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3巻
3-16
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「ああ……いい湯だなぁ」
恐るべき事に、この温泉には普通の温泉とは比べられないほど濃い星の魔力と精霊の力が宿っていた。それも一種や二種程度ではなく、多種多様な精霊の力が混沌としながらも調和して溶け込んでいる。
それがどれほど希少で、どれほどの価値があるのか、きっとここの主である人外達は知らないだろう。
もしこの情報を帝国に持ち帰る事ができれば、帝国は何としてでもこの地を獲得しようと動き出すはずだ。それくらい、この湯には価値がある。
だが、今はそんな事を考えず、僕はただこの湯を堪能する。
「ああ、確かにいい湯で、幸せだなぁ。おらぁ捕まっちまった時は色々と覚悟したんだが、今じゃ悪くねぇ、むしろ捕まって良かったと思えてんだ。ここの温泉は、まさに天上にも昇るような気持ちになるしな」
などと、唐突にドグラが語り始めたので、静かに堪能はできそうにないが。
喋るのが億劫だったので口を噤んでいたら、ドグラは木桶に入れていた小さなコップを僕に差し出した。反対の手には酒瓶があり、どうやら注いでくれるようだ。
久しぶりの酒に、僕は一時プライドを捨ててコップを受け取る事を選んだ。酒に罪は無い。
トプトプトプと、瑠璃色の液体がコップに満ちていく。
「おらぁな、軍に徴集されるまで、故郷で一人畑を耕してたんだ。嫁さんは十年も前に流行り病で死んじまって、嫁さんの忘れ形見の息子はちっせー頃から【魔術師】の才能があったから、それに気付いた領主様が十歳の時に奉公人、って事で屋敷に連れてって働かせてたんだわ」
コップの中身を、ゆっくりと堪能しながら飲んでいく。
今の僕の地位ではとてもではないが酒のような嗜好品は支給されない。
一方、ドグラは《農地》で一定以上の功績を出している為、たまに褒美が出る。今回はこの酒がそうだったのだろう。
僕も早くそんな地位に昇格したいものだ。まだまだ当分は機会が訪れそうに無いのだが。って、蕩けた頭で変な事を考えているのに気が付いた。なんで、僕はこんな場所で地位の向上を目指しているのだろう。
普通、脱出とか、イヤーカフスの解除方法とか、もっと有意義な事を考えるべきだろうに。
こんな環境に少しずつ適応しているようだ、という嫌な考えを振り払う為、僕は酒を飲む。
「領主様はええ人でな、息子は【魔術師】としての教育を受けられた。そりゃ、農民のおらの子としては恵まれていたと今でも思うさ。給料も定期的に送ってくれる、自慢の息子だった」
ゆっくり飲んでいても、小さなコップの容量など高が知れている。中身はすぐに無くなり、物足りなさを覚える。いっそ温泉の水を飲んでしまおうか、とまで思ってしまう。
温泉の水は直接飲んでも身体に良いという研究発表が出されていたので問題は無いと思う。だが近くにいるドグラや、少し離れた場所で温泉を堪能している他の男達――小鬼から竜人、虎人と多種多様――から染み出た汁が混じっているに違いないこれを、果たして飲んでいいものだろうか。
少し考え、今は飲まない事にした。
「でもな、そんな息子は死んじまった。四年前に、ちょうどおめぇくれぇの歳で、コロッとよ。なんでも、領主様を護衛している時に襲ってきた武装集団に斬られちまったんだとさ。冷てぇ死体になって帰ってきた時は、おらぁ、柄にもなく泣いちまってよぉ」
どばどばと滝のように涙を流しながら、ドグラは空になっていた僕のコップに新しい酒を注いだ。
器用な奴だなと思いつつ、注がれた酒から広がった独特な香しい匂いに、鼻腔をくすぐられる。僕はそれをチビチビと飲みながら、淡々と語られるドグラの話を聞いた。
「んで、息子は嫁さんの墓の隣に埋めた。そっからは、なーんか気ぃ抜けてよ、淡々と生きた。そうなっても腹は空くでな、自分の畑耕して、野菜作って、喰って寝て。んで、徴兵された」
温泉の効果は絶大で、酒を飲んでいる間に掌の裂けた肉刺は塞がり、全身の筋肉痛も段々と弱くなっていた。
とはいえ今までの経験からすると、明日の午前訓練と午後の農作業を終えた後には、また温泉に入る前のような状態になってしまうのだが。
それでも、一時とはいえ楽になれるというのは、非常にありがたい事だった。
もし温泉が無ければ、僕はきっと二日くらいで動けなくなってしまい、役立たずと判断されて殺害、そのまま餌となっていたに違いない。考えただけでゾッとする。
本当に、この温泉という存在は偉大だと思う。
「そっからは今の流れでな、色々あって、ここに来た。ここに来て、良い事も悪い事も色々あんだけど、一番良かったんは、おめぇさんがいた事かもしれんな」
「……はぁ?」
涙ぐみ、掠れた声で響いた言葉の意味を理解するのには、少し時間が必要だった。
その間にドグラは酒瓶に口をつけ、直接飲んでいる。汚いからもう酒が飲めなくなってしまったではないか、と思いつつも、訊き返さずには居られない。
「なんで、僕と出会った事が一番良かったんだ?」
僕に会えた事が良かった? 馬鹿な、あり得ない。というか、何それ気持ちが悪い。寒気が走りそうだ。鳥肌が立つ。
冷静に分析すると悲しくなってくるが、優れた【高位魔術師】である僕も、ここではあまり役に立っていない。
午前訓練の時はほとんど雑兵扱いだし、誇りに思っていた魔術にしても、この集団には僕以上に高度な魔術を使う鬼人が居る。同じ捕虜の中にも、僕以上に魔術に長けた者が交じっている。
僕が貢献している事と言えば、たまに雷電を喰う 雷竜人 達に向けて、お菓子代わりの雷光系統魔術を放つくらいだろうか。
それに、午後から作業に勤しむ《農地》では一番の下っ端だ。
サボらないようドグラに見張られながら、鍬を持ってちまちまと地面を耕していく。雑草を刈ったりもするが、大抵は僕が出るまでもなく終わっている。
そんな僕と出会えて嬉しい? 性的に年下の同性を好む奴なのだろうか。
いや、そういった目で見られた事は一度も無いし、ドグラにはかつては妻が居たという。ならば……?
疑問に小首を傾げ、答えが浮かばず、仕方なく酒を飲む。
その様子を横目で見ていたドグラは酒を飲むのを止め、天井を見上げながらポツリと零した。
「おめぇさんが、どことなく息子に似てたんだわ。そりゃ別人だって分かるんだけどな、雰囲気つーか、なんつーか。なんか、懐かしい感じがすんだ」
「へぇ……言っておくが、僕は伯爵家の人間だ」
「んなの百も承知よ。だけどな、それでも構いたくなるんだよ。息子には、あんま構ってやれなかったからよ」
だからこれは勝手な罪滅ぼしなんだ、と俯いたドグラは言った。
目には普段の活力が宿っておらず、過去の過ちを振り返っているようだった。
「……わりぃな、これはしみったれた、どこにでもある話だ。ちぃと酒飲んで、温泉に浸かって、浮かれてたみてぇだ。柄にもねぇな」
「いや、まあ、なんだ。僕はドグラの息子は知らないが、そう思い続けるのは良い事だと思うぞ」
「んぁ? なんでそう思ったんだ?」
「僕だったら、死んだ後も思われるのは、嬉しい、と思うから、かな」
自分が死んだ後も、誰かに思ってもらえる。
それは、とても嬉しい事だと僕は思った。
「僕は、家では常に兄さん達の予備だからね。魔術の才能があったから『使える』と判断した父に認知されたけど、病死した愛人の子だから、家では空気みたいなものさ。使用人だって、次期当主である長兄に好かれていない僕には近寄りたがらない」
だから、死んだ後も思ってくれる相手がいるのは幸運だ。
母を亡くした僕に、そんな相手はいないから。
「……いや、こんな話は忘れてくれ」
僕もどうやら、温泉で気が緩んでいるようだ。普段はこんな事、思い出しすらしないというのに。
「そらぁ……まあ、なんだ。面倒なんだな、貴族も」
「面倒さ、貴族は。だけど、貴族としての誇りでも持たないと、やってられない時もある。僕は伯爵家の人間だ、って思わないと、責務やあの空気に耐えられない事もあるんだ……ドグラみたいな平民には、一生理解できないだろうな」
「がはははは、違いねぇ。おらにゃ理解できねぇし、したくもねぇな。まあ、ここじゃ家の力も、今までの身分も、種族すらも意味がねぇ。見ろよ、あっちはおめぇと同じ【高位魔術師】の冒険者で、あっちはあんなに若ぇのに【司教】様だ」
ドグラが指さす先には、王国軍に所属していた【司教】のベーンという青年が居た。聖職者らしく、優しげな雰囲気の優男だ。
そしてその隣にはワイスリィという、ベーンの元上官と深い交友関係があったという冒険者が居る。彼は僕と同じ【高位魔術師】で、悔しいが魔術の腕は僕よりも上だ。
そんな二人は、僕達と同じように一日の作業を終えて温泉に入っているのだが、とても憔悴した様子で、目の下に濃いクマができている。
この温泉に浸かっているのにあんなに疲れ果てた様子なのは、それだけ過酷な訓練を課せられているからか、あるいは多大な精神的負荷を背負っているからか。
それは分からないし、あまり興味もない。多分理由は両方だろうが。
「そん隣にゃ、ゴブリン達が一緒の温泉に浸かってる。ここにゃ今までの常識は通用しねぇーよ。だから心地よく感じる部分もあんだな」
「ふーん……そうかもな」
「だから、少しは気を抜け。おめぇはいっつもピリピリし過ぎなんだよ。今までがどうだったかは聞かねぇけど、ここにいる間くらいは気兼ねなく振る舞え。人をもちっと頼れ。分からねぇ事があれば聞け。鍬の楽な振り方とかな」
「そうかも……ちょっと待て」
聞き流せない単語に、考え事を止めて隣を見る。不思議そうなドグラの顔がそこにある。忌々しいが、それはさて置き。
「鍬の楽な振り方? そんなものが、あるのか?」
「そりゃ、あるに決まってんだろ。慣れもあるが、振り方一つで段違いだぜ? おめぇがおらに訊いてくれば教えてやったんだが、おめぇ、自分だけでやってたかんな。あえて言わんかったんよ」
僕はどう反応すればいいのか、困惑した。
早く教えろよと怒ればいいのか、あるいはプライドを捨てて教えを請うのがいいのか。
ぐるぐる悩み、僕はやっと答えを出した。
「……ろ」
「んぁ? なんだって?」
「……教えろ」
「もう少し大きな声でねぇーと、聞こえんぞ」
酒と温泉で火照ったのだろう、上気したドグラの顔。そして気が付けば面白そうにこちらを窺っている外野達。無遠慮な好奇の視線を浴びながら、それを無視して言葉を吐き捨てる。プライドと共に。
「疲れない鍬の振り方、教えてくれ」
「おうよ、明日キチッと教えてやらぁ」
笑うドグラが憎らしい。けど、少しだけ肩が楽になった自分が居る。
僕もどうやら、この混沌として、不可思議な雰囲気で満ちる集団の空気に毒されてしまったようだった。逃げられる可能性も、助けが来る可能性も乏しい今、僕はここで何とか生きて行こうと心に決めて、ゆっくりと温泉に浸かって明日の活力を回復させる事に努めるのだった。
◆◆◆
それから数日後、僕の作業効率は飛躍的に上がっていた。
鍬の扱いにも慣れ、以前よりも余裕を持って作業ができる。
温泉の効果と慣れによって筋肉痛もかなり治まり、以前よりも一回り筋肉が付いたような気がする。
この境遇から解放され、僕の目標を達成するその時まで、僕は色んな意味で戦い続ける。
[ライト・クロウ・ニンダは【職業・農奴】を獲得した]
恐るべき事に、この温泉には普通の温泉とは比べられないほど濃い星の魔力と精霊の力が宿っていた。それも一種や二種程度ではなく、多種多様な精霊の力が混沌としながらも調和して溶け込んでいる。
それがどれほど希少で、どれほどの価値があるのか、きっとここの主である人外達は知らないだろう。
もしこの情報を帝国に持ち帰る事ができれば、帝国は何としてでもこの地を獲得しようと動き出すはずだ。それくらい、この湯には価値がある。
だが、今はそんな事を考えず、僕はただこの湯を堪能する。
「ああ、確かにいい湯で、幸せだなぁ。おらぁ捕まっちまった時は色々と覚悟したんだが、今じゃ悪くねぇ、むしろ捕まって良かったと思えてんだ。ここの温泉は、まさに天上にも昇るような気持ちになるしな」
などと、唐突にドグラが語り始めたので、静かに堪能はできそうにないが。
喋るのが億劫だったので口を噤んでいたら、ドグラは木桶に入れていた小さなコップを僕に差し出した。反対の手には酒瓶があり、どうやら注いでくれるようだ。
久しぶりの酒に、僕は一時プライドを捨ててコップを受け取る事を選んだ。酒に罪は無い。
トプトプトプと、瑠璃色の液体がコップに満ちていく。
「おらぁな、軍に徴集されるまで、故郷で一人畑を耕してたんだ。嫁さんは十年も前に流行り病で死んじまって、嫁さんの忘れ形見の息子はちっせー頃から【魔術師】の才能があったから、それに気付いた領主様が十歳の時に奉公人、って事で屋敷に連れてって働かせてたんだわ」
コップの中身を、ゆっくりと堪能しながら飲んでいく。
今の僕の地位ではとてもではないが酒のような嗜好品は支給されない。
一方、ドグラは《農地》で一定以上の功績を出している為、たまに褒美が出る。今回はこの酒がそうだったのだろう。
僕も早くそんな地位に昇格したいものだ。まだまだ当分は機会が訪れそうに無いのだが。って、蕩けた頭で変な事を考えているのに気が付いた。なんで、僕はこんな場所で地位の向上を目指しているのだろう。
普通、脱出とか、イヤーカフスの解除方法とか、もっと有意義な事を考えるべきだろうに。
こんな環境に少しずつ適応しているようだ、という嫌な考えを振り払う為、僕は酒を飲む。
「領主様はええ人でな、息子は【魔術師】としての教育を受けられた。そりゃ、農民のおらの子としては恵まれていたと今でも思うさ。給料も定期的に送ってくれる、自慢の息子だった」
ゆっくり飲んでいても、小さなコップの容量など高が知れている。中身はすぐに無くなり、物足りなさを覚える。いっそ温泉の水を飲んでしまおうか、とまで思ってしまう。
温泉の水は直接飲んでも身体に良いという研究発表が出されていたので問題は無いと思う。だが近くにいるドグラや、少し離れた場所で温泉を堪能している他の男達――小鬼から竜人、虎人と多種多様――から染み出た汁が混じっているに違いないこれを、果たして飲んでいいものだろうか。
少し考え、今は飲まない事にした。
「でもな、そんな息子は死んじまった。四年前に、ちょうどおめぇくれぇの歳で、コロッとよ。なんでも、領主様を護衛している時に襲ってきた武装集団に斬られちまったんだとさ。冷てぇ死体になって帰ってきた時は、おらぁ、柄にもなく泣いちまってよぉ」
どばどばと滝のように涙を流しながら、ドグラは空になっていた僕のコップに新しい酒を注いだ。
器用な奴だなと思いつつ、注がれた酒から広がった独特な香しい匂いに、鼻腔をくすぐられる。僕はそれをチビチビと飲みながら、淡々と語られるドグラの話を聞いた。
「んで、息子は嫁さんの墓の隣に埋めた。そっからは、なーんか気ぃ抜けてよ、淡々と生きた。そうなっても腹は空くでな、自分の畑耕して、野菜作って、喰って寝て。んで、徴兵された」
温泉の効果は絶大で、酒を飲んでいる間に掌の裂けた肉刺は塞がり、全身の筋肉痛も段々と弱くなっていた。
とはいえ今までの経験からすると、明日の午前訓練と午後の農作業を終えた後には、また温泉に入る前のような状態になってしまうのだが。
それでも、一時とはいえ楽になれるというのは、非常にありがたい事だった。
もし温泉が無ければ、僕はきっと二日くらいで動けなくなってしまい、役立たずと判断されて殺害、そのまま餌となっていたに違いない。考えただけでゾッとする。
本当に、この温泉という存在は偉大だと思う。
「そっからは今の流れでな、色々あって、ここに来た。ここに来て、良い事も悪い事も色々あんだけど、一番良かったんは、おめぇさんがいた事かもしれんな」
「……はぁ?」
涙ぐみ、掠れた声で響いた言葉の意味を理解するのには、少し時間が必要だった。
その間にドグラは酒瓶に口をつけ、直接飲んでいる。汚いからもう酒が飲めなくなってしまったではないか、と思いつつも、訊き返さずには居られない。
「なんで、僕と出会った事が一番良かったんだ?」
僕に会えた事が良かった? 馬鹿な、あり得ない。というか、何それ気持ちが悪い。寒気が走りそうだ。鳥肌が立つ。
冷静に分析すると悲しくなってくるが、優れた【高位魔術師】である僕も、ここではあまり役に立っていない。
午前訓練の時はほとんど雑兵扱いだし、誇りに思っていた魔術にしても、この集団には僕以上に高度な魔術を使う鬼人が居る。同じ捕虜の中にも、僕以上に魔術に長けた者が交じっている。
僕が貢献している事と言えば、たまに雷電を喰う 雷竜人 達に向けて、お菓子代わりの雷光系統魔術を放つくらいだろうか。
それに、午後から作業に勤しむ《農地》では一番の下っ端だ。
サボらないようドグラに見張られながら、鍬を持ってちまちまと地面を耕していく。雑草を刈ったりもするが、大抵は僕が出るまでもなく終わっている。
そんな僕と出会えて嬉しい? 性的に年下の同性を好む奴なのだろうか。
いや、そういった目で見られた事は一度も無いし、ドグラにはかつては妻が居たという。ならば……?
疑問に小首を傾げ、答えが浮かばず、仕方なく酒を飲む。
その様子を横目で見ていたドグラは酒を飲むのを止め、天井を見上げながらポツリと零した。
「おめぇさんが、どことなく息子に似てたんだわ。そりゃ別人だって分かるんだけどな、雰囲気つーか、なんつーか。なんか、懐かしい感じがすんだ」
「へぇ……言っておくが、僕は伯爵家の人間だ」
「んなの百も承知よ。だけどな、それでも構いたくなるんだよ。息子には、あんま構ってやれなかったからよ」
だからこれは勝手な罪滅ぼしなんだ、と俯いたドグラは言った。
目には普段の活力が宿っておらず、過去の過ちを振り返っているようだった。
「……わりぃな、これはしみったれた、どこにでもある話だ。ちぃと酒飲んで、温泉に浸かって、浮かれてたみてぇだ。柄にもねぇな」
「いや、まあ、なんだ。僕はドグラの息子は知らないが、そう思い続けるのは良い事だと思うぞ」
「んぁ? なんでそう思ったんだ?」
「僕だったら、死んだ後も思われるのは、嬉しい、と思うから、かな」
自分が死んだ後も、誰かに思ってもらえる。
それは、とても嬉しい事だと僕は思った。
「僕は、家では常に兄さん達の予備だからね。魔術の才能があったから『使える』と判断した父に認知されたけど、病死した愛人の子だから、家では空気みたいなものさ。使用人だって、次期当主である長兄に好かれていない僕には近寄りたがらない」
だから、死んだ後も思ってくれる相手がいるのは幸運だ。
母を亡くした僕に、そんな相手はいないから。
「……いや、こんな話は忘れてくれ」
僕もどうやら、温泉で気が緩んでいるようだ。普段はこんな事、思い出しすらしないというのに。
「そらぁ……まあ、なんだ。面倒なんだな、貴族も」
「面倒さ、貴族は。だけど、貴族としての誇りでも持たないと、やってられない時もある。僕は伯爵家の人間だ、って思わないと、責務やあの空気に耐えられない事もあるんだ……ドグラみたいな平民には、一生理解できないだろうな」
「がはははは、違いねぇ。おらにゃ理解できねぇし、したくもねぇな。まあ、ここじゃ家の力も、今までの身分も、種族すらも意味がねぇ。見ろよ、あっちはおめぇと同じ【高位魔術師】の冒険者で、あっちはあんなに若ぇのに【司教】様だ」
ドグラが指さす先には、王国軍に所属していた【司教】のベーンという青年が居た。聖職者らしく、優しげな雰囲気の優男だ。
そしてその隣にはワイスリィという、ベーンの元上官と深い交友関係があったという冒険者が居る。彼は僕と同じ【高位魔術師】で、悔しいが魔術の腕は僕よりも上だ。
そんな二人は、僕達と同じように一日の作業を終えて温泉に入っているのだが、とても憔悴した様子で、目の下に濃いクマができている。
この温泉に浸かっているのにあんなに疲れ果てた様子なのは、それだけ過酷な訓練を課せられているからか、あるいは多大な精神的負荷を背負っているからか。
それは分からないし、あまり興味もない。多分理由は両方だろうが。
「そん隣にゃ、ゴブリン達が一緒の温泉に浸かってる。ここにゃ今までの常識は通用しねぇーよ。だから心地よく感じる部分もあんだな」
「ふーん……そうかもな」
「だから、少しは気を抜け。おめぇはいっつもピリピリし過ぎなんだよ。今までがどうだったかは聞かねぇけど、ここにいる間くらいは気兼ねなく振る舞え。人をもちっと頼れ。分からねぇ事があれば聞け。鍬の楽な振り方とかな」
「そうかも……ちょっと待て」
聞き流せない単語に、考え事を止めて隣を見る。不思議そうなドグラの顔がそこにある。忌々しいが、それはさて置き。
「鍬の楽な振り方? そんなものが、あるのか?」
「そりゃ、あるに決まってんだろ。慣れもあるが、振り方一つで段違いだぜ? おめぇがおらに訊いてくれば教えてやったんだが、おめぇ、自分だけでやってたかんな。あえて言わんかったんよ」
僕はどう反応すればいいのか、困惑した。
早く教えろよと怒ればいいのか、あるいはプライドを捨てて教えを請うのがいいのか。
ぐるぐる悩み、僕はやっと答えを出した。
「……ろ」
「んぁ? なんだって?」
「……教えろ」
「もう少し大きな声でねぇーと、聞こえんぞ」
酒と温泉で火照ったのだろう、上気したドグラの顔。そして気が付けば面白そうにこちらを窺っている外野達。無遠慮な好奇の視線を浴びながら、それを無視して言葉を吐き捨てる。プライドと共に。
「疲れない鍬の振り方、教えてくれ」
「おうよ、明日キチッと教えてやらぁ」
笑うドグラが憎らしい。けど、少しだけ肩が楽になった自分が居る。
僕もどうやら、この混沌として、不可思議な雰囲気で満ちる集団の空気に毒されてしまったようだった。逃げられる可能性も、助けが来る可能性も乏しい今、僕はここで何とか生きて行こうと心に決めて、ゆっくりと温泉に浸かって明日の活力を回復させる事に努めるのだった。
◆◆◆
それから数日後、僕の作業効率は飛躍的に上がっていた。
鍬の扱いにも慣れ、以前よりも余裕を持って作業ができる。
温泉の効果と慣れによって筋肉痛もかなり治まり、以前よりも一回り筋肉が付いたような気がする。
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タイトル: 『45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる』
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イラスト: 市丸きすけ 先生
出版社: アルファポリス
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楽天ブックス: https://books.rakuten.co.jp/rb/18361791/
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