『白い結婚でしたわよね? では私は自由をいただきます』

鍛高譚

文字の大きさ
1 / 22

1話

しおりを挟む
「――レラ、あなたまた本など読んでいるの? いい加減、もっと女らしいことをお覚えなさいな」

母の鋭い声が、朝の涼やかな空気を切り裂くように響いた。広々としたグランメリー伯爵家の庭先で、私は控えめに本を閉じる。湿った朝露の匂いが、わずかに私の心を落ち着けてくれた。
私は伯爵家の三女、レラ・グランメリー。幼い頃から、家のなかでは何かと「地味」「存在感がない」「役に立たない」と評されてきた。両親や兄姉からの期待は兄たちが一手に引き受け、私はいわば“いるのかいないのかわからない存在”として扱われることが多かったのだ。
本が好きだという理由だけで、母はことあるごとに眉をひそめ、私に説教をする。夫人としての嗜みよりも、学問じみた書物ばかり手に取るから面白くないのだろう。
それでも私が小さく謝罪を口にすると、母はあきれ混じりの溜息をつき、つっけんどんな態度で踵を返した。

「あなたに訪れる縁談なんて、高が知れているのに……。仕方ありませんわね。せいぜい家の恥だけはかかないようになさい」

私は一言も返せず、ただ目を伏せる。実際、私も自分に対する大きな期待など抱いてはいない。
そもそも、これまで私が出席したお茶会や夜会はごくわずか。伯爵家の三女ともなれば、それなりに紹介の場はあったはずなのに、親が私にそういった機会を多く与えてくれたことはほとんどなかった。
私自身も目立つことは苦手だから、「社交界に出るより、一人で読書していたい」という気持ちが強く、そうした場に参加を望んだこともあまりない。結果として、私は“婚期を逃す無用の娘”という扱いを、家族からも侍女たちからも受けている。


だが、そんな静かな日常は――この朝で幕を閉じた。
母と入れ替わるようにして、私の近くに足早に寄ってきた侍女頭のリコが、不安そうに口を開く。

「お嬢様……、旦那様が至急、応接室に来るようにとお呼びです」
「父が、私を……? 何か失礼でもしたかしら」

私の頭に浮かぶのは、いつもの小言や嫌味がさらに激化したのではないか、という嫌な予感ばかり。
けれどリコの表情はどこか深刻そうで、普段の“ただ呼んでいます”という程度ではなさそうだ。私はその雰囲気に押され、慌てて本を抱えたまま立ち上がった。

「……わかったわ。すぐに行く」

気だるい不安を抱えつつ、私はやや駆け足で玄関ホールを横切り、応接室へ向かう。高価な絨毯が敷き詰められた伯爵家の廊下は、いつもどこか冷たい。
扉の前で大きく息を吐いてからノックをし、中に入ると――

「お父様、失礼いたします……」

声に出してから、私は思わず息を呑んだ。そこには父、グランメリー伯爵だけでなく、きちんとした身なりをした初老の男性が座っていた。父の秘書――ではない。
その男性は私を見るなり、まるで値踏みするように視線を上から下へと這わせる。
嫌な圧迫感を覚えながら、私は父の横に立つ。すると父は短く息をついた。

「レラ、お前に縁談が来た」
「……はい?」

声にならない声が出た。
私に縁談など……と半ば驚き、半ば呆然としていると、父は続ける。

「こちらはアルフェイン侯爵家の執事長を務める、ユーズ殿だ」
「アルフェイン侯爵家……と仰いますと、国内でも由緒正しき大侯爵家の……」

私は聞き返しながら、さらに混乱を深める。父が誇らしげに胸を張るのも無理はない。アルフェイン侯爵家は王国の重鎮で、どの公爵家や侯爵家よりも権勢があることで知られている。そして、その嫡男ともなれば、私のような地味な伯爵令嬢に興味を示す理由など皆無に思えるのだが……。
すると執事長と呼ばれたユーズが、落ち着いた低い声で言った。

「はい。若様――ジル・アルフェイン様の婚約者候補として、レラ様をお迎えしたく、私がお話をお持ちした次第でございます」
「こうしてわざわざ訪ねていただいたのだ。大変な名誉だぞ、レラ」

父は顔を綻ばせている。一方で私は、彼らの言葉にまだ頭が追いつかない。
ジル・アルフェイン侯爵家嫡男――社交界ではその名を聞かない日はないほどの名家の御曹司だ。優秀で、貴族としての品格も申し分なく、容姿にも恵まれている……らしい。もっとも私は実際にお会いしたこともなかったし、噂でしか知らない。
なのに、どうして私? 私よりももっと華やかな令嬢はいくらでもいるだろうに……。
そんな私の疑問を察したのか、ユーズ執事長は静かな視線を向けてから口を開く。

「……お分かりかとは思いますが、今回の縁談は半ば政略的なものでございます。ですが、この縁組はグランメリー伯爵家とアルフェイン侯爵家との間で、互いの利害が一致するという背景があるのです」

なるほど。政治的背景か。私などという地味な娘が候補に挙げられるほど、何か都合がいい事情があるのだろう。
父は得意顔で頷く。私を見下げてきたくせに、こういうときだけ手のひらを返したように大喜びするのだから、正直、複雑な気分だ。

「レラ、お前も分かっているとは思うが、伯爵家といえど今の我が家の財政は安泰ではない。このご時世、上位貴族とのつながりは何より重要なのだ。……断る理由はないだろう?」
「……はい」

断れるわけがないのは自明だ。どれだけ私が嫌がろうと、そもそも私に決定権などほとんどない。アルフェイン侯爵家――それも国内屈指の家柄との縁談というだけで、私の家族は有頂天になるしかないのだから。
とはいえ、私自身も今さら結婚に夢を抱いているわけではない。家のためなら――と諦めにも似た思いで、静かに胸の奥を落ち着ける。
しかし、私の頭にはさらなる疑問が芽生えていた。いくら家の都合があろうと、ジル・アルフェインほどの大貴族が、わざわざ私を選ぶ理由は何なのだろう。向こうにとっても、もっと他の華やかな娘と縁組を結ぶほうがメリットが大きいはずだ。
ユーズは、そんな私の顔色を読んだかのように言葉を続ける。

「もちろん、若様のお心にもいろいろなお考えがおありでしょう。ただ、ジル様は『控えめな性格で、波風を立てることのない方と結婚したい』と仰られておりました。レラ様の噂を少し耳にして、どうやら“ご家庭の中でお静かにされている”と……」
「ああ、なるほど……」

私は思わず納得してしまった。つまり、ジル・アルフェインという人は、自分勝手に好きなことを楽しみたいがゆえに、政略結婚の相手は大人しく目立たない娘がいい――そう考えたのだろう。
まさに私の“地味”という評判が功を奏した、というわけだ。私からすれば、そんな寂しい理由での縁談なんて喜べるわけもないが、政略結婚とはそういうものかもしれない。

「レラ、もちろんこれで決まりだ。日を改めてアルフェイン侯爵家へご挨拶に伺うから、それまでに最低限の準備をしておくように」

父は満足げに言い放った。私は深く頭を下げる。
こうして、私の結婚はあっけなく決まってしまった――。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】恋は、終わったのです

楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。 今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。 『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』 身長を追い越してしまった時からだろうか。  それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。 あるいは――あの子に出会った時からだろうか。 ――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

あなたへの恋心を消し去りました

恋愛
 私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。  私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。  だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。  今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。  彼は心は自由でいたい言っていた。  その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。  友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。  だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。 ※このお話はハッピーエンドではありません。 ※短いお話でサクサクと進めたいと思います。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

彼女の離縁とその波紋

豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。 ※子どもに関するセンシティブな内容があります。

処理中です...