捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来

鍛高譚

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第2章:冷遇されるエミリアと貴族たちの掌返し

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 王宮で行われた大舞踏会の翌朝――。

 まだ薄暗い時間帯に、ウィンスレット公爵家の令嬢エミリア・ウィンスレットは目を覚ました。婚約破棄を通告された夜、枕を濡らすほどに泣いたにもかかわらず、驚くほど頭は冴えている。胸の痛みは依然として残っているが、あの苦しい涙を一度すべて流し切ったことで、かえって心の奥に奇妙な冷静さが生まれていた。

 “私を踏みにじったこと、後悔させてやる”
 そう心の中で宣言したものの、今すぐ行動に移せるわけではない。相手は王女クラリッサを後ろ盾に得たアルバート・ロンズデール、さらに背後には国王さえ控えているかもしれない。ウィンスレット公爵家としても、早計に噛みつけば逆に政治的な圧力をかけられかねない。エミリアは自分が置かれた立場と、この国の権力構造をしっかりと理解しているゆえ、軽々しい行動は取れない。

 一方で、自分にできることは少なくない。社交界で培ってきた広い人脈、幼少期から叩き込まれた礼儀作法と知識、そして公爵令嬢としての誇り――これらをうまく活用すれば、必ずや道は開けるはず。今はその方策を見定める時間でもあると、エミリアは己に言い聞かせる。

 部屋のカーテンを開くと、朝の光が静かに差し込みはじめていた。エミリアは夜会の名残で疲れ切った身体を少しだけ伸ばし、侍女たちが用意してくれた朝食をとる。パンとスープ程度の簡素な食事だが、今の彼女にはこれくらいがちょうど良い。それにしても、昨夜あれほど動揺していたわりには、意外としっかりと食欲がある自分に驚く。

 (泣いてばかりいても仕方がないもの。……さあ、この後は父と話をしなくては)

 昨夜は帰宅するなり部屋にこもってしまったため、父であるウィンスレット公爵とはまともに顔を合わせていない。――婚約破棄が大問題であることは、言うまでもない。エミリアは公爵家の長女であり、家督を継ぐことはないにしても、一族の名誉を担う立場。それが、あの大舞踏会で公衆の面前で醜態をさらされたのだ。父がどれほど怒り、あるいは嘆いているのか、想像するだけで胸が痛む。

 食事を終え身支度を整えた後、エミリアは執務室へと足を運んだ。薄く開いた扉の隙間から覗くと、そこには机に向かいながらも何やら落ち着かない様子で書類をめくっている父の姿がある。ウィンスレット公爵、名はヘンリーといい、五十を少し超えた年齢。威厳のある整った風貌を保ちつつ、その厳しさと慈愛を兼ね備えた性格で知られている。公爵として、王家からの信頼も厚い人物だ。

 コンコン、と扉をノックし、エミリアが「失礼いたします」と声をかけると、公爵は険しい顔のまま「入りなさい」と答えた。その声色からは怒りと心配が入り混じっているのが伝わってくる。

 「……エミリア、座りなさい」

 促されるまま執務机の前の椅子に腰掛けると、ヘンリー公爵は深いため息をついた。その横には、エミリアの母――公爵夫人のメレディスも控えている。メレディス夫人は褐色の髪に柔和な瞳を持ち、普段は優しく穏やかな人柄だが、今はその美しい額に深い皺を寄せ、怒りを必死にこらえているようにも見える。

 「エミリア、まずは聞かせてくれ。昨夜の舞踏会でいったい何があったのか。……アルバート・ロンズデールが、おまえに婚約破棄を宣言したと聞いたが?」

 公爵の声には静かながらも確かな激情がこもっていた。エミリアは覚悟を決め、淡々と事実を報告する。――アルバートが王女クラリッサと親密にしていたこと。大勢の前で自分を“地味で退屈な女”と侮辱し、正式に婚約を破棄すると宣言したこと。そして、それを受け入れざるを得なかったこと。

 エミリアが一通り語り終えると、公爵夫人のメレディスが顔を真っ赤にして立ち上がった。

 「なんて酷い……! あの方たち、一体どういうおつもりなのかしら。もう国王陛下のお墨付きで、王女とアルバート様を結婚させる算段が整っているということ? それを踏まえてエミリアを切り捨てるなど、あまりにも横暴ですわ」

 母の怒りはもっともだ。公爵夫人として、娘があれほどの侮辱を受けたのを黙って見過ごせるはずがない。父であるヘンリー公爵も同様だが、彼はそれ以上に政治的な意味合いを察しているらしく、額に手を当てて目を閉じたまま、しばし沈黙を保っていた。

 「……アルバートは国王陛下や王女に取り入っている節があった。ここ数年、あちこちで噂はされていたが、まさかここまで露骨に動くとはな。ウィンスレット公爵家との縁を捨ててまで、王女との婚姻を狙うとは……」

 それだけ言うと、公爵は低く唸るように息を吐いた。公爵家とロンズデール公爵家は長い付き合いがあり、かつては同盟関係に近い状態でもあった。将来的にエミリアとアルバートを結婚させることで、互いの家を強固に結びつけ、王国内でも有数の勢力を形成するというのが、当初の目論見だったのだ。しかし、それもアルバートが王女クラリッサの存在を知り、こちらが得になると判断した瞬間に覆された。ロンズデール公爵家としては、王家に直接つながるメリットを選んだということだろう。

 「父様、私としては……あのような形で破棄を宣言され、屈辱を味わいましたが、後悔はしていません。あの方と結婚しても、きっと私は幸せにはなれなかったと思います」

 エミリアの静かな言葉に、公爵夫人は涙ぐんでそっと手を伸ばしてきた。

 「……そうね、あなたの性格を考えれば、あのように卑劣な手を使う男なんて、こちらからお断りですわ。それにしても、そう簡単に許していいわけがありません。名門公爵家の令嬢を、あのように人前で踏みにじるなんて……ロンズデール公爵家から正式な謝罪を要求してもいいのではないかしら?」

 夫人の言葉を受けて、公爵は険しい表情をさらに深くする。

 「確かに、謝罪を求めることはできる。ただし、相手は王女殿下との縁組をちらつかせている以上、国王の意向も絡んでくる。もし国王陛下が『この婚約破棄は我が国益に適う』と判断したら……ウィンスレット家としては迂闊に逆らえん。下手に騒ぎ立てれば、わが家を敵視するような流れになりかねない」


 政治の世界は理不尽に満ちている。とりわけ王族が絡めば尚更だ。アルバート個人への怒りはもちろんあるが、下手を打てば公爵家そのものを危うくしかねない。ヘンリー公爵が抱いているのはそうした現実的な恐れであった。

 「父様、母様。……どうか私に時間をください。今は動かず、嵐が過ぎるのを待つべきかと思います。もちろん、このまま泣き寝入りするつもりはありません。ですが、こちらから先に大きな手を打つのは得策ではないかと……」

 エミリアの言葉は冷静だった。昨夜の惨事を思えば、今すぐにでも反撃したい衝動があってもおかしくないが、それを抑えられるだけの理性と洞察が彼女にはある。ヘンリー公爵も娘の言葉を聞き、わずかにほっとした表情を浮かべた。

 「……分かった。おまえに任せよう。とはいえ、傷付いたままでいるのも辛いだろう。少しでもいいから休息をとるんだぞ。もし何か困ったことがあれば、遠慮なく頼りなさい。これは父としてだけでなく、公爵としての命令だ」

 「ありがとうございます、父様」

 エミリアは深く頭を下げ、執務室を辞した。彼女は自室へ戻る間、心の中で改めて決意を固める。――“ロンズデール公爵家とアルバートを許すつもりはない。だが、今は最適な時機を待つ”。自分が動くには、まず相手の出方を見極める必要がある。相手は王女の力を得て、社交界で幅を利かせ始めるだろう。そのとき、必ずどこかにほころびが生じるはず。それを見逃さず、最も効果的な一手を放つのだ。

 しかし、エミリアにとって試練はすぐに訪れた。それは、貴族社会の人間関係における「冷遇」と「掌返し」――彼女の婚約破棄を面白おかしく利用しようとする動きが、早くも大きくなり始めたのである。
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