ、この分からず屋! セバスさんと一緒なら、こんな無茶させるわけないでしょって意味よ!」
リネットは呆れて声を荒らげたが、ルカはどこか不貞腐れたように顔を背けてしまった。
「……こんな状態で馬に乗って来るなんて、本当にバカじゃないの!? ちょっと待ってて。何か温かいタオル……それから、飲み物……」
リネットが慌てて準備をするために部屋を飛び出していく。
残されたルカは、リネットの枕から漂う、微かな土の香りと花の匂いに包まれていた。
(……セバス……。僕は……あいつみたいに、君をスマートに助けられない……。でも……)
意識の混濁した頭で、彼は自分と執事を比べ、リネットがセバスに向けたあの屈託のない笑顔を思い出していた。自分もいつか、あんな風に、何の後ろめたさもなく隣に立てるだろうか。
「……リネット……」
最後にその名を小さく呟くと、ルカは力尽きたように深い眠りへと落ちていった。
数分後、温かいタオルと特製のハーブティーを持って戻ってきたリネットは、幼子のように眠る王子の顔を見て、毒気を抜かれたように立ち尽くした。
「……さっきの……ヤキモチってこと? このお調子者」
温かいタオルをルカの額に乗せながら、リネットはポツリと独り言をこぼした。自分の言った言葉が後からじわじわと脳内に響き、彼女の頬は一気に林檎のように赤くなる。
(ヤキモチって……まさか、ね。あんな高貴な王子様が、ただの執事と私に……?)
そう思い直そうとするが、眠っているルカの眉間の皺が、まだセバスへの不満を訴えているように見えて、リネットの心臓はさらにうるさく跳ねた。
「……バカね、私は。こんな熱に浮かされた人の言葉を、真面目に受け取っちゃって」
リネットは照れ隠しにパタパタと手で顔を扇ぎ、ルカの呼吸を整えるために寝台の傍らへ座り込んだ。
ルカはリネットの枕に残る、日だまりと花の匂いに包まれながら、とても穏やかな表情で眠っている。
時折、熱のせいで「……リネット……」と、うわ言を漏らすたび、彼女はそのたびに「はいはい、ここにいるわよ」と、自分でも驚くほど優しい声で返事をしていた。
花の魔法で少しずつ周囲の空気を清らかにし、彼の熱を吸い取っていく。
カランコロン
そこへ、店のドアが勢いよく開く音が響いた。
「――ルカ様、こちらで勝手に『お昼寝』ですか」
現れたのは、いつもより少しだけ息を乱したセバスだった。だが、リネットのベッドで横たわる主人の姿と、それを見守るリネットの真っ赤な顔を見て、彼はすべてを察したように優雅な微笑を浮かべた。
「リネット殿。うちの『駄々っ子』が、大変なご迷惑をおかけしているようで」
「セ、セバスさん……! ちょうどよかった、この人、熱が凄くて……!」
リネットは立ち上がり、救世主を見るような目でセバスを見た。しかし、ルカは眠りながらもその気配を感じ取ったのか、リネットの手のひらをぎゅっと握りしめて離そうとしなかった。
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