横浜で空に一番近いカフェ

みつまめ つぼみ

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第2章:横浜で空に一番近いカフェ

12.

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 天流と一緒に、千晴が部屋を出る。

 黙って歩く天流の後ろを、千晴が追い付かないように歩いて行く。

 エレベーターの中でも無言で、黙って一階のエントランスに出た。

 天流が千晴に振り向いて告げる。

「ほらほら、のんびりしてると遅れちゃうよ」

「……はい」

 それでも足を速めない千晴に、天流が手を差し伸べた。

「ほら広瀬さん、急ごう」

 ――公衆の面前で手を握れと?!

 だがさっきまで、体を寄せ合って時間を過ごしていた。

 今さら何を恥ずかしがるのか、という諦めが千晴の胸に去来する。

 ゆっくりと天流の手を持った千晴の手を、天流がしっかりと握り返した。

 天流の歩調に合わせるように、千晴はその隣を歩きだした。




****

 桜木町駅前も人並も、ランドマークタワーに向かう動く歩道も、天流は千晴の手を離さなかった。

 千晴は恥ずかしさと安らぎを感じながら、職場への道を歩いて行く。

 カフェに向かうエレベーターの中で、チラチラと千晴たちを見る人たち。

 そんな視線にさらされながら、千晴はカフェに到着した。


 ようやく事務所で手を離してもらった千晴は、「着替えてきます!」と更衣室に駆け込んだ。

 息苦しく跳ねまわる心臓を、更衣室で落ち着かせる。

 ゆっくりと着替え終わった千晴は、更衣室を出て天流に告げる。

「天流さん、今日は意地悪し過ぎじゃないですか?」

「そうかな? そんなことはないと思うけど。
 さぁ、遅番の人を紹介しておこう。
 カウンターに移動するよ」

 手をつながずに歩く天流の後姿を見つめたあと、千晴はその背中を追いかけた。




****

 遅番のバリスタ、田口を紹介され挨拶を交わしたあと、千晴は天流と三人でカウンターとホールを回していく。

 いつもより多い客足を、手慣れた天流と田口が捌いて行く。

 千晴はホールの清掃をメインに走り回り、時折カウンター内でオーダーを捌いて行く。

 やがて花火大会が始まり、耳に破裂音が届き始めた。

「あ、始まりましたね」

「これからお客さんが増えるから、気をつけてね」

 千晴がいるカウンター内からも、花火の端が人垣の向こうに見えた。

 やはり花火が良く見える場所は、人が多く集まっているようだ。

 さらに増した客足を必死に捌く千晴に、天流が告げる。

「広瀬さん、清掃行ってきてもらえる?」

「はい!」

 千晴はカウンタークロスを手に持ち、テーブル席へと向かった。


 テーブルを拭き終わった千晴がふと窓に目をやると、人垣の隙間から夜景が見えた。

 その瞬間、目の前に大輪の花が咲いた。

 今まで見たことのない角度からの花火――新鮮な体験だった。

 まるで自分が花火を見下ろしているかのような錯覚。

 ここが『横浜で空に一番近いカフェ』だと、心の奥が理解した。

 ぼうっとしている千晴のそばに、天流がいつのまにか立っていた。

「どう? 綺麗だったでしょ」

「……はい、花火ってこんなに綺麗だったんですね」

 再び夜空に咲く大輪の花――それを天流と共に見ている。

 そのことに、千晴の心が満たされて行くのを感じた。

「……私、この職場が好きになれそうです」

「そう? それはよかった。
 でも、もうカウンターに戻ろうか。
 またお客さんの波が来るよ」

 千晴は天流を見てうなずくと、一緒にカウンター内に戻っていった。




****

 花火大会もあっという間に終わり、客足は平常通りに戻っていく。

 静かなホールでは、花火の思い出を語り合うカップルが多く見られた。

 千晴はカウンターの中でぼんやりとカップルシートの様子を眺める。

 ――いつか、私もあの場所で誰かと。

 シートに座る自分と天流の姿を幻視してしまい、千晴があわてて頭を振った。

「どうしたの? 広瀬さん」

 ハッと顔を上げた千晴は、天流の顔を見て頬を染めていた。

「なんでもありません!
 天流さんは気にしないでください!」

「そう? あと一息だから、頑張ろうね」

 天流の隣に居づらくなった千晴が、顔を伏せて告げる。

「私、食器を洗ってきます!」

 千晴はキッチンに向かい駆け出した。

 天流は千晴の背中を優しい眼差しで見送っていた。




****

 千晴がキッチンに引っ込んだ後、田口が告げる。

「チーフも隅に置けないね。
 いつの間にあんな子を囲ってたの?」

 天流は微笑みながら応える。

「二か月くらい前かな。
 ようやく心を開いてくれたみたいだ」

「へぇ、じゃあ本気なんですか?」

「さぁ? それは内緒かな。
 まだようやく固いつぼみがほころんできたところだし。
 まだまだ時間はかかると思うよ」

 田口がため息をついて告げる。

「いいなぁ、青春してて。
 俺にも青春がやってこないかな」

 天流が軽妙に笑った。

「自分から動かなければ、簡単にやってくるものじゃないさ。
 田口だって、まだ若いんだから。
 諦めるのはまだ早いよ」

「諦めてる訳じゃないですけどね。
 遅番やってると、大人の付き合いができないからなぁ」

「じゃあ、シフトを変えるかい?」

 田口が肩をすくめて応える。

「俺が居なくなったら、遅番が回らなくなるでしょ?
 今は青春より、仕事が大事ですよ」

「よく理解してくれていて助かるよ。
 ――それより広瀬さん、遅いな」

 田口が楽し気に微笑んだ。

「心を落ち着けるのに、時間がかかってるんでしょ?
 本当に罪な人ですね、チーフは」

「そうかな?」

「そうですよ」

 客足が途絶えたカウンターで、二人は静かに語らい続けた。




****

 千晴がカウンターに戻ってくると天流が告げる。

「お帰り広瀬さん。
 でももう営業時間終了だ。
 僕はホールに出て閉店処理をするから、キッチンで片付けを手伝ってきて」

「あ……はい!」

 カウンター内を片づけ始めた田口の横を通り、千晴はキッチンに戻っていった。

 残っていた客たちが、いくつかの食器を追加でキッチンにもたらす。

 千晴は食器を洗いながら、キッチンスタッフと一緒に後片付けを済ませていった。


 客が居なくなったホールを、千晴は天流と清掃して回った。

 暗い夜空、いつもと違う風景。

 最初に見た夜景を千晴は思い出していた。

 あの時よりも輝いて見える夜景に、千晴は不思議な感慨を覚えていた。

 ぼんやりと外を見つめる千晴に、天流が告げる。

「どうしたの? 広瀬さん」

「いえ、遅番だとこんな風景が見られるのかなって」

 天流がクスリと笑った。

「そうだね、早番だと見られない風景だ。
 それもあって、遅番の方が人気なのかもね」

 千晴と一緒に夜景を眺める天流に、田口が近寄っていった。

「チーフ、レジの締め終わりましたよ。
 もう帰りますけど、何かありますか」

 天流が田口に振り向いて告げる。

「ありがとう、水無瀬たちは?」

「もう帰りましたよ。
 残ってるのは俺たちだけです」

 天流が小さくうなずいて応える。

「あとはやっておくから大丈夫。
 お疲れ様」

「はい、お先に失礼します」

 田口が去り、フロアが静まり返った。

 千晴の耳元で天流がささやく。

「ねぇ広瀬さん、ちょっと座ってみない?」

 跳ね上がる鼓動を隠しながら、千晴が応える。

「どこに、ですか?」

「この席、眺めがいいと思うんだ。
 今くらいじゃないと座れないよ?」

 天流が手を置いたカップルシートを、千晴は赤くなりながら見つめた。

 おずおずとシートの端っこに千晴が座ると、反対側に天流が座る。

「もっとくっつかなくていいの?
 防犯カメラ以外、誰も見てないよ?」

「――警備員が見てるってことじゃないですか!」

「これだけ暗ければ、大して見えやしないさ。
 それに彼らも気になんかしないよ」

 千晴はカウンタークロスを握りしめると、わずかに腰を浮かした。

 天流の隣にぴったりと座り、彼の体温を感じ取る。

 天流は千晴の肩に手を回し、夜景を楽しそうに眺めた。

「どう? 『誰かと見る夜景』って、特別に思えない?」

 千晴は黙って小さくうなずいた。

「こんな場所をお客さんに提供するのが、私たちの仕事なんだ。
 自分たちが提供してる商品の味、しっかりと味わってみて」

 それからしばらく、二人の間は時間が止まっていた。

 遠くでゆっくりと動く船の明かりだけが、時間が過ぎゆくのを知らせていた。




****

 帰り支度を終えた千晴に、天流が告げる。

「忘れ物はない? 電気消すよ」

 あわてて事務所から飛び出る千晴を、楽し気に見送った天流が電気を消した。

 千晴がカフェを振り返ると、すっかり照明が落ちている。

 まっくらなカフェをみやる千晴に、天流が告げる。

「ねぇ、ちょっと寄り道して帰らない?」

 千晴が天流に振り向いて応える。

「どこへですか?」

 天流が意味深な笑みで告げる。

「いつもは立ち寄らないところ」

 小首をかしげた千晴が、少し考えてからうなずいた。

「いいですけど、そのあとはご飯いきましょうね。
 もうお腹が減りました」

 天流が楽し気に笑って応える。

「この時間じゃもうお店は閉まっちゃうよ。
 コンビニに立ち寄って、部屋で一緒に食べようか」

 天流が差し伸べた手を、千晴が握った。

 二人は人気ひとけのなくなったエレベーターホールで、黙ってエレベーターを待った。
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