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朝、ローマンとキカが近くの住まいから通ってくる。
フィリスが目覚める頃には、掛けて置いてあったドレスはきちんと片付けられ、置いたままのコルセットも無かった。
寝室に運び込まれる朝食は、ここでもやはり量は少な目。
すっかりこの分量で体が慣れてしまったから、これでも充分過ぎるくらいだった。
「キカ、勤め始めて、何か不自由は無いかしら?あなたたち二人と、コックだけじゃ大変?」
「いえ、フィリス様」
「そう?何かあれば遠慮なく言ってちょうだい。わたしはあまり王都には慣れていないから、こちらでのやり方があれば教えてね。ローマンとミセス ウォルターにも伝えてくれる?」
「はい、ありがとうございます」
本来なら、ローマンとキカは、上級の使用人にあたるのだから、クレイニーと呼ぶべきなのだろうが、二人ともクレイニーなのでフィリスは名前で呼ぶ事にしていた。
昨夜はあれからなかなか寝つけなくて、出してきたワインを残りが空になるまで飲んでしまった。そのせいで何だか体が重い感じがして、食が進まない。
「残してごめんなさい、とミセス ウォルターに……。昨日少し飲み過ぎてしまったみたい」
「まぁ、それではお薬をお持ちしましょうか?」
「キカはそういう知識もあるのね、お願い」
上級の使用人の女性たちは、家庭薬に詳しい。
まだ付き合いは短いけれど、こうしたさりげない言動からキカはなかなか有能な様だった。
自分で雇ったというのもあるが、やはりずっと仕えて欲しいとフィリスは思った。
朝のデイドレスを身につけて、フィリスはお茶を飲んでいると、ローマンがノックと共に入ってきた。
「フィリス様、シルヴェルトル侯爵様より、お届けものです」
「ありがとう、そこのテーブルに」
ローマンが運んできたのは、花とそれからチョコレートだった。
箱にびっしりと並ぶチョコレートは、まるで宝石の様で、見てるだけでも楽しめる。花は、深いワイン色のような深紅の薔薇で、昨日のワインを連想される。
カードには『フィリスへ 心をこめて J』とだけ。
シンプルながらも、その流れるような筆跡が優美な芸術品のようだった。
「素敵なお色の薔薇ですね、お部屋に早速飾りましょう」
キカは薔薇を手にして、キッチンの方へと向かった。
「ありがとう」
出逢いから、もう一度。
ジョエルはそんな風に、今シーズンをはじめているらしい。
フィリスは、箱の中の艶々のチョコレートを一粒取って齧った。深い紅色の薔薇、その薔薇の香りとチョコレート、それに淹れたての紅茶は何だかとても、完璧な組み合わせで、まだ馴染めないアンティークな室内でそれがしっくりと似合っていた。
フィリスは昼には、外出して王都をふらりと散歩をする。
刺繍糸の補充、それにハンカチだとかリボン。それにレティキュールや扇やら………気がつくと、フィリスは自分にしては買いすぎた、とつい思った。一つ一つは少なくても貴婦人にしては荷物を持ちすぎてしまって、みっともない程になっていた。
「レディ フィリス」
道の方から声をかけられ見ると、ジョエルが馬車から降りてきた所だった。
「こんにちは、侯爵閣下」
「お一人ですか?どうぞ乗ってください」
ジョエルは、道端に停めてある馬車へと促した。
フィリスの持つ荷物を、彼がさりげなく奪ったので促されるままに馬車に乗り込んだ。
「何をしていたの?」
「今日は議会の帰りだよ」
言われて見てみれば、シックな黒のフロックコートに白の手袋はいかにもそれらしい服装だった。
「そうなのね……じゃあ今日はお疲れね」
「プリシラ王女の婚姻で、どうやら隣国との関係もしばらくは上手く行きそうだし平和なものだったけどな」
目を軽く伏せてジョエルはそう言った。長い睫毛が影を落としていて、いつもの強い眼差しが隠れて、どこか憂いを帯びて見える。
「今朝は、薔薇とチョコレートをありがとう。部屋にもしっくりとしていて、とても綺麗だったわ」
「あの部屋に合いそうだと思ったから。温室から選んできた」
フィリスは、彼が自ら選んだのだと思うとやはり嬉かった。
いつまでもこんな風に気を使わせて、なんて自分は面倒な女なのだろう。
「ジョエル……わたしはずっと、あなたとファーストダンスを踊り続けたい。そう思ってる……でも、まだ……踏み出せないわたしがいるの、もう少しだけ……待ってくれる?」
言ってしまって、フィリスは後悔した。
言うも言わぬもどちらにしても、前進したわけでは無くて、結果は同じじゃないかと。
「待ってる。でもそれは、相手がフィリスだからだ……」
腕が伸びて、フィリスの首に手が触れて引き寄せられそのまま唇が重なりそして、深くキスを交わす。
こんな王都の真ん中で……扉一枚隔てると外にはたくさんの人々がいるのに……。
「あと少し、なんだな?」
「ええ、そう……多分……」
フィリスはそう返事をして、ジョエルの笑みのその下に秘めた何かを感じさせてゾクゾクしてしまう。
彼の気持ちに応えられるようになるには……あと何が必要なのだろう?やはりそれは、同じ立ち位置で居場所を持つことなのかも知れない。
後ろ楯なら、十分にある。
後は、自分がどうそれを活かすかにかかっていた。
「必要なのは……時間、というわけか」
揺れる馬車の中でフィリスは、ジョエルの唇にキスをした。
肯定の意味を込めて、約束の意味を込めて……。
そして何よりも彼が、フィリスの気持ちを大切に扱っていてくれて、待たせていると分かっているから。
「ありがとう、ジョエル」
「いや……『待て』くらい犬でも出来る」
その答えにフィリスはくすっと笑った。
それにつられるように、ジョエルも笑って二人で額を寄せあってしばらく恥ずかしいくらいに笑ってしまった。
どうしよう……こんな風に、大切に思われる事が……それを感じられるというのは、どうしてこんなにも幸せを感じるのだろう……。
これ以上を望むのは贅沢過ぎな様に思えてしまう。
フィリスが目覚める頃には、掛けて置いてあったドレスはきちんと片付けられ、置いたままのコルセットも無かった。
寝室に運び込まれる朝食は、ここでもやはり量は少な目。
すっかりこの分量で体が慣れてしまったから、これでも充分過ぎるくらいだった。
「キカ、勤め始めて、何か不自由は無いかしら?あなたたち二人と、コックだけじゃ大変?」
「いえ、フィリス様」
「そう?何かあれば遠慮なく言ってちょうだい。わたしはあまり王都には慣れていないから、こちらでのやり方があれば教えてね。ローマンとミセス ウォルターにも伝えてくれる?」
「はい、ありがとうございます」
本来なら、ローマンとキカは、上級の使用人にあたるのだから、クレイニーと呼ぶべきなのだろうが、二人ともクレイニーなのでフィリスは名前で呼ぶ事にしていた。
昨夜はあれからなかなか寝つけなくて、出してきたワインを残りが空になるまで飲んでしまった。そのせいで何だか体が重い感じがして、食が進まない。
「残してごめんなさい、とミセス ウォルターに……。昨日少し飲み過ぎてしまったみたい」
「まぁ、それではお薬をお持ちしましょうか?」
「キカはそういう知識もあるのね、お願い」
上級の使用人の女性たちは、家庭薬に詳しい。
まだ付き合いは短いけれど、こうしたさりげない言動からキカはなかなか有能な様だった。
自分で雇ったというのもあるが、やはりずっと仕えて欲しいとフィリスは思った。
朝のデイドレスを身につけて、フィリスはお茶を飲んでいると、ローマンがノックと共に入ってきた。
「フィリス様、シルヴェルトル侯爵様より、お届けものです」
「ありがとう、そこのテーブルに」
ローマンが運んできたのは、花とそれからチョコレートだった。
箱にびっしりと並ぶチョコレートは、まるで宝石の様で、見てるだけでも楽しめる。花は、深いワイン色のような深紅の薔薇で、昨日のワインを連想される。
カードには『フィリスへ 心をこめて J』とだけ。
シンプルながらも、その流れるような筆跡が優美な芸術品のようだった。
「素敵なお色の薔薇ですね、お部屋に早速飾りましょう」
キカは薔薇を手にして、キッチンの方へと向かった。
「ありがとう」
出逢いから、もう一度。
ジョエルはそんな風に、今シーズンをはじめているらしい。
フィリスは、箱の中の艶々のチョコレートを一粒取って齧った。深い紅色の薔薇、その薔薇の香りとチョコレート、それに淹れたての紅茶は何だかとても、完璧な組み合わせで、まだ馴染めないアンティークな室内でそれがしっくりと似合っていた。
フィリスは昼には、外出して王都をふらりと散歩をする。
刺繍糸の補充、それにハンカチだとかリボン。それにレティキュールや扇やら………気がつくと、フィリスは自分にしては買いすぎた、とつい思った。一つ一つは少なくても貴婦人にしては荷物を持ちすぎてしまって、みっともない程になっていた。
「レディ フィリス」
道の方から声をかけられ見ると、ジョエルが馬車から降りてきた所だった。
「こんにちは、侯爵閣下」
「お一人ですか?どうぞ乗ってください」
ジョエルは、道端に停めてある馬車へと促した。
フィリスの持つ荷物を、彼がさりげなく奪ったので促されるままに馬車に乗り込んだ。
「何をしていたの?」
「今日は議会の帰りだよ」
言われて見てみれば、シックな黒のフロックコートに白の手袋はいかにもそれらしい服装だった。
「そうなのね……じゃあ今日はお疲れね」
「プリシラ王女の婚姻で、どうやら隣国との関係もしばらくは上手く行きそうだし平和なものだったけどな」
目を軽く伏せてジョエルはそう言った。長い睫毛が影を落としていて、いつもの強い眼差しが隠れて、どこか憂いを帯びて見える。
「今朝は、薔薇とチョコレートをありがとう。部屋にもしっくりとしていて、とても綺麗だったわ」
「あの部屋に合いそうだと思ったから。温室から選んできた」
フィリスは、彼が自ら選んだのだと思うとやはり嬉かった。
いつまでもこんな風に気を使わせて、なんて自分は面倒な女なのだろう。
「ジョエル……わたしはずっと、あなたとファーストダンスを踊り続けたい。そう思ってる……でも、まだ……踏み出せないわたしがいるの、もう少しだけ……待ってくれる?」
言ってしまって、フィリスは後悔した。
言うも言わぬもどちらにしても、前進したわけでは無くて、結果は同じじゃないかと。
「待ってる。でもそれは、相手がフィリスだからだ……」
腕が伸びて、フィリスの首に手が触れて引き寄せられそのまま唇が重なりそして、深くキスを交わす。
こんな王都の真ん中で……扉一枚隔てると外にはたくさんの人々がいるのに……。
「あと少し、なんだな?」
「ええ、そう……多分……」
フィリスはそう返事をして、ジョエルの笑みのその下に秘めた何かを感じさせてゾクゾクしてしまう。
彼の気持ちに応えられるようになるには……あと何が必要なのだろう?やはりそれは、同じ立ち位置で居場所を持つことなのかも知れない。
後ろ楯なら、十分にある。
後は、自分がどうそれを活かすかにかかっていた。
「必要なのは……時間、というわけか」
揺れる馬車の中でフィリスは、ジョエルの唇にキスをした。
肯定の意味を込めて、約束の意味を込めて……。
そして何よりも彼が、フィリスの気持ちを大切に扱っていてくれて、待たせていると分かっているから。
「ありがとう、ジョエル」
「いや……『待て』くらい犬でも出来る」
その答えにフィリスはくすっと笑った。
それにつられるように、ジョエルも笑って二人で額を寄せあってしばらく恥ずかしいくらいに笑ってしまった。
どうしよう……こんな風に、大切に思われる事が……それを感じられるというのは、どうしてこんなにも幸せを感じるのだろう……。
これ以上を望むのは贅沢過ぎな様に思えてしまう。
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