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人間の男『カイトウ』の事情と記憶ーーその後に記録終了
#24
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振り返ると、こうやって身の上話をマンツーマンでするのは、事故後のカウンセリング以来だ。
なんとなく、昔担当してくれた心理療法士の顔を思い出しーーてみても出てこない。
けれど、『そういう部屋に居た』という記憶だけは掘り返すことができた。
「じゃあ、事故に遭ったところから話すぞ」という言葉から切り出す。
ナンナはじっと俺を見据えたまま、視線で返事した。
シャツの袖から彼女の手を剥がすまで、多少時間がかかった。
俺が事故に遭ったのは二十歳の頃だったーーと、医師および両親、そして友人を名乗る人たちに聞いた記憶があるので、それはほぼほぼ正確なはずだ。
事故の際の詳しい状況までは覚えていない。その時、俺と一緒に居た人は誰も居なかったという。そして、それは不幸中の幸いだったのだろう。
事故現場で目を覚ました俺が見たのは、まず車のスピードメーター、次にダッシュボード周辺に散らばった不均一に砕かれたガラス片ーーおそらく車のフロントガラスの成れの果てーーだった。
そう、自動車事故だ。
単独事故で、それに巻き込まれた車両は居ない。
救急が事故の通報を受けたのは深夜、午前一時。
俺がなぜそんな時刻に車を運転していたのかもわからない。
当事者の俺が覚えていないのだから、他人にわかるはずが無かった。
事故の状況再現も難しかった。見晴らしの良い直線道路、車両がたまにしか通らないような交通量の少なめな道路であったにも関わらず、何故か俺の乗る車は横転を経て、更にひっくり返って天地逆転し、その後どうやってそうなったのか、車は本来の姿勢へと戻り、車のタイヤは四本ともアスファルトに接していたという。
目撃者でも居れば話は早かったが、人気の少ない深夜に起こった事故について語れる存在など見つかるはずもなく、ハンドル操作ミスによる事故として片付けられた。
事故現場から救い出された俺は、あれよあれよと言う間に病室へと運び込まれ、気がついたら朝を迎えていた。
そして、このタイミングでようやく気づいたのだ。
病室で面会した両親の顔が急に老けたように感じたこと、病室に訪れる人たちについて何も覚えていないこと、俺の記憶している自分の手よりも実際の俺の手の方が大きいこと。
「逆行性健忘、というらしい。事故以前の記憶が抜け落ちるもので、事故などで頭部に外傷を受けたら稀に発症するんだと。俺の場合は、抜け落ちた期間が長くて、事故の数時間前どころか、数年前まで抜け落ちていた。だから、記憶に残っている自分を含めた他人の姿と、実際に見たそれらが合致しなかったのだ、と医師に聞いた」
「偶然、なんだよね」
「仮に、俺の運転していた車が事故を起こすように誰かが仕組んだとしても、記憶が抜け落ちるところまで狙ってできないだろう」
だから、俺の健忘症は偶発的に生じたものだ。
俺の健忘症で厄介だったのが、抜け落ちている部分が全てではなく、断片的にだが残っていることだった。
事故当時の友人は覚えていないくせに、高校時代に親しかった友人の記憶は明確だったりする。
だからといって高校時代の記憶が全部残っているかと言えばそうでもなくて、帰宅部だったことと、学校までの通学路の道のりのこと以外は、すぐに思い出せなかったりする。
もちろん、中学時代でも同様に記憶が断片的だった。
その他、カウンセリングを重ねていった結果わかったことは、次のような事実だった。
小学校卒業までの記憶は、おそらく断片的ではない。
中学校入学から高校卒業と、そこから数年経った事故直後までの記憶は断片的である。
「記憶の断片が残っていることの何が良くないかっていうと、その記憶の価値が下がることなんだ」
「記憶の価値?」とナンナが言う。
「言い換えるなら、そうだな……記憶への信用だ。俺の昔の記憶は時系列で連続していなくて、規則性を持たず断続的に残っている。ポツンポツンと駅が建っているのに、それを結ぶレールが存在しないみたいな状態で、記憶が役に立たずのまま存在してるんだ。結果、どうなるかというと」
「どうなるの?」
どうなるかーーその続きを言葉にすると、それを聞いたナンナがまた悲しむだろうと、予測ができた。
でも、心配して見つめてくる彼女を前に嘘でごまかす気にはならなかった。
だから俺は隠すこと無く口にした。
「結果的に、新しく覚えた記憶に対する信用まで低下してしまう。今記憶しているこれは、本当に俺が体験したことなのかと疑いを向けるようになる。それが……俺の記憶力の低さの理由、そして『今この時の記憶』しか信用しなくなってしまった原因だ」
そう告げると、ナンナは涙をこぼした。
ああ、やっぱりだ。
泣かせるつもりではなかった。
けれど、それは予想していた通りではあった。
それらが分かっていて俺は彼女に事情を話したのだから、まあ、やはり俺が泣かしてしまったということになる。
「……やっぱり、めちゃめちゃ悲しいよ」
「そうか」
「それだけのことがあったら、きっと私なんかカイトウさんみたいには振る舞えない」
「それは……いや、そうなのかもな」
たぶん、自分の記憶障害に対して割り切って接している俺がおかしいのだろう。
カウンセリングで心配されることが多いのもそこだった。『辛ければ一人で抱え込まずに相談してください』と何度言われたか。
その回数も忘れたーーいや、本当に言われたことがあるのか、それすら疑わしい。
俺はそういった疑問に執着せずに日々の暮らしを送ってきたが、ナンナの目にはその姿勢すら悲しいものに映っているのだろう。
「事故で、仲良かった人との思い出を振り返ることも、楽しかったり辛かったりする出来事も全部思い出せなくなってさ。それからもずっとずっと、自分の記憶を疑いながら生きていくことなんて、耐えられるわけがない。そんな風に生きている人が居るなんて知ったら、悲しくなるよ」
ナンナは涙をジャージの袖で拭い、俺を見た。
その視線はただまっすぐだった。
「私はーー私は、それでもカイトウさんが優しいのが、一番悲しいかもしれない」
なんとなく、昔担当してくれた心理療法士の顔を思い出しーーてみても出てこない。
けれど、『そういう部屋に居た』という記憶だけは掘り返すことができた。
「じゃあ、事故に遭ったところから話すぞ」という言葉から切り出す。
ナンナはじっと俺を見据えたまま、視線で返事した。
シャツの袖から彼女の手を剥がすまで、多少時間がかかった。
俺が事故に遭ったのは二十歳の頃だったーーと、医師および両親、そして友人を名乗る人たちに聞いた記憶があるので、それはほぼほぼ正確なはずだ。
事故の際の詳しい状況までは覚えていない。その時、俺と一緒に居た人は誰も居なかったという。そして、それは不幸中の幸いだったのだろう。
事故現場で目を覚ました俺が見たのは、まず車のスピードメーター、次にダッシュボード周辺に散らばった不均一に砕かれたガラス片ーーおそらく車のフロントガラスの成れの果てーーだった。
そう、自動車事故だ。
単独事故で、それに巻き込まれた車両は居ない。
救急が事故の通報を受けたのは深夜、午前一時。
俺がなぜそんな時刻に車を運転していたのかもわからない。
当事者の俺が覚えていないのだから、他人にわかるはずが無かった。
事故の状況再現も難しかった。見晴らしの良い直線道路、車両がたまにしか通らないような交通量の少なめな道路であったにも関わらず、何故か俺の乗る車は横転を経て、更にひっくり返って天地逆転し、その後どうやってそうなったのか、車は本来の姿勢へと戻り、車のタイヤは四本ともアスファルトに接していたという。
目撃者でも居れば話は早かったが、人気の少ない深夜に起こった事故について語れる存在など見つかるはずもなく、ハンドル操作ミスによる事故として片付けられた。
事故現場から救い出された俺は、あれよあれよと言う間に病室へと運び込まれ、気がついたら朝を迎えていた。
そして、このタイミングでようやく気づいたのだ。
病室で面会した両親の顔が急に老けたように感じたこと、病室に訪れる人たちについて何も覚えていないこと、俺の記憶している自分の手よりも実際の俺の手の方が大きいこと。
「逆行性健忘、というらしい。事故以前の記憶が抜け落ちるもので、事故などで頭部に外傷を受けたら稀に発症するんだと。俺の場合は、抜け落ちた期間が長くて、事故の数時間前どころか、数年前まで抜け落ちていた。だから、記憶に残っている自分を含めた他人の姿と、実際に見たそれらが合致しなかったのだ、と医師に聞いた」
「偶然、なんだよね」
「仮に、俺の運転していた車が事故を起こすように誰かが仕組んだとしても、記憶が抜け落ちるところまで狙ってできないだろう」
だから、俺の健忘症は偶発的に生じたものだ。
俺の健忘症で厄介だったのが、抜け落ちている部分が全てではなく、断片的にだが残っていることだった。
事故当時の友人は覚えていないくせに、高校時代に親しかった友人の記憶は明確だったりする。
だからといって高校時代の記憶が全部残っているかと言えばそうでもなくて、帰宅部だったことと、学校までの通学路の道のりのこと以外は、すぐに思い出せなかったりする。
もちろん、中学時代でも同様に記憶が断片的だった。
その他、カウンセリングを重ねていった結果わかったことは、次のような事実だった。
小学校卒業までの記憶は、おそらく断片的ではない。
中学校入学から高校卒業と、そこから数年経った事故直後までの記憶は断片的である。
「記憶の断片が残っていることの何が良くないかっていうと、その記憶の価値が下がることなんだ」
「記憶の価値?」とナンナが言う。
「言い換えるなら、そうだな……記憶への信用だ。俺の昔の記憶は時系列で連続していなくて、規則性を持たず断続的に残っている。ポツンポツンと駅が建っているのに、それを結ぶレールが存在しないみたいな状態で、記憶が役に立たずのまま存在してるんだ。結果、どうなるかというと」
「どうなるの?」
どうなるかーーその続きを言葉にすると、それを聞いたナンナがまた悲しむだろうと、予測ができた。
でも、心配して見つめてくる彼女を前に嘘でごまかす気にはならなかった。
だから俺は隠すこと無く口にした。
「結果的に、新しく覚えた記憶に対する信用まで低下してしまう。今記憶しているこれは、本当に俺が体験したことなのかと疑いを向けるようになる。それが……俺の記憶力の低さの理由、そして『今この時の記憶』しか信用しなくなってしまった原因だ」
そう告げると、ナンナは涙をこぼした。
ああ、やっぱりだ。
泣かせるつもりではなかった。
けれど、それは予想していた通りではあった。
それらが分かっていて俺は彼女に事情を話したのだから、まあ、やはり俺が泣かしてしまったということになる。
「……やっぱり、めちゃめちゃ悲しいよ」
「そうか」
「それだけのことがあったら、きっと私なんかカイトウさんみたいには振る舞えない」
「それは……いや、そうなのかもな」
たぶん、自分の記憶障害に対して割り切って接している俺がおかしいのだろう。
カウンセリングで心配されることが多いのもそこだった。『辛ければ一人で抱え込まずに相談してください』と何度言われたか。
その回数も忘れたーーいや、本当に言われたことがあるのか、それすら疑わしい。
俺はそういった疑問に執着せずに日々の暮らしを送ってきたが、ナンナの目にはその姿勢すら悲しいものに映っているのだろう。
「事故で、仲良かった人との思い出を振り返ることも、楽しかったり辛かったりする出来事も全部思い出せなくなってさ。それからもずっとずっと、自分の記憶を疑いながら生きていくことなんて、耐えられるわけがない。そんな風に生きている人が居るなんて知ったら、悲しくなるよ」
ナンナは涙をジャージの袖で拭い、俺を見た。
その視線はただまっすぐだった。
「私はーー私は、それでもカイトウさんが優しいのが、一番悲しいかもしれない」
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