『白い結婚でしたわよね? では私は自由をいただきます』

鍛高譚

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4話

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翌朝、私がまだ少し寝不足の頭で朝食の席に着くと、父が厳かな声で切り出した。

「レラ、今日の午後、あちらから正式な使者がもう一人いらっしゃる。ジル様の幼馴染みである方が、結婚前のご挨拶をしたいそうだ」
「ジル様の幼馴染み……?」

いったいどんな方なのだろう。私としては会う理由がイマイチわからないが、伯爵家も突然の申し出を断るわけにはいかないらしい。
母は「ドレスをどうしよう」と大騒ぎしている。私はそこまで気を遣わなくても、と思いつつも、彼らにとってはアルフェイン侯爵家との関係を円滑にするため、少しでも好印象を与えたいのだろう。
すると、隣に座っていた長姉がひそひそ声で私に話しかける。

「ねぇ、レラ。ジル様には愛人がいるって噂、知ってる?」
「え……」

長姉の口調は含みのある楽しそうなもので、私を茶化しているようにも聞こえる。
愛人――上流貴族ならば、さして珍しい話ではない。むしろほとんどの貴族が愛人を囲ったりする慣習がある。特に女性関係が華やかな男性の場合は、婚前から特定の恋人がいることも少なくない。
私はフォークを持つ手を止め、長姉に向き直った。

「それは確かなのかしら?」
「さあ? 噂っていうのは大げさに広まるものだから、真偽はわからないわよ。ただ、お相手は男爵家出身のリディアっていう令嬢で、これがなかなかのやり手なのですって。ジル様と昔から親しいらしいわ」

リディア――どこかで名前を聞いたことがあるような、ないような……。
ただ、もしジル様がその女性を大切に思っているなら、私との政略結婚なんて形だけだというのは、ますます間違いないだろう。
そしてこの結婚後、ジル様は遠慮なくリディアという愛人を公にも扱うかもしれない。そもそも、彼の側近や侍女たちが認める形で“正妻はいるが、実質はこちらが本命”という構図ができあがることだって珍しくはない。
私はそれを想像し、嫌悪感よりも「やっぱりそういうことか」と妙に納得した。

「へえ、そう……。別に構わないわ。私には関係のないことだし。彼が誰を愛そうと、私は干渉する気はないから」
「ふふん。私だったら絶対に嫌だけど、あなたみたいに感情のない妹にはちょうどいい相手かもね」

長姉は嘲笑を含んだ目で私を見下す。私は言い返す気も起きず、ただ黙って朝食を続けた。
まあいい。どうせ数ヶ月もすれば、私はアルフェイン侯爵家で暮らし始めることになるだろう。それまでの間、できるだけ気苦労は避けたい。
私は昼食後、来客に備えてドレスを着替えさせられる。淡いクリーム色のシルクドレスは母が「これしかないの?」と呆れていたものだが、私としては地味めで落ち着くし、十分だと思う。
そして玄関ホールで待たされること約十分。夕方近くになって、ようやく客人が到着した。
迎えたのは若い女性――と思いきや、意外にも私とそう年齢が変わらないくらいの男性だった。優雅にコートを脱いで渡す仕草が、ただ者ではない気品を漂わせる。
私は少し驚きつつ、一礼して挨拶をした。

「はじめまして。グランメリー伯爵家三女、レラ・グランメリーと申します」
「これはご丁寧に。僕はラン・ヴァイゼンといいます。ジルの幼馴染みといっても、血縁関係があるわけではないのですが……」

ラン・ヴァイゼン――聞いたことのない家名だ。いや、もしかすると分家や養子などいろいろな事情があるのかもしれない。
彼は落ち着いた微笑みを浮かべる。薄い金髪に柔らかな茶の瞳、物腰が柔らかく、どこか子どものようなあどけなさも感じられる容貌だ。

「急に押しかけてしまって申し訳ない。ただ、ジルから“嫁になる方と話をしておいてほしい”と頼まれましてね」
「ジル様が……? 私に何かご用件があるのでしょうか」

私が首をかしげると、ランは軽く肩をすくめて困ったように笑う。

「ジル自身が直接ここへ来てもよかったのだけれど、正直言って、今はあまり余裕がないらしい。……というのも、彼は近ごろ自分の周りにあるゴタゴタに手を焼いているからね」

その瞬間、私の頭をよぎったのは、朝に長姉から聞いた“愛人の噂”だ。もしかすると、その女性との関係が波乱を起こしているのかもしれない。
思わず黙り込む私に、ランは微笑みかけると、少し声を潜めて言った。

「もちろん、詳しくは話せないよ。僕が今日ここに来たのは、レラ嬢の人となりをそれとなく見ておいて、ジルに伝えるためでもある。まあ、堅苦しいものじゃないから、気楽にね」
「は、はあ……」

気楽にと言われても、相手はアルフェイン侯爵家の嫡男の幼馴染み。私としては気が抜けるわけもない。
しかしランは、父や母たちが控えているのを見て、「もし許されるなら、お庭を散策しながらお話ししたいのですが」と提案した。
伯爵家の敷地内はさほど広くはないが、小道の両脇に花壇があり、夕刻の陽射しが優しく照らしていて散歩には悪くない。両親も特に反対しなかったので、私たちは二人で外へ出た。

「ここがグランメリー家のバラ園……と呼ぶには少し控えめだけれど、良い香りがしますね」

ランはバラのつぼみを愛でながら、小さく息を吐く。季節柄、満開というほどではないが、可憐な蕾がいくつも揺れている。

「……私が手入れをしているわけではないんですけど、庭師の方が丹念に育ててくださっているおかげです」
「レラ嬢は、普段は何をして過ごしているの? もちろん、ジルから多少の噂は耳にしているけれど、どんな本を読んでいるのかな、とか興味があるんだ」

愛想のいい微笑みでそう言われて、私は少し困惑する。ほとんどの貴族男性――特に若い方は、女性の趣味や知的な関心には興味を示さないものだ。
私は少し警戒しつつも、軽く言葉を返す。

「そうですね……歴史書や魔法書、あとは物語も少し。いろいろと読んでいますが、特別に精通しているわけでもありません」
「謙遜する必要はないよ。ジルも言っていたけど、レラ嬢は家の中でずいぶん大人しくしていて、あまり社交界にも出たがらないとか。でも学問に熱心だという話を、どこかから耳にしたことがあるそうだ」

学問に熱心――そんなに大層なことではない。私が本を読んでいるのは、社交よりはるかに気楽で、世界が広がって面白いからだ。でも人前で誇るほどのことでもない。
私は曖昧に微笑み、話題を避けるように先を促す。

「それで、ラン様はジル様の幼馴染みということですが……。お二人はどんなご関係なのですか?」
「簡単に言うと、ジルのお父上が僕の実家を援助してくださった縁で、ジルと同じ家庭教師のもとで勉強させてもらったんだ。だから歳も近いし、兄弟みたいに育ったようなものかな」

兄弟のように――というわりに、ランの物腰は穏やかで、どこか優しげだ。それがかえって不思議に感じられる。ジルという人は、もっと硬派で格式張ったイメージがあるからだ。
そんな私の心中に気づいたのか、ランは苦笑気味に言う。

「ジルは少し不器用な男だから、誤解されやすいことも多いんだ。……だから、こうして僕が先に挨拶にきて、“彼はレラ嬢に悪感情はないし、むしろ感謝している”って伝えたくてね」
「感謝……ですか?」

私が訊ね返すと、ランは「うん」と頷いた。

「ジルはどうしても家のしがらみから“正妻”を迎えなくちゃいけない立場にある。でも、彼は好きに生きたい人だから、できるだけ束縛のない結婚相手がいい。そういう意味で、レラ嬢が自分に干渉しないタイプだと聞いて、正直ほっとしているみたいだよ」

――なるほど。やはり私の存在は“都合がいい”相手でしかない。悪感情はなくても、愛情などあるわけがない。
それでも、ランの口調にはどこか真剣味があった。彼なりに、私に対して配慮してくれているのかもしれない。
私は足元の小道を見ながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「……わかりました。お伝えいただきありがとうございます。ジル様にとっても、私は邪魔しない妻となりますので、ご心配なく」
「……うん。そう言ってもらえるなら、ジルも安心すると思う。君が望む形で、この縁談が落ち着くのが一番だからね」

そう言いつつ、ランは遠くの空を仰ぎ、夕陽に目を細めた。

「ただ……僕がここで言えるのはこれくらいかな。ジルもいろいろと葛藤している。君のことを“利用”しようとしているわけじゃない、というのは僕からも保証するよ」
「そう……なんですか」

それは本当だろうか――。彼にとっては利用するも何も、邪魔だけはしない妻であればいいのだと私は思うが、わざわざランが言うのだから、一応は気遣ってくれているのかもしれない。
そういえば、先ほど“彼は自分の周りのゴタゴタに手を焼いている”と言っていた。もしそれが愛人絡みのトラブルなら、私には関係のない話だ。今後、そのことに巻き込まれないよう祈るばかりだ。

その後、私とランは10分ほど何気ない話を続け、彼は「今日はこれで失礼します」と言って帰っていった。
父や母は、ランとの会話が終わったあとも私に詳細を聞きたがったが、私は当たり障りのない答えしか返さなかった。アルフェイン侯爵家の内情に深入りしても、いいことなどないからだ。


それから数日後、私のもとにアルフェイン侯爵家で催される大きな夜会への招待状が届いた。婚約者として公式にお披露目するための会らしい。私はそれに出席することを半ば強制され、母や姉たちからは「恥をかかないように」とくどくど言われる。
そうして、あれよあれよという間に準備は進み、ついに“ジル・アルフェイン”という名の男性と初めて顔を合わせる日がやってきた――。
けれども、その日はまだ少し先。私の静かな日常は、婚礼準備という喧騒に塗りつぶされながら、それでも冷えた安堵感のなか、ひっそりと過ぎていく。
私は、自分の未来を正面から見つめることもなく、ただ流されるように、伯爵家での最後の日々を過ごす。
――“白い結婚”に同意したことで、私の運命は大きく動き出しているとも知らずに。
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