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第1章:求められた結婚のはずが
6話
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私、クレア・ローランドは、王国屈指の名門貴族・ローランド公爵家の令嬢である。
しかし、たった数週間前に結婚した夫、ギルバート・ウェインが私に向けたものは、愛などではなかった。
すべては彼が公爵家の後ろ盾を得て出世するための策略にすぎなかったのだ。しかも結婚前から愛人を抱えており、新婚生活では一度も夫婦らしい時間を持たず、裏では私を利用する計画を着々と進めていた——。
私がその事実を知り、愛人の手紙という決定的な証拠を握ってギルバートの屋敷を飛び出したのが、ほんの数日前のこと。父と母の温かい支えにより、私は実家であるローランド公爵家へ戻り、離縁を決意する。
そして今日、ギルバートが公爵家を訪れ、正式に「弁明」をする場を設けた。もちろん私たちの要求は「離縁」のみ。あちらがどんな言い訳を並べようと、この結婚を続けるつもりはさらさらない。
けれど、その交渉がすんなりと終わるわけもない。ギルバートは自分の名誉と地位を守るために必死で嘘を重ねるだろう。私は今、父母と共に応接室に入り、冷ややかな視線で彼を見据えている。
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1.偽りの謝罪
ギルバート・ウェインは、いかにも「誠実そうに」頭を下げてみせた。
「クレア、そしてローランド公爵閣下、公爵夫人。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
その物腰は、以前私が惹かれた“誠実な騎士”を装っているかのようだった。だが、私は彼の内面が黒く歪んでいることを知っている。もう騙されるわけにはいかない。
父が鋭い声で促す。
「……話を続けろ。お前を呼びつけた理由は、書状で示した通りだ。『クレアと離縁したい』。我々はそれを正式に要求する。お前がそれに異を唱えるというなら、ここで説明をしてみせろ」
「はい。まず、クレアが私の屋敷から突然いなくなった経緯をお聞かせ願いたいのです。僕は何の前触れもなく妻が姿を消したので、深く心配していました。騎士団の仕事で忙しくしていたがゆえ、彼女をないがしろにしていたかもしれない——だが、それも王国に貢献したい一心でした。決してクレアを軽んじていたつもりはありません。僕は、いつか理解してもらえると信じていたんです」
しれっと大嘘をつくギルバート。その言葉を耳にして、私は息を呑みそうになったが、ぐっとこらえた。ここで感情的に叫んでも、彼の思う壺かもしれない。父と母が隣に控えてくれている以上、私は今は聞くだけに徹する。
「クレアが急に屋敷を出て行ったのは、ほんの些細な夫婦間の行き違いが原因かと……。もし誤解があるなら、僕が直接クレアに釈明したい。公爵閣下にも、ご迷惑をおかけしていることをお詫びいたします」
そう言ってギルバートは、頭を深々と下げてみせる。だが、父は微動だにせず厳しい表情を崩さない。
「……行き違い、だと?」
低く発せられた父の声には冷たい怒りが宿っている。
「お前が何を言おうと、クレアはお前の下を離れたがっている。その原因を“些細な行き違い”と呼ぶとは、随分な言い草だ。私としては、すでに『愛人の存在』および、クレアを利用した『出世の計画』があったと聞いているが?」
ビクリ、とギルバートの肩がわずかに震えたのを、私は見逃さなかった。やはり直接指摘されると痛いのだろう。
「い、いえ……愛人などというのは事実無根です。確かに知り合いの女性がおりますが、あれはただの友人で……。公爵家の方々に誤解されるような仲では決してございません」
ギルバートは慌てて否定する。だが、父はすかさず言葉を重ねた。
「……では、これを見ても同じことが言えるのか?」
そう言って父が取り出したのは、リリアンから送られた例の手紙。そこには「クレアとの結婚は必要なものだ。出世のために利用できる」「でも、私を本当に愛しているのはあなた」という、裏切りを明示する記述がはっきりと残されている。
ギルバートはそれを見るなり、明らかに表情をこわばらせた。それでもまだ取り繕おうとする。
「そ、それは……何かの誤解です。リリアンという女性から、僕が勝手に慕われていただけで、手紙に書かれている内容は一方的なものだ。僕は関わっていません……!」
だが、そんな嘘が通用するはずがない。怒りが込み上げてきた私は、ここでようやく口を開いた。
「勝手に慕われていただけ? では、この手紙に書かれた『あなたと結婚して出世を得たら、私たちが高い地位を手にできる』という記述はどう説明するの? 一方的に書かれた内容にしては、あまりにも具体的にあなたの状況や計画が書かれているのだけど?」
私が突きつけると、ギルバートはうろたえた表情で視線をそらした。彼は明らかに動揺している。
「そ、それは……リリアンが僕の噂を勝手に聞きかじって、好き放題に想像を書いているだけだ! あの手紙は誤解を招く内容で、僕自身もずっと迷惑していたんだ!」
その場しのぎの弁明。私だけでなく、父母の目にも明らかな嘘と映ったことだろう。父は嘲るように鼻を鳴らす。
「じゃあ、私たちは全員“誤解”しているわけだな。だが、騎士団でのお前の評判を調べたところ、裏ではリリアンという女を『自分の最愛の存在』と呼び、妻であるクレアをないがしろにしていたという証言も多々あるぞ。実際、お前が深夜に屋敷を抜け出して会っていた事実も聞いている」
「そ、それは……たまたまそのとき、仕事の関係で……」
もはや言い訳の体裁すら保てていない。見苦しい沈黙が応接室に漂った。私は、ギルバートの醜い姿に心底嫌気が差す。今さらこんな嘘を重ねる男に、なぜ結婚前に騙されてしまったのか——悔しさがこみ上げるが、もう過去は取り返せない。
それを断ち切るように、父が淡々と語りだす。
「ギルバート・ウェイン。お前の行いは、貴族社会の倫理に反している。あろうことか、公爵家の娘を利用した上で裏切った。その罪は極めて重い。私は娘の要求に応じ、お前との離縁を求める。これ以上言い逃れをするなら、裁定所へと事態を持ち込むだけだ。国王や上級貴族の代理人のもとで公に審理し、そこでも同じ証拠を提示するつもりだが……それでもいいのか?」
こうなると、ギルバートも焦らざるを得ない。彼は騎士団での地位向上を狙っていたはずだが、王族や貴族社会が総出で調査すれば、出世どころか立場を一気に失いかねない。
しかし、この期に及んでもギルバートは土下座するでもなく、偽りの自尊心を捨てられないようだった。
「待ってください……! 裁定所なんて、事を荒立てるのは公爵家としても得策ではないはずです! それこそ、クレアが世間から“出戻り”と侮られ、ローランド公爵家の評判にも傷がつきます。ここは穏便に話し合いを……」
浅ましい脅しに近い言葉。その瞬間、私の母が鋭い口調で割って入った。
「公爵家の名誉を汚したのはどなたかしら? 私たちの娘を踏みにじっておきながら、今度は脅すような言い方ですって? あまりに見苦しいわね」
父も母も、かつてギルバートを「有能な若者だ」と期待していた。その気持ちが裏切られた怒りは並大抵のものではないだろう。
「私たちが真に恐れているのは“世間体”なんかじゃないのよ。娘があんたのせいでこれ以上傷つくこと、それが一番許せないの。理解できないの?」
母の言葉は至極まっとうだった。見栄や世間体を保つために、私を犠牲にして結婚生活を続けるなんてありえない。
ギルバートは完全に追い詰められ、唇を噛みしめる。彼の目が一瞬きょろりと動き、私へと向けられた。
「クレア……! 君は何か勘違いをしてるんだ。あの日、君が突然いなくなったから、僕は気が動転して——」
「その言い訳、もう聞き飽きたわ」
私はきっぱりと、彼の言葉を遮る。
「最初から私との結婚を利用するつもりだったんでしょう? 裏でリリアンと会い続けて、あの手紙にはあなたが私を“ただの道具”としか見ていない証拠がはっきり書かれている。そんな人に、どうしてまだ私が振り回されなくてはならないの?」
ギルバートは何かを言いかけたが、結局、言葉にならなかったようだった。唇をわななかせて、沈黙するばかり。
私の胸には、はっきりとした確信があった。
——この結婚は、もう完全に終わっている。
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2.両親による最後通告
テーブルを挟んで、私たちとギルバート。空気は張り詰め、使用人たちも固唾をのんで見守っている。
やがて、父が静かに口を開いた。
「ギルバート、貴様に最後通告をする。クレアとの離縁に応じろ。そうすれば、裁定所での審理を経ずに済む……つまり、最低限の体面は保てるだろう。もっとも、貴様自身の評判が地に落ちることは避けられんがな」
その言葉にギルバートは少しだけ顔を上げる。彼は、公爵家との争いがどれほど自分に不利かを理解しているはずだ。それでも、まだ何かしらの打開策を探そうというのだろうか。
「……離縁というのは、あまりに一方的では? 公爵家に後ろ盾があれば何でも許されるわけではありません! 僕とクレアが真摯に話し合えば、再構築の道もあるはずだ! あるいは、しばらく別居という形を取るとか……」
再構築? 何を言っているのだろう。私は思わず呆れ、肩の力が抜けそうになる。リリアンと密会し続け、私を踏みにじったくせに、今さら「やり直そう」などと——。
「……冗談でしょ? あなたと私が“やり直す”ですって? 笑わせないで」
私が小さく吐き捨てると、母がさらに言葉を重ねる。
「公爵家の令嬢と結婚しておきながら、その実態は“白い結婚”。夜は一度も同じ寝室にすら入らない。この数週間、クレアがどれほど心を痛めていたか、あなたは想像したことさえないでしょう?」
母の指摘に、ギルバートは顔を引き攣らせる。私がギルバートの屋敷で新婚生活を送っていたあの期間、彼はほとんど私のところに寄り付かなかった。
「それでもあなたは、『仕事が忙しい』『深夜警備がある』と言い訳をしていたわね。クレアはそんなあなたを理解しようとしていた。でも、結局あなたはリリアンとの逢瀬を優先していただけ。事実に目を背けないで」
母の声は冷ややかだが、そこには私への思いやりが感じられる。私があの屋敷でどんな寂しさを味わったか、母は全部分かってくれているのだ。
ギルバートはテーブルの端をぐっと掴んだまま、絞り出すように言う。
「……そこまで言うなら、訴えでも何でもすればいい。だが、公爵家が一方的に僕を悪者扱いしている——そう世間は受け取る可能性もある。クレアと僕の婚礼は、あれだけ多くの人々が祝福したのだ。離縁となれば、スキャンダルは確実。そちらにだって大きな痛手でしょう?」
言いながら、彼は脅しとも取れる視線を父に向ける。
「もし、ここで無理やり離縁を迫るなら、僕は自分の身を守るためにあらゆる手段を使わざるを得ない。誤解だらけのまま僕が悪者になるのは、あまりに理不尽だ……!」
その言い分に、私は怒りを抑えられなくなった。誤解? どこに誤解があるというの? 愛人の手紙、私との結婚生活の実態、全部が“ただの事実”ではないか。
父が椅子からすっと立ち上がり、ギルバートを鋭い眼差しで睨む。
「……そうか。では本当に裁定所で争うということだな? いいだろう。私も、娘を欺いた貴様を社会的に抹殺するだけの覚悟はできている。貴様がどんな手を使おうと、公爵家の意志を揺るがすことはできん」
その言葉に、ギルバートは追い詰められた表情を浮かべる。
私と母は、父の側で黙って見守っていた。父はいつも冷静沈着な人だが、娘を傷つけられて黙っているほど甘くはない。さらに、ギルバートが脅し紛いの言葉を口にしたことで、父の怒りは頂点に達しているようだった。
「もし、公爵家として本気で動けば、王宮の要職や騎士団内部での地位も全て吹き飛ぶだろう。貴様のこれまでの功績がどうこうという問題ではない。貴族社会というのは、そういうものだ……分かるな?」
父は淡々と告げる。しかし、その声には揺るぎのない圧がある。ギルバートが騎士団でどんなに頑張ろうとも、公爵家との対立を正面から起こせば、彼が得られる未来など限りなく狭まる。
「くっ……」
ギルバートは歯噛みし、視線を床に落とす。そこへ母がさらに畳みかけた。
「公爵家の名誉を盾に取って、娘を踏みにじり続けるなんて許せません。あなたが抵抗を続けるなら、その行為自体を国王陛下に報告するまでよ。あなただけでなく、ウェイン男爵家にも多大な迷惑がかかる。いいのかしら?」
ウェイン男爵家——ギルバートの実家だ。男爵家とはいえ、そんな大きなスキャンダルが表沙汰になれば、家そのものが存続の危機に立たされる可能性もある。
最終的には、彼が腹をくくらねばどうにもならない状況だった。ギルバートはしばらく沈黙し、やがて力なく息を吐いた。
「……分かりました。そこまでおっしゃるなら、離縁を認めるしかない。僕にはどうしようもないことですから……」
心にもない言葉だと分かっていても、その言質を取れただけで十分だった。私は心の中で安堵すると同時に、悔しさも込み上げる。なぜ最初から本音を話そうとしないのか。最後まで強情を張って、私たちを傷つけて……。
それでも、これでひとまず大きな争いにはならずに済むのだろう。私はそっと息をつき、ギルバートを見据えた。
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3.ついに決着——されど残るわだかまり
ギルバートの口から「離縁を受け入れる」という言葉が出たことで、応接室内の空気がやや緩んだ。ただし、それは「和解」などでは決してない。私たちは彼を絶対に許すつもりはない。
父があらためて書類を取り出し、彼の目の前に置く。
「よろしい。では、ここに離縁の合意書を用意した。サインをしろ。すでに諸々の条件も書き加えてある。お前からクレアへの慰謝料の金額、期限、受け取り方法など……」
「慰謝料……そこまで必要ですか? 確かにクレアを傷つけた責任は感じていますが、僕は……」
まだ反抗しようとするギルバートに、父はばさりと書類を突きつけた。
「当たり前だ。お前が何をしてきたか分かっていないのか? 結婚式の費用だって膨大だったし、クレアがこの先受ける心的苦痛を考えれば、もはやこれでも足りんくらいだぞ。……これは正式に算定した金額だ。お前には払う義務がある」
ギルバートは苦虫を噛み潰したような顔で沈黙し、やがてしぶしぶと書類に目を通しはじめる。そこには慰謝料だけでなく、クレアとの今後一切の関わりを断つこと、公爵家やクレア本人への名誉棄損行為をしない旨などが明記されている。
「ふん……。ずいぶん徹底してますね」
彼は苛立たしげにペンを握ったが、父と母、そして私の視線を感じているのか、もう一度ため息をついてペン先を走らせる。ペンを走らせる時間がやけに長く感じられたが、やがて署名欄に大きく名前を書くのを確認すると、私の心は徐々に落ち着きを取り戻していった。
——これで本当に終わりなのだ。
書き終わった紙を父がしっかりと確認し、母も見届ける。彼のサインと家紋の刻印が揃った合意書は、法的にも効力を持つものだ。これを盾にすれば、ギルバートが後から何を言おうと“覆せない”はず。
「では、これにて“合意”という形だな。……クレア、何か言いたいことはあるか?」
父にそう促されて、私は一瞬目を伏せた。ギルバートの姿を改めて見ると、胸が重苦しい。かつて騎士団のエリートとして誠実だと思っていた頃の記憶がチラリと蘇る。でも、もうそんな幻想は打ち砕かれた。
私ははっきりと口を開く。
「あなたが最初に『公爵令嬢としての私』ではなく、ひとりの女性として私を見てくれたと思ったのは、勘違いでした。私はあなたに騙されていたのね。……でももう、十分よ。さようなら、ギルバート」
私がそう言うと、ギルバートは言葉を失ったまま、何も返事をしない。視線を合わせようともせず、苦い顔をしたまま固まっていた。きっと最後の最後まで、自分の利害だけを考えているのだろう。
これが私とギルバートの最後の対面だと思うと、少しばかりの虚しさを感じる。けれど、そこに未練はない。悲しいけれど、私が選んだ道は「もう一度信じる」ではなく「絶対に許さない」だったのだ。
父が言葉を続ける。
「それでは、ギルバート・ウェイン。お前は速やかに公爵家を出て行け。合意書の内容に反して何か行動を起こせば、直ちに裁定所で争うことになる。よく覚えておけ」
ギルバートはわずかに唇を震わせたが、もはやどうすることもできないと悟ったのだろう。彼は椅子から立ち上がり、一礼ともいえないような投げやりな頭の下げ方をして、応接室を出て行った。
その足取りはどこか荒々しく、廊下に出たところで執事に先導されながら足早に屋敷を去っていくのが、扉の隙間から見えた。
扉が閉まり、少ししてから父が重い息をつき、母もふう、と肩を落とした。応接室にいた使用人たちの表情にも安堵の色が広がる。
「これで一応は一段落ね、クレア」
母が私に向かって静かに微笑んだ。私は長い緊張から解放されたせいか、体中の力が一気に抜け、思わずソファに腰を下ろす。
「……はい。終わりましたね」
ギルバートに対する怒りや憎しみはまだ残っている。でも、離縁が成立した今、彼とはもう“他人”だ。私は深呼吸して落ち着きを取り戻そうとする。
——こうして、私たちの“白い結婚”は決着を迎えた。
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4.離縁成立後の混乱
ギルバートが公爵家を去った翌日から、私たちは速やかに離縁を「正式書面」として記録に残すための手続きを進めた。というのも、貴族の離縁には王宮への届出が必要であり、そこで一度審査が行われるからだ。もっとも、当事者同士が合意している場合は、手続き自体はスムーズに進むことが多い。
父は自らの権力と騎士団への影響力を駆使し、瞬く間に必要な書類を整えた。さらに、念には念を入れて、ギルバートが書いたサインや家紋押印入りの離縁合意書を王宮の審議官に直接提示する手はずを整える。そのためにわざわざ王宮まで赴くことになったが、父にとってはさほど苦ではなかったようだ。
「クレア、書類は揃った。今日で離縁の手続きが完了するだろう。安心して待っていなさい」
「……ありがとうございます、父様」
父は私の頭をぽん、と軽く叩き、屋敷を出て行った。
私は客間でその様子を見送りながら、複雑な胸中を抱えていた。自分の結婚がこういう形で終わるなんて、結婚前は夢にも思わなかった。愛し合うはずの夫婦が、わずか数週間で完全に決裂し、離縁に至る——。
けれど、それこそがギルバートの狙いだったのだから仕方ない。私は再びギルバートの裏切りを思い出し、心を暗い感情がかすめるのを感じる。
そんなとき、私の母がやってきて、少し外へ出ないかと誘ってくれた。
「あなた、ずっと屋敷の中にこもっていたでしょう? 天気もいいし、中庭を散歩しましょう」
「……そうですね。気分転換したいです」
母に手を引かれるまま、屋敷の敷地内を歩く。手入れの行き届いた中庭には、初夏の陽射しが降り注ぎ、色とりどりの花が咲き誇っていた。
バラのアーチをくぐり、噴水のある小さな広場へと出る。水面に揺れる光が眩しく、私は目を細めた。幼い頃から見慣れた風景なのに、今はどこか新鮮な気がする。
「クレア」
母が私の肩にそっと手を置く。
「これから先、あなたはまた社交の場に出ることもあるでしょうし、再婚の話も出てくるかもしれないわ。けれど、まずはゆっくりと心を休めて、自分を取り戻すことが大事よ。傷ついたままの心で無理に動き回ると、きっと辛いだけだから」
「……母様」
私が結婚後すぐに戻ってきたことは、当然ながら社交界でも大きな話題になっている。けれど、幸いなことに父と母の手回しのおかげで詳細は伏せられており、「クレアが体調を崩したため、しばらく実家で静養している」という程度の噂が流れているようだ。
もっとも、そのうちギルバートが何かを吹聴すれば、スキャンダルとして広まる可能性は高い。だが、それより先に離縁が確定すれば、私が公爵家で保護される形になる。あまり大事にならないよう、父母が一生懸命動いてくれたのだ。
「……こんな私でよければ、何度でもやり直せるものなんでしょうか」
母の優しさが嬉しくて、しかし同時に不安も大きい。私はぼんやりと噴水を眺めながら呟く。
「当たり前じゃない。あなたはまだ若いし、これからたくさんの出会いがあるわ。第一、あなたは何も悪いことをしていない。悪いのはギルバートなのだから、自分を責める必要はないのよ」
母の言葉に、私はほんの少しだけ笑みを返した。再婚——正直、今は全く考えられない。あんな思いをするなら、二度と結婚なんてしたくないとも思う。だが、母はそれを急かすつもりはないと言ってくれている。
「ありがとう、母様。今はただ、ゆっくり休みたいわ」
そう言ったところで、私の胸に少しだけ希望の光が差し込んでくる。ギルバートの存在に縛られず、これからは自分の意思で人生を歩んでいける。そう思うと、重い鎖から解放されたような気持ちになれるのだ。
私と母は、しばらく噴水の周囲を散歩しながら言葉を交わし、やがて少し疲れた頃合いで再び屋敷へと戻っていった。
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5.ローランド公爵の報告——離縁は成立へ
夕方、父が王宮から戻ってきた。
玄関先で待ち構えていた私と母に向かって、父は穏やかな笑みを浮かべて言う。
「離縁は無事に受理された。クレア、お前はもうギルバートの妻ではない。安心していいぞ」
その言葉に、私は思わず胸を撫で下ろした。正式な手続きを済ませたということは、ギルバートが後になって何をほざこうとも、法的に私は完全に自由だ。もし彼が逆らえば、逆に処罰されるリスクを負う。
母もほっとした様子で父に声をかける。
「ありがとう、あなた。結局、王宮ではどんな感じだったの?」
「ふむ……。ギルバート本人は来ていなかったが、騎士団の上官が一人付き添いで提出に現れた。あれはおそらく、ギルバートが騎士団内部でなんとか事を丸め込もうとしているのだろう。だが、公爵家の離縁に異議を挟む余地はなかったよ。私が手紙の存在などをちらつかせたら、一瞬で黙り込んだからな」
父は少し皮肉げに笑ってみせた。あの手紙、リリアンが書いた裏切りの証拠は、ギルバートにとって致命的だったのだろう。裁定所に持ち込まれでもしたら、騎士団人生が終わるだけでなく、王宮での信用も失墜しかねない。
「それに、王家としても公爵家との対立なんて避けたいだろうからな。あれ以上ゴタつけば、ギルバート側がどれほど騎士団で実績を積んでいようと即座に切り捨てられるのは目に見えている。……まあ、貴様らの嘘がそれほどあっさり暴かれたことだ」
父の言葉に、私は胸の奥で小さく自嘲する。ギルバートをそこまで追い込んだのは、私が抱えた傷の深さの裏返しでもある。
しかし、これで本当にすべてが終わりだ。私は頭を下げて父に礼を言う。
「父様、本当にありがとうございました。……私のために、こんなにも動いてくださって……」
「馬鹿を言うな。お前は私たちの娘だ。守るのは当然のことだろう」
父の優しい言葉に、私は自然と涙があふれてきた。悔しい涙や悲しい涙ではなく、安堵と感謝の涙。私は母の肩に顔を埋めて、しばらく声を殺して泣いた。
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6.ギルバートを待ち受ける破滅の兆し
離縁が成立して数日が経った頃、父の耳にある噂が飛び込んできた。なんでも、ギルバートとリリアンの関係が騎士団内部でさらに問題視されているというのだ。
ギルバートは私との結婚生活を続けながらリリアンとの逢瀬を重ねていたわけだが、それを隠すために騎士団の書類を改竄したとか、当直勤務を勝手に変えてもらうよう上司に賄賂を渡したとか、そういった小悪事が次々に露呈しているらしい。
こうなると、騎士団での彼の立場は危うい。いくら公爵家との離縁が済んだといっても、「あのギルバートは公爵家の令嬢を裏切り、騎士団の規則を踏みにじった男」としての悪評が着実に広まっていく。
事実、父の知人である高位騎士の話では、「ギルバートの昇進話はすべて白紙。むしろ地方へ左遷される可能性もある」という噂が飛び交っているとのこと。
——私がそれを耳にしたとき、正直言って多少の“ざまあみろ”という感情が湧かなかったといえば嘘になる。
もちろん、私の本心は「彼に思い知らせてやりたい」だった。自分の裏切りがどれほどの代償を伴うか、身をもって理解すればいい。だからこそ、私は彼に対して一切の同情もしない。
母は私にその噂を伝えてくれた後、「あまり気にしなくていいのよ。あなたは何も悪くないんだから」と言った。たとえ彼がどう転落しようと、それは自業自得だ。私には関係のないこと。
その翌週、さらに別の知らせが届いた。リリアンがギルバートを見限ったというのだ。どうやら、ギルバートが騎士団での出世を望めない立場になったとわかるや否や、彼女はさっさと逃げたらしい。
「……結局、裏切り者同士の愛なんてこんなものよね」
私はその話を聞いて、呆れにも似た感情を抱く。互いに利害や欲望で繋がっていただけの関係なのだろう。ギルバートもリリアンも、最後には何も得られなかったというわけだ。
噂によれば、ギルバートは人事異動で地方の僻地へ飛ばされる可能性が高く、しかもそこは治安が悪く過酷な土地らしい。王都で私を裏切って得たものが、一体何だったのか——今頃になって後悔しているかもしれないけれど、私にとってはもはや関係のない話だ。
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7.新たな始まりを信じて
離縁が成立したあと、私はローランド公爵家の邸でゆったりとした日々を過ごしていた。
最初はまだ心の整理がつかず、ギルバートとの結婚生活を思い出して落ち込むことも多かった。何かをしようと手に取っても集中できず、うっかり物を落としてしまうこともある。でも、父や母、そして使用人たちは温かく私を見守ってくれる。
「クレア様、今日はいかがなさいますか? お庭でティータイムをなさるのも良いかと……」
「それとも、少し読書のお手伝いをいたしましょうか?」
皆が私を気遣ってくれる。その優しさがありがたい反面、申し訳なさも感じる。けれど、母が「あなたは何も悪くないんだから、遠慮なく甘えなさい」と言ってくれたので、私は素直に「うん」と頷いた。
気づけばもう、あの“白い結婚”から幾分か日が経っている。離婚したという事実は重いが、それで人生が終わるわけではないのだ。
王都では、相変わらず私の“体調不良”説が続いているらしい。正式な離縁手続きが終わったにもかかわらず、世間にはほとんど情報が流れていないという。これは、父と母、そして王宮の意向によるものだ。ギルバートとの対立が大きなスキャンダルとなって国中を混乱させることは、王家としても望ましくないらしい。
もっとも、騎士団の一部にはすでに真相が知れ渡っているはずだが、そちらから大きく話が外に漏れることはない。公爵家を敵に回すリスクを考えれば当然だろう。
私は屋敷の図書室で何冊か本を借り、客間に戻った。久しぶりにゆっくり読書するつもりだ。外は気持ちの良い天候だが、まだ外出する気分にはなれない。でも、こうやって本に集中していると、すこしずつ心が落ち着いてくる。
以前は、いつか自分もギルバートと一緒に「王国に貢献する夫婦」になれると信じていた。それが無残に砕け散った今、私には新しい夢や目標を見つける必要がある。家で静養しつつ、次に歩むべき道を考えてみよう——そう思っていた矢先、母がニコニコしながら部屋に入ってきた。
「クレア、いいお茶菓子をいただいたの。使用人が用意してくれたから一緒に食べましょう」
母の朗らかな声に、私まで少しだけ気分が明るくなる。
「ありがとう、母様。じゃあ、ちょっと息抜きに……」
そう答えて立ち上がると、ふわりとカーテンの隙間から優しい風が吹き込んできた。遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。
私はそのささやかな温もりを感じながら、母とお茶菓子を味わう。
心の痛みは、まだ完全には消えていない。ギルバートの裏切りで負った傷は深く、当分は癒えないだろう。けれど、こうして穏やかに過ごしているうちに、少しずつ前を向ける気がしていた。
「私の人生は、これからなんだから……」
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8.終焉と始まりを告げる鐘の音
それからほどなくして、決定的な報せが届く。
ギルバート・ウェインが、地方への左遷を言い渡された——という知らせだった。地方といっても「辺境の小さな島」だという。国境付近の海上要塞を管理する厳しい場所で、騎士の中でも“罰”のように送られるケースが多いという。
その島は治安が悪く、生活環境も苛酷で、本人の希望がない限りまず行くことはない僻地中の僻地。ギルバートの上官が決定を下したらしく、当人は大いに反発したものの、すでに彼を庇ってくれる人物はほとんど残っていないらしい。結局、数日の猶予もなく島へ向かうしかなくなったという。
噂ではリリアンと手を携えて行く可能性があるとも囁かれていたが、どうやらリリアンは王都に居ついてしまい、ギルバートを見限ったという話が濃厚だ。
「……まあ、当然の結果でしょうね」
私がその報せを知ったのは、父が騎士団の高位騎士から直接聞いてきたからだ。父は私の顔色を窺いながら言う。
「クレア、お前はどう思う? ギルバートが辺境に飛ばされることについて……」
どう思う、と言われても、特に何も感じない。彼を罵りたい気持ちもないし、哀れむつもりもない。彼が選んだ道の結末であり、自業自得なのだ。
だから私は、正直に言葉を返す。
「……そうですか。いずれこうなったとは思いますが、もう私には関係のない人です。ただ、あの人がどこへ行こうと、何をしようと、私の知ったことではありません」
すると父は小さく頷いた。
「そうだな。それでいい。お前が振り回される必要はない。……これで本当に、ギルバートの行いは報いを受けることになるだろう」
そして数日後、ギルバートは王都を出発したらしい。船でしか行けない、孤島の要塞。そこは騎士団の中でも“左遷”の代名詞と言われる場所で、早々に逃げ出す者が多いとも聞く。
私は、最初にその話を聞いたとき、ほんの少しだけ胸が痛んだ。悪人だとはいえ、かつては私の“夫”だった人間だから。でもすぐにその胸の痛みは消え、「彼の末路がどうなろうと、もう関係ない」と思い直す。
父や母も、これ以上ギルバートの話題を口にしなくなった。私が平穏を取り戻すよう、気遣ってくれているのだろう。
だが、その後間もなく届いた報せは、さらに衝撃的だった。ギルバートが行方不明になった——という。
「何でも、島での任務中に姿を消したらしい。海の荒れた夜だったから、船で脱走しようとしたのではないかと噂されているが……」
父からそう聞いたとき、私は愕然とした。けれど、不思議と動揺はしなかった。あの男ならやりかねないし、何かトラブルに巻き込まれたところで、もう私が責任を感じることはない。
「……そうですか。何があったのかは知りませんが、もし助からなかったとしても、自分で招いた結果でしょう」
まるで他人事のように答える私に、父も深く頷く。私が冷たいと思われても仕方ないが、あれだけ私を傷つけた男だ。今さら同情はしないし、まして救いの手を伸ばそうなどとは思わない。
こうして、ギルバート・ウェインの存在は私の人生から完全に消え去った。
私の「白い結婚」は、最悪な形で終わりを迎えたが、その後始末まで含めて、ある意味では“決着”と言えるだろう。
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9.エピローグ——未来へ向かう一歩
私が離縁してから、ひと月ほどが経過した。
王都の空は澄み渡り、爽やかな風が吹き抜けていく。季節が少しずつ変わっているのを肌で感じながら、私はバルコニーに立っていた。公爵家の屋敷のバルコニーから見下ろす庭は、日に日に緑が深くなり、美しい花々が彩りを添えている。
——私はこれから、どう生きていけばいいのだろう。
幸せになるはずだった結婚が崩れ去り、夫という存在を失った今、正直言って目標を見失っている。けれど、私はまだ若く、これからの人生は長い。すぐに再婚という話にはならなくても、いつか心を通わせられる人と出会うかもしれない。
父と母が「ゆっくり考えればいい」と言ってくれたように、私は少し休みながら、自分の道を探してみようと思う。騎士団の支援活動をしてみるのもいいし、貴族の子女の教育に関わってみるのもいいかもしれない。公爵家の娘としてできることは、まだまだあるはずだ。
手元には、かつてギルバートとの結婚を記念して作った指輪がある。あれはもう私にとって、何の意味も持たない装飾品だ。先日まで部屋の片隅に放置していたが、今日はそれを手に取り、じっと眺める。純白の宝石がはめ込まれた指輪……。
思い出したくない記憶も蘇るが、あの結婚式の日に感じた幸福もまた事実。私はあのとき確かに夢を見ていた。
——けれどもう、その夢は終わった。
私はバルコニーの手すり越しに指輪を見つめ、そっと瞳を閉じる。そして、指輪をふわりと放り投げた……わけではなく、掌の中にぎゅっと握りしめた。
「……もう、縛られるのはやめましょう」
そう小さく呟く。ギルバートとの結婚を象徴するものを捨てるのか、あるいは宝石を売り払うのか、まだ決めていないけれど、この指輪に心を縛られる必要はない。いつでも手放せる。もう、悲しみでいっぱいの私ではないのだから。
すると、バルコニーの扉が開き、母が顔を出した。
「クレア、ここにいたのね。……ほら、今からティータイムにしましょう。あなたの好きなお茶が手に入ったのよ」
母の微笑みに、私は自然と笑みを返す。
「……行きます、母様。今行きますわ」
指輪をポケットに仕舞い込むと、私は母と共にバルコニーを後にした。
今日もきっと、穏やかな時間が流れるだろう。この先いつか、新しい夢や希望に巡り会うかもしれない。結婚に失敗したといって、人生すべてが否定されるわけではないのだから。
“白い結婚ざまあ”という皮肉な形で人生の一幕を終えた私だが、これからは自分の足で歩いていこう。
そう心に決めながら、私は母のあとを追って屋敷の廊下を進む。遠くから、小鳥のさえずりが聞こえた。まるで、新しい季節の訪れを告げるかのように——。
第3章:交わされる偽りの弁明、そして決裂
しかし、たった数週間前に結婚した夫、ギルバート・ウェインが私に向けたものは、愛などではなかった。
すべては彼が公爵家の後ろ盾を得て出世するための策略にすぎなかったのだ。しかも結婚前から愛人を抱えており、新婚生活では一度も夫婦らしい時間を持たず、裏では私を利用する計画を着々と進めていた——。
私がその事実を知り、愛人の手紙という決定的な証拠を握ってギルバートの屋敷を飛び出したのが、ほんの数日前のこと。父と母の温かい支えにより、私は実家であるローランド公爵家へ戻り、離縁を決意する。
そして今日、ギルバートが公爵家を訪れ、正式に「弁明」をする場を設けた。もちろん私たちの要求は「離縁」のみ。あちらがどんな言い訳を並べようと、この結婚を続けるつもりはさらさらない。
けれど、その交渉がすんなりと終わるわけもない。ギルバートは自分の名誉と地位を守るために必死で嘘を重ねるだろう。私は今、父母と共に応接室に入り、冷ややかな視線で彼を見据えている。
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1.偽りの謝罪
ギルバート・ウェインは、いかにも「誠実そうに」頭を下げてみせた。
「クレア、そしてローランド公爵閣下、公爵夫人。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
その物腰は、以前私が惹かれた“誠実な騎士”を装っているかのようだった。だが、私は彼の内面が黒く歪んでいることを知っている。もう騙されるわけにはいかない。
父が鋭い声で促す。
「……話を続けろ。お前を呼びつけた理由は、書状で示した通りだ。『クレアと離縁したい』。我々はそれを正式に要求する。お前がそれに異を唱えるというなら、ここで説明をしてみせろ」
「はい。まず、クレアが私の屋敷から突然いなくなった経緯をお聞かせ願いたいのです。僕は何の前触れもなく妻が姿を消したので、深く心配していました。騎士団の仕事で忙しくしていたがゆえ、彼女をないがしろにしていたかもしれない——だが、それも王国に貢献したい一心でした。決してクレアを軽んじていたつもりはありません。僕は、いつか理解してもらえると信じていたんです」
しれっと大嘘をつくギルバート。その言葉を耳にして、私は息を呑みそうになったが、ぐっとこらえた。ここで感情的に叫んでも、彼の思う壺かもしれない。父と母が隣に控えてくれている以上、私は今は聞くだけに徹する。
「クレアが急に屋敷を出て行ったのは、ほんの些細な夫婦間の行き違いが原因かと……。もし誤解があるなら、僕が直接クレアに釈明したい。公爵閣下にも、ご迷惑をおかけしていることをお詫びいたします」
そう言ってギルバートは、頭を深々と下げてみせる。だが、父は微動だにせず厳しい表情を崩さない。
「……行き違い、だと?」
低く発せられた父の声には冷たい怒りが宿っている。
「お前が何を言おうと、クレアはお前の下を離れたがっている。その原因を“些細な行き違い”と呼ぶとは、随分な言い草だ。私としては、すでに『愛人の存在』および、クレアを利用した『出世の計画』があったと聞いているが?」
ビクリ、とギルバートの肩がわずかに震えたのを、私は見逃さなかった。やはり直接指摘されると痛いのだろう。
「い、いえ……愛人などというのは事実無根です。確かに知り合いの女性がおりますが、あれはただの友人で……。公爵家の方々に誤解されるような仲では決してございません」
ギルバートは慌てて否定する。だが、父はすかさず言葉を重ねた。
「……では、これを見ても同じことが言えるのか?」
そう言って父が取り出したのは、リリアンから送られた例の手紙。そこには「クレアとの結婚は必要なものだ。出世のために利用できる」「でも、私を本当に愛しているのはあなた」という、裏切りを明示する記述がはっきりと残されている。
ギルバートはそれを見るなり、明らかに表情をこわばらせた。それでもまだ取り繕おうとする。
「そ、それは……何かの誤解です。リリアンという女性から、僕が勝手に慕われていただけで、手紙に書かれている内容は一方的なものだ。僕は関わっていません……!」
だが、そんな嘘が通用するはずがない。怒りが込み上げてきた私は、ここでようやく口を開いた。
「勝手に慕われていただけ? では、この手紙に書かれた『あなたと結婚して出世を得たら、私たちが高い地位を手にできる』という記述はどう説明するの? 一方的に書かれた内容にしては、あまりにも具体的にあなたの状況や計画が書かれているのだけど?」
私が突きつけると、ギルバートはうろたえた表情で視線をそらした。彼は明らかに動揺している。
「そ、それは……リリアンが僕の噂を勝手に聞きかじって、好き放題に想像を書いているだけだ! あの手紙は誤解を招く内容で、僕自身もずっと迷惑していたんだ!」
その場しのぎの弁明。私だけでなく、父母の目にも明らかな嘘と映ったことだろう。父は嘲るように鼻を鳴らす。
「じゃあ、私たちは全員“誤解”しているわけだな。だが、騎士団でのお前の評判を調べたところ、裏ではリリアンという女を『自分の最愛の存在』と呼び、妻であるクレアをないがしろにしていたという証言も多々あるぞ。実際、お前が深夜に屋敷を抜け出して会っていた事実も聞いている」
「そ、それは……たまたまそのとき、仕事の関係で……」
もはや言い訳の体裁すら保てていない。見苦しい沈黙が応接室に漂った。私は、ギルバートの醜い姿に心底嫌気が差す。今さらこんな嘘を重ねる男に、なぜ結婚前に騙されてしまったのか——悔しさがこみ上げるが、もう過去は取り返せない。
それを断ち切るように、父が淡々と語りだす。
「ギルバート・ウェイン。お前の行いは、貴族社会の倫理に反している。あろうことか、公爵家の娘を利用した上で裏切った。その罪は極めて重い。私は娘の要求に応じ、お前との離縁を求める。これ以上言い逃れをするなら、裁定所へと事態を持ち込むだけだ。国王や上級貴族の代理人のもとで公に審理し、そこでも同じ証拠を提示するつもりだが……それでもいいのか?」
こうなると、ギルバートも焦らざるを得ない。彼は騎士団での地位向上を狙っていたはずだが、王族や貴族社会が総出で調査すれば、出世どころか立場を一気に失いかねない。
しかし、この期に及んでもギルバートは土下座するでもなく、偽りの自尊心を捨てられないようだった。
「待ってください……! 裁定所なんて、事を荒立てるのは公爵家としても得策ではないはずです! それこそ、クレアが世間から“出戻り”と侮られ、ローランド公爵家の評判にも傷がつきます。ここは穏便に話し合いを……」
浅ましい脅しに近い言葉。その瞬間、私の母が鋭い口調で割って入った。
「公爵家の名誉を汚したのはどなたかしら? 私たちの娘を踏みにじっておきながら、今度は脅すような言い方ですって? あまりに見苦しいわね」
父も母も、かつてギルバートを「有能な若者だ」と期待していた。その気持ちが裏切られた怒りは並大抵のものではないだろう。
「私たちが真に恐れているのは“世間体”なんかじゃないのよ。娘があんたのせいでこれ以上傷つくこと、それが一番許せないの。理解できないの?」
母の言葉は至極まっとうだった。見栄や世間体を保つために、私を犠牲にして結婚生活を続けるなんてありえない。
ギルバートは完全に追い詰められ、唇を噛みしめる。彼の目が一瞬きょろりと動き、私へと向けられた。
「クレア……! 君は何か勘違いをしてるんだ。あの日、君が突然いなくなったから、僕は気が動転して——」
「その言い訳、もう聞き飽きたわ」
私はきっぱりと、彼の言葉を遮る。
「最初から私との結婚を利用するつもりだったんでしょう? 裏でリリアンと会い続けて、あの手紙にはあなたが私を“ただの道具”としか見ていない証拠がはっきり書かれている。そんな人に、どうしてまだ私が振り回されなくてはならないの?」
ギルバートは何かを言いかけたが、結局、言葉にならなかったようだった。唇をわななかせて、沈黙するばかり。
私の胸には、はっきりとした確信があった。
——この結婚は、もう完全に終わっている。
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2.両親による最後通告
テーブルを挟んで、私たちとギルバート。空気は張り詰め、使用人たちも固唾をのんで見守っている。
やがて、父が静かに口を開いた。
「ギルバート、貴様に最後通告をする。クレアとの離縁に応じろ。そうすれば、裁定所での審理を経ずに済む……つまり、最低限の体面は保てるだろう。もっとも、貴様自身の評判が地に落ちることは避けられんがな」
その言葉にギルバートは少しだけ顔を上げる。彼は、公爵家との争いがどれほど自分に不利かを理解しているはずだ。それでも、まだ何かしらの打開策を探そうというのだろうか。
「……離縁というのは、あまりに一方的では? 公爵家に後ろ盾があれば何でも許されるわけではありません! 僕とクレアが真摯に話し合えば、再構築の道もあるはずだ! あるいは、しばらく別居という形を取るとか……」
再構築? 何を言っているのだろう。私は思わず呆れ、肩の力が抜けそうになる。リリアンと密会し続け、私を踏みにじったくせに、今さら「やり直そう」などと——。
「……冗談でしょ? あなたと私が“やり直す”ですって? 笑わせないで」
私が小さく吐き捨てると、母がさらに言葉を重ねる。
「公爵家の令嬢と結婚しておきながら、その実態は“白い結婚”。夜は一度も同じ寝室にすら入らない。この数週間、クレアがどれほど心を痛めていたか、あなたは想像したことさえないでしょう?」
母の指摘に、ギルバートは顔を引き攣らせる。私がギルバートの屋敷で新婚生活を送っていたあの期間、彼はほとんど私のところに寄り付かなかった。
「それでもあなたは、『仕事が忙しい』『深夜警備がある』と言い訳をしていたわね。クレアはそんなあなたを理解しようとしていた。でも、結局あなたはリリアンとの逢瀬を優先していただけ。事実に目を背けないで」
母の声は冷ややかだが、そこには私への思いやりが感じられる。私があの屋敷でどんな寂しさを味わったか、母は全部分かってくれているのだ。
ギルバートはテーブルの端をぐっと掴んだまま、絞り出すように言う。
「……そこまで言うなら、訴えでも何でもすればいい。だが、公爵家が一方的に僕を悪者扱いしている——そう世間は受け取る可能性もある。クレアと僕の婚礼は、あれだけ多くの人々が祝福したのだ。離縁となれば、スキャンダルは確実。そちらにだって大きな痛手でしょう?」
言いながら、彼は脅しとも取れる視線を父に向ける。
「もし、ここで無理やり離縁を迫るなら、僕は自分の身を守るためにあらゆる手段を使わざるを得ない。誤解だらけのまま僕が悪者になるのは、あまりに理不尽だ……!」
その言い分に、私は怒りを抑えられなくなった。誤解? どこに誤解があるというの? 愛人の手紙、私との結婚生活の実態、全部が“ただの事実”ではないか。
父が椅子からすっと立ち上がり、ギルバートを鋭い眼差しで睨む。
「……そうか。では本当に裁定所で争うということだな? いいだろう。私も、娘を欺いた貴様を社会的に抹殺するだけの覚悟はできている。貴様がどんな手を使おうと、公爵家の意志を揺るがすことはできん」
その言葉に、ギルバートは追い詰められた表情を浮かべる。
私と母は、父の側で黙って見守っていた。父はいつも冷静沈着な人だが、娘を傷つけられて黙っているほど甘くはない。さらに、ギルバートが脅し紛いの言葉を口にしたことで、父の怒りは頂点に達しているようだった。
「もし、公爵家として本気で動けば、王宮の要職や騎士団内部での地位も全て吹き飛ぶだろう。貴様のこれまでの功績がどうこうという問題ではない。貴族社会というのは、そういうものだ……分かるな?」
父は淡々と告げる。しかし、その声には揺るぎのない圧がある。ギルバートが騎士団でどんなに頑張ろうとも、公爵家との対立を正面から起こせば、彼が得られる未来など限りなく狭まる。
「くっ……」
ギルバートは歯噛みし、視線を床に落とす。そこへ母がさらに畳みかけた。
「公爵家の名誉を盾に取って、娘を踏みにじり続けるなんて許せません。あなたが抵抗を続けるなら、その行為自体を国王陛下に報告するまでよ。あなただけでなく、ウェイン男爵家にも多大な迷惑がかかる。いいのかしら?」
ウェイン男爵家——ギルバートの実家だ。男爵家とはいえ、そんな大きなスキャンダルが表沙汰になれば、家そのものが存続の危機に立たされる可能性もある。
最終的には、彼が腹をくくらねばどうにもならない状況だった。ギルバートはしばらく沈黙し、やがて力なく息を吐いた。
「……分かりました。そこまでおっしゃるなら、離縁を認めるしかない。僕にはどうしようもないことですから……」
心にもない言葉だと分かっていても、その言質を取れただけで十分だった。私は心の中で安堵すると同時に、悔しさも込み上げる。なぜ最初から本音を話そうとしないのか。最後まで強情を張って、私たちを傷つけて……。
それでも、これでひとまず大きな争いにはならずに済むのだろう。私はそっと息をつき、ギルバートを見据えた。
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3.ついに決着——されど残るわだかまり
ギルバートの口から「離縁を受け入れる」という言葉が出たことで、応接室内の空気がやや緩んだ。ただし、それは「和解」などでは決してない。私たちは彼を絶対に許すつもりはない。
父があらためて書類を取り出し、彼の目の前に置く。
「よろしい。では、ここに離縁の合意書を用意した。サインをしろ。すでに諸々の条件も書き加えてある。お前からクレアへの慰謝料の金額、期限、受け取り方法など……」
「慰謝料……そこまで必要ですか? 確かにクレアを傷つけた責任は感じていますが、僕は……」
まだ反抗しようとするギルバートに、父はばさりと書類を突きつけた。
「当たり前だ。お前が何をしてきたか分かっていないのか? 結婚式の費用だって膨大だったし、クレアがこの先受ける心的苦痛を考えれば、もはやこれでも足りんくらいだぞ。……これは正式に算定した金額だ。お前には払う義務がある」
ギルバートは苦虫を噛み潰したような顔で沈黙し、やがてしぶしぶと書類に目を通しはじめる。そこには慰謝料だけでなく、クレアとの今後一切の関わりを断つこと、公爵家やクレア本人への名誉棄損行為をしない旨などが明記されている。
「ふん……。ずいぶん徹底してますね」
彼は苛立たしげにペンを握ったが、父と母、そして私の視線を感じているのか、もう一度ため息をついてペン先を走らせる。ペンを走らせる時間がやけに長く感じられたが、やがて署名欄に大きく名前を書くのを確認すると、私の心は徐々に落ち着きを取り戻していった。
——これで本当に終わりなのだ。
書き終わった紙を父がしっかりと確認し、母も見届ける。彼のサインと家紋の刻印が揃った合意書は、法的にも効力を持つものだ。これを盾にすれば、ギルバートが後から何を言おうと“覆せない”はず。
「では、これにて“合意”という形だな。……クレア、何か言いたいことはあるか?」
父にそう促されて、私は一瞬目を伏せた。ギルバートの姿を改めて見ると、胸が重苦しい。かつて騎士団のエリートとして誠実だと思っていた頃の記憶がチラリと蘇る。でも、もうそんな幻想は打ち砕かれた。
私ははっきりと口を開く。
「あなたが最初に『公爵令嬢としての私』ではなく、ひとりの女性として私を見てくれたと思ったのは、勘違いでした。私はあなたに騙されていたのね。……でももう、十分よ。さようなら、ギルバート」
私がそう言うと、ギルバートは言葉を失ったまま、何も返事をしない。視線を合わせようともせず、苦い顔をしたまま固まっていた。きっと最後の最後まで、自分の利害だけを考えているのだろう。
これが私とギルバートの最後の対面だと思うと、少しばかりの虚しさを感じる。けれど、そこに未練はない。悲しいけれど、私が選んだ道は「もう一度信じる」ではなく「絶対に許さない」だったのだ。
父が言葉を続ける。
「それでは、ギルバート・ウェイン。お前は速やかに公爵家を出て行け。合意書の内容に反して何か行動を起こせば、直ちに裁定所で争うことになる。よく覚えておけ」
ギルバートはわずかに唇を震わせたが、もはやどうすることもできないと悟ったのだろう。彼は椅子から立ち上がり、一礼ともいえないような投げやりな頭の下げ方をして、応接室を出て行った。
その足取りはどこか荒々しく、廊下に出たところで執事に先導されながら足早に屋敷を去っていくのが、扉の隙間から見えた。
扉が閉まり、少ししてから父が重い息をつき、母もふう、と肩を落とした。応接室にいた使用人たちの表情にも安堵の色が広がる。
「これで一応は一段落ね、クレア」
母が私に向かって静かに微笑んだ。私は長い緊張から解放されたせいか、体中の力が一気に抜け、思わずソファに腰を下ろす。
「……はい。終わりましたね」
ギルバートに対する怒りや憎しみはまだ残っている。でも、離縁が成立した今、彼とはもう“他人”だ。私は深呼吸して落ち着きを取り戻そうとする。
——こうして、私たちの“白い結婚”は決着を迎えた。
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4.離縁成立後の混乱
ギルバートが公爵家を去った翌日から、私たちは速やかに離縁を「正式書面」として記録に残すための手続きを進めた。というのも、貴族の離縁には王宮への届出が必要であり、そこで一度審査が行われるからだ。もっとも、当事者同士が合意している場合は、手続き自体はスムーズに進むことが多い。
父は自らの権力と騎士団への影響力を駆使し、瞬く間に必要な書類を整えた。さらに、念には念を入れて、ギルバートが書いたサインや家紋押印入りの離縁合意書を王宮の審議官に直接提示する手はずを整える。そのためにわざわざ王宮まで赴くことになったが、父にとってはさほど苦ではなかったようだ。
「クレア、書類は揃った。今日で離縁の手続きが完了するだろう。安心して待っていなさい」
「……ありがとうございます、父様」
父は私の頭をぽん、と軽く叩き、屋敷を出て行った。
私は客間でその様子を見送りながら、複雑な胸中を抱えていた。自分の結婚がこういう形で終わるなんて、結婚前は夢にも思わなかった。愛し合うはずの夫婦が、わずか数週間で完全に決裂し、離縁に至る——。
けれど、それこそがギルバートの狙いだったのだから仕方ない。私は再びギルバートの裏切りを思い出し、心を暗い感情がかすめるのを感じる。
そんなとき、私の母がやってきて、少し外へ出ないかと誘ってくれた。
「あなた、ずっと屋敷の中にこもっていたでしょう? 天気もいいし、中庭を散歩しましょう」
「……そうですね。気分転換したいです」
母に手を引かれるまま、屋敷の敷地内を歩く。手入れの行き届いた中庭には、初夏の陽射しが降り注ぎ、色とりどりの花が咲き誇っていた。
バラのアーチをくぐり、噴水のある小さな広場へと出る。水面に揺れる光が眩しく、私は目を細めた。幼い頃から見慣れた風景なのに、今はどこか新鮮な気がする。
「クレア」
母が私の肩にそっと手を置く。
「これから先、あなたはまた社交の場に出ることもあるでしょうし、再婚の話も出てくるかもしれないわ。けれど、まずはゆっくりと心を休めて、自分を取り戻すことが大事よ。傷ついたままの心で無理に動き回ると、きっと辛いだけだから」
「……母様」
私が結婚後すぐに戻ってきたことは、当然ながら社交界でも大きな話題になっている。けれど、幸いなことに父と母の手回しのおかげで詳細は伏せられており、「クレアが体調を崩したため、しばらく実家で静養している」という程度の噂が流れているようだ。
もっとも、そのうちギルバートが何かを吹聴すれば、スキャンダルとして広まる可能性は高い。だが、それより先に離縁が確定すれば、私が公爵家で保護される形になる。あまり大事にならないよう、父母が一生懸命動いてくれたのだ。
「……こんな私でよければ、何度でもやり直せるものなんでしょうか」
母の優しさが嬉しくて、しかし同時に不安も大きい。私はぼんやりと噴水を眺めながら呟く。
「当たり前じゃない。あなたはまだ若いし、これからたくさんの出会いがあるわ。第一、あなたは何も悪いことをしていない。悪いのはギルバートなのだから、自分を責める必要はないのよ」
母の言葉に、私はほんの少しだけ笑みを返した。再婚——正直、今は全く考えられない。あんな思いをするなら、二度と結婚なんてしたくないとも思う。だが、母はそれを急かすつもりはないと言ってくれている。
「ありがとう、母様。今はただ、ゆっくり休みたいわ」
そう言ったところで、私の胸に少しだけ希望の光が差し込んでくる。ギルバートの存在に縛られず、これからは自分の意思で人生を歩んでいける。そう思うと、重い鎖から解放されたような気持ちになれるのだ。
私と母は、しばらく噴水の周囲を散歩しながら言葉を交わし、やがて少し疲れた頃合いで再び屋敷へと戻っていった。
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5.ローランド公爵の報告——離縁は成立へ
夕方、父が王宮から戻ってきた。
玄関先で待ち構えていた私と母に向かって、父は穏やかな笑みを浮かべて言う。
「離縁は無事に受理された。クレア、お前はもうギルバートの妻ではない。安心していいぞ」
その言葉に、私は思わず胸を撫で下ろした。正式な手続きを済ませたということは、ギルバートが後になって何をほざこうとも、法的に私は完全に自由だ。もし彼が逆らえば、逆に処罰されるリスクを負う。
母もほっとした様子で父に声をかける。
「ありがとう、あなた。結局、王宮ではどんな感じだったの?」
「ふむ……。ギルバート本人は来ていなかったが、騎士団の上官が一人付き添いで提出に現れた。あれはおそらく、ギルバートが騎士団内部でなんとか事を丸め込もうとしているのだろう。だが、公爵家の離縁に異議を挟む余地はなかったよ。私が手紙の存在などをちらつかせたら、一瞬で黙り込んだからな」
父は少し皮肉げに笑ってみせた。あの手紙、リリアンが書いた裏切りの証拠は、ギルバートにとって致命的だったのだろう。裁定所に持ち込まれでもしたら、騎士団人生が終わるだけでなく、王宮での信用も失墜しかねない。
「それに、王家としても公爵家との対立なんて避けたいだろうからな。あれ以上ゴタつけば、ギルバート側がどれほど騎士団で実績を積んでいようと即座に切り捨てられるのは目に見えている。……まあ、貴様らの嘘がそれほどあっさり暴かれたことだ」
父の言葉に、私は胸の奥で小さく自嘲する。ギルバートをそこまで追い込んだのは、私が抱えた傷の深さの裏返しでもある。
しかし、これで本当にすべてが終わりだ。私は頭を下げて父に礼を言う。
「父様、本当にありがとうございました。……私のために、こんなにも動いてくださって……」
「馬鹿を言うな。お前は私たちの娘だ。守るのは当然のことだろう」
父の優しい言葉に、私は自然と涙があふれてきた。悔しい涙や悲しい涙ではなく、安堵と感謝の涙。私は母の肩に顔を埋めて、しばらく声を殺して泣いた。
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6.ギルバートを待ち受ける破滅の兆し
離縁が成立して数日が経った頃、父の耳にある噂が飛び込んできた。なんでも、ギルバートとリリアンの関係が騎士団内部でさらに問題視されているというのだ。
ギルバートは私との結婚生活を続けながらリリアンとの逢瀬を重ねていたわけだが、それを隠すために騎士団の書類を改竄したとか、当直勤務を勝手に変えてもらうよう上司に賄賂を渡したとか、そういった小悪事が次々に露呈しているらしい。
こうなると、騎士団での彼の立場は危うい。いくら公爵家との離縁が済んだといっても、「あのギルバートは公爵家の令嬢を裏切り、騎士団の規則を踏みにじった男」としての悪評が着実に広まっていく。
事実、父の知人である高位騎士の話では、「ギルバートの昇進話はすべて白紙。むしろ地方へ左遷される可能性もある」という噂が飛び交っているとのこと。
——私がそれを耳にしたとき、正直言って多少の“ざまあみろ”という感情が湧かなかったといえば嘘になる。
もちろん、私の本心は「彼に思い知らせてやりたい」だった。自分の裏切りがどれほどの代償を伴うか、身をもって理解すればいい。だからこそ、私は彼に対して一切の同情もしない。
母は私にその噂を伝えてくれた後、「あまり気にしなくていいのよ。あなたは何も悪くないんだから」と言った。たとえ彼がどう転落しようと、それは自業自得だ。私には関係のないこと。
その翌週、さらに別の知らせが届いた。リリアンがギルバートを見限ったというのだ。どうやら、ギルバートが騎士団での出世を望めない立場になったとわかるや否や、彼女はさっさと逃げたらしい。
「……結局、裏切り者同士の愛なんてこんなものよね」
私はその話を聞いて、呆れにも似た感情を抱く。互いに利害や欲望で繋がっていただけの関係なのだろう。ギルバートもリリアンも、最後には何も得られなかったというわけだ。
噂によれば、ギルバートは人事異動で地方の僻地へ飛ばされる可能性が高く、しかもそこは治安が悪く過酷な土地らしい。王都で私を裏切って得たものが、一体何だったのか——今頃になって後悔しているかもしれないけれど、私にとってはもはや関係のない話だ。
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7.新たな始まりを信じて
離縁が成立したあと、私はローランド公爵家の邸でゆったりとした日々を過ごしていた。
最初はまだ心の整理がつかず、ギルバートとの結婚生活を思い出して落ち込むことも多かった。何かをしようと手に取っても集中できず、うっかり物を落としてしまうこともある。でも、父や母、そして使用人たちは温かく私を見守ってくれる。
「クレア様、今日はいかがなさいますか? お庭でティータイムをなさるのも良いかと……」
「それとも、少し読書のお手伝いをいたしましょうか?」
皆が私を気遣ってくれる。その優しさがありがたい反面、申し訳なさも感じる。けれど、母が「あなたは何も悪くないんだから、遠慮なく甘えなさい」と言ってくれたので、私は素直に「うん」と頷いた。
気づけばもう、あの“白い結婚”から幾分か日が経っている。離婚したという事実は重いが、それで人生が終わるわけではないのだ。
王都では、相変わらず私の“体調不良”説が続いているらしい。正式な離縁手続きが終わったにもかかわらず、世間にはほとんど情報が流れていないという。これは、父と母、そして王宮の意向によるものだ。ギルバートとの対立が大きなスキャンダルとなって国中を混乱させることは、王家としても望ましくないらしい。
もっとも、騎士団の一部にはすでに真相が知れ渡っているはずだが、そちらから大きく話が外に漏れることはない。公爵家を敵に回すリスクを考えれば当然だろう。
私は屋敷の図書室で何冊か本を借り、客間に戻った。久しぶりにゆっくり読書するつもりだ。外は気持ちの良い天候だが、まだ外出する気分にはなれない。でも、こうやって本に集中していると、すこしずつ心が落ち着いてくる。
以前は、いつか自分もギルバートと一緒に「王国に貢献する夫婦」になれると信じていた。それが無残に砕け散った今、私には新しい夢や目標を見つける必要がある。家で静養しつつ、次に歩むべき道を考えてみよう——そう思っていた矢先、母がニコニコしながら部屋に入ってきた。
「クレア、いいお茶菓子をいただいたの。使用人が用意してくれたから一緒に食べましょう」
母の朗らかな声に、私まで少しだけ気分が明るくなる。
「ありがとう、母様。じゃあ、ちょっと息抜きに……」
そう答えて立ち上がると、ふわりとカーテンの隙間から優しい風が吹き込んできた。遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。
私はそのささやかな温もりを感じながら、母とお茶菓子を味わう。
心の痛みは、まだ完全には消えていない。ギルバートの裏切りで負った傷は深く、当分は癒えないだろう。けれど、こうして穏やかに過ごしているうちに、少しずつ前を向ける気がしていた。
「私の人生は、これからなんだから……」
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8.終焉と始まりを告げる鐘の音
それからほどなくして、決定的な報せが届く。
ギルバート・ウェインが、地方への左遷を言い渡された——という知らせだった。地方といっても「辺境の小さな島」だという。国境付近の海上要塞を管理する厳しい場所で、騎士の中でも“罰”のように送られるケースが多いという。
その島は治安が悪く、生活環境も苛酷で、本人の希望がない限りまず行くことはない僻地中の僻地。ギルバートの上官が決定を下したらしく、当人は大いに反発したものの、すでに彼を庇ってくれる人物はほとんど残っていないらしい。結局、数日の猶予もなく島へ向かうしかなくなったという。
噂ではリリアンと手を携えて行く可能性があるとも囁かれていたが、どうやらリリアンは王都に居ついてしまい、ギルバートを見限ったという話が濃厚だ。
「……まあ、当然の結果でしょうね」
私がその報せを知ったのは、父が騎士団の高位騎士から直接聞いてきたからだ。父は私の顔色を窺いながら言う。
「クレア、お前はどう思う? ギルバートが辺境に飛ばされることについて……」
どう思う、と言われても、特に何も感じない。彼を罵りたい気持ちもないし、哀れむつもりもない。彼が選んだ道の結末であり、自業自得なのだ。
だから私は、正直に言葉を返す。
「……そうですか。いずれこうなったとは思いますが、もう私には関係のない人です。ただ、あの人がどこへ行こうと、何をしようと、私の知ったことではありません」
すると父は小さく頷いた。
「そうだな。それでいい。お前が振り回される必要はない。……これで本当に、ギルバートの行いは報いを受けることになるだろう」
そして数日後、ギルバートは王都を出発したらしい。船でしか行けない、孤島の要塞。そこは騎士団の中でも“左遷”の代名詞と言われる場所で、早々に逃げ出す者が多いとも聞く。
私は、最初にその話を聞いたとき、ほんの少しだけ胸が痛んだ。悪人だとはいえ、かつては私の“夫”だった人間だから。でもすぐにその胸の痛みは消え、「彼の末路がどうなろうと、もう関係ない」と思い直す。
父や母も、これ以上ギルバートの話題を口にしなくなった。私が平穏を取り戻すよう、気遣ってくれているのだろう。
だが、その後間もなく届いた報せは、さらに衝撃的だった。ギルバートが行方不明になった——という。
「何でも、島での任務中に姿を消したらしい。海の荒れた夜だったから、船で脱走しようとしたのではないかと噂されているが……」
父からそう聞いたとき、私は愕然とした。けれど、不思議と動揺はしなかった。あの男ならやりかねないし、何かトラブルに巻き込まれたところで、もう私が責任を感じることはない。
「……そうですか。何があったのかは知りませんが、もし助からなかったとしても、自分で招いた結果でしょう」
まるで他人事のように答える私に、父も深く頷く。私が冷たいと思われても仕方ないが、あれだけ私を傷つけた男だ。今さら同情はしないし、まして救いの手を伸ばそうなどとは思わない。
こうして、ギルバート・ウェインの存在は私の人生から完全に消え去った。
私の「白い結婚」は、最悪な形で終わりを迎えたが、その後始末まで含めて、ある意味では“決着”と言えるだろう。
---
9.エピローグ——未来へ向かう一歩
私が離縁してから、ひと月ほどが経過した。
王都の空は澄み渡り、爽やかな風が吹き抜けていく。季節が少しずつ変わっているのを肌で感じながら、私はバルコニーに立っていた。公爵家の屋敷のバルコニーから見下ろす庭は、日に日に緑が深くなり、美しい花々が彩りを添えている。
——私はこれから、どう生きていけばいいのだろう。
幸せになるはずだった結婚が崩れ去り、夫という存在を失った今、正直言って目標を見失っている。けれど、私はまだ若く、これからの人生は長い。すぐに再婚という話にはならなくても、いつか心を通わせられる人と出会うかもしれない。
父と母が「ゆっくり考えればいい」と言ってくれたように、私は少し休みながら、自分の道を探してみようと思う。騎士団の支援活動をしてみるのもいいし、貴族の子女の教育に関わってみるのもいいかもしれない。公爵家の娘としてできることは、まだまだあるはずだ。
手元には、かつてギルバートとの結婚を記念して作った指輪がある。あれはもう私にとって、何の意味も持たない装飾品だ。先日まで部屋の片隅に放置していたが、今日はそれを手に取り、じっと眺める。純白の宝石がはめ込まれた指輪……。
思い出したくない記憶も蘇るが、あの結婚式の日に感じた幸福もまた事実。私はあのとき確かに夢を見ていた。
——けれどもう、その夢は終わった。
私はバルコニーの手すり越しに指輪を見つめ、そっと瞳を閉じる。そして、指輪をふわりと放り投げた……わけではなく、掌の中にぎゅっと握りしめた。
「……もう、縛られるのはやめましょう」
そう小さく呟く。ギルバートとの結婚を象徴するものを捨てるのか、あるいは宝石を売り払うのか、まだ決めていないけれど、この指輪に心を縛られる必要はない。いつでも手放せる。もう、悲しみでいっぱいの私ではないのだから。
すると、バルコニーの扉が開き、母が顔を出した。
「クレア、ここにいたのね。……ほら、今からティータイムにしましょう。あなたの好きなお茶が手に入ったのよ」
母の微笑みに、私は自然と笑みを返す。
「……行きます、母様。今行きますわ」
指輪をポケットに仕舞い込むと、私は母と共にバルコニーを後にした。
今日もきっと、穏やかな時間が流れるだろう。この先いつか、新しい夢や希望に巡り会うかもしれない。結婚に失敗したといって、人生すべてが否定されるわけではないのだから。
“白い結婚ざまあ”という皮肉な形で人生の一幕を終えた私だが、これからは自分の足で歩いていこう。
そう心に決めながら、私は母のあとを追って屋敷の廊下を進む。遠くから、小鳥のさえずりが聞こえた。まるで、新しい季節の訪れを告げるかのように——。
第3章:交わされる偽りの弁明、そして決裂
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