妹に婚約者を奪われたので差し上げました。ですが、檻に入ったのはあの子のほうでした

鍛高譚

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第三十話 崩れる飾り棚

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第三十話 崩れる飾り棚

 セレナがレーヴェン公爵家で伯爵家からの手紙を静かに受け止めていたその頃、フォルディア伯爵家では、もはや“見て見ぬふり”で支えられていた部分から順に、はっきりと音を立てて崩れ始めていた。

 それは夕刻のことだった。

 西日の残る応接間で、継母イザベルは珍しく自ら客を迎えていた。相手は常日頃から親しくしている子爵夫人と、その姪にあたる若い令嬢である。本来なら、夜会の翌日にこうした私的な訪問を受けるのはやや無理があった。だが、伯爵家側から断りの手紙を出す段取りも遅れ、相手方は予定通りの軽い茶会だと思って訪れてしまったのだ。

 セレナがいれば、最初からそうはならなかっただろう。

 前日の夜会の空気を読んで早朝のうちに断りを入れるか、少なくとも“簡素なお茶だけ”に整え、余計な話題が広がらないよう座席も茶器も人選も整えたはずだ。

 けれど今の伯爵家には、それを当然のように先回りしてやる人間がいない。

「まあ、夜会の翌日にお邪魔してしまってごめんなさいね」

 子爵夫人はにこやかに笑いながら扇を揺らした。

「でも昨夜は少し慌ただしかったでしょう? ちゃんとご挨拶もできなかったから」

 その“慌ただしかった”という言い方に、イザベルの背中がこわばる。

 子爵夫人はまだ、好奇心を上品な薄布で包んでいる段階だ。むき出しではない。けれど、包んでいるということは、中身があるということでもある。

「ええ……少し、立て込んでしまって」

 継母は精一杯穏やかな微笑みを作った。だが、いつもの余裕ある社交の笑顔とはまるで違う。どこか頬が引きつり、目元にも落ち着きがない。

 本来なら、この時点でもう駄目だった。

 相手に“何かありました”と伝えてしまっているからだ。

 しかも茶を運んできた侍女の手元がわずかに震えたのを、子爵夫人は見逃さなかったらしい。何でもないふうを装いながら、視線だけが部屋の隅々をなめるように動いている。

「セレナ様はご一緒ではないの?」

 その一言で、空気がさらに重くなる。

 イザベルは扇を握る指に力を込めた。

「ええ、その……少し、静養に」

「あら」

 子爵夫人の目が細くなる。

「では本当に、昨夜はいろいろおありだったのね」

 言い切りではない。問いでもない。
 “もう皆うすうす知っているのよ”と暗に告げる声だった。

 継母は喉の奥で言葉を探す。けれど、こういう場でどんな言葉を置けばよいかを、これまで考えてきたのはいつもセレナのほうだった。イザベルはただ、整えられた場で笑っていればよかった。

 その“整える手”がなくなった今、彼女はようやく自分が何も持っていなかったことに気づかされている。

「大したことでは……」

 絞り出したその言葉の薄さを、本人が一番分かっているらしい。声がひどく弱かった。

 子爵夫人の姪はまだ若く、さすがに露骨なことは言わない。だが、その目には隠しきれない興味があった。伯爵家長女の婚約破棄、義妹の涙、侯爵家令息の公然たる宣言。年若い令嬢にとって、これほど分かりやすく刺激的な話もないだろう。

「それにしても」

 子爵夫人は紅茶の香りを確かめるようにカップを持ち上げながら言った。

「レーヴェン公爵家においでになったという話も、もう耳に入っておりますのよ」

 継母の顔色が変わる。

 早い。
 いや、当然なのかもしれない。あの公爵家の馬車が伯爵家へ来て、長女を乗せて出ていったのだ。見ていた者はいくらでもいる。

「静養とおっしゃるには、ずいぶん立派なお迎えですこと」

 柔らかな声。
 だが、笑って聞き流せる種類の言葉ではなかった。

「お、おほほ……公爵夫人様が親切にしてくださって」

 イザベルの返しは、あまりに弱い。

 それを聞いた瞬間、子爵夫人の中で何かが固まったようだった。なるほど、伯爵家はもう主導権を失っているのだ、と。

 もしセレナがいたなら、この場は違っただろう。
 継母の曖昧な言葉を、すぐ横から自然に補い、余計な想像を許さない形へ整えたはずだ。

 だが今は、それがない。

 子爵夫人は穏やかな微笑みのまま、次の一手を選ぶ。

「それはありがたいことね。セレナ様はいつもご立派でしたもの。お疲れもあったのでしょう」

 持ち上げる。
 だがその持ち上げ方が、今のイザベルには刃になる。

 継母は曖昧に頷くしかない。

「そう……ですわね」

「本当に、あの方は何でもよくお出来になったでしょう?」

 子爵夫人はわざとらしく感心したように続けた。

「夜会の座席も、返礼も、贈り物の選び方も、どれもいつも行き届いていて。昨夜も、途中まではさすがだと思っておりましたのよ」

 途中までは。

 その言い方に、イザベルの頬がかすかに引きつる。

 あなた方の家は途中から崩れましたね、と言外に言われているのだ。

「……今後も、きっと何とか」

 そう口にしてから、継母は自分で自分の言葉の空虚さに気づいたようだった。何とか、の中身がまるでない。何を、誰が、どうやって。そこが全部抜け落ちている。

 そして、その抜けを埋めていたのが長女だったという事実も、今この場ではっきり露わになっていた。

 ちょうどその時だった。

 応接間の扉の外で、何かが落ちる音がした。

 続いて、侍女の短い悲鳴。

 室内の全員がはっとそちらを見る。

 イザベルは青ざめた。
 子爵夫人は扇を止めた。
 若い令嬢は目を大きくする。

 次の瞬間、扉が勢いよく開いた。

 そこに立っていたのは、ミレイユだった。

 髪は整っている。服も着替えている。だがその顔には、朝から燻っていた苛立ちと焦りがむき出しで残っていた。

「お母様」

 部屋の中に客がいることは分かっていたはずだ。
 それでも彼女は構わず入ってくる。

「どうして私のところへ、新しいドレスが届いていないの?」

 子爵夫人とその姪の前で、である。

 イザベルの顔から血の気が引く。

「ミレイユ!」

 だが義妹は止まらない。

「もうすぐ次の社交があるのよ? こんな時こそ、ちゃんとしたものを用意しないと笑われるでしょう!」

 その言葉に、子爵夫人の眉がわずかに動く。

 今この伯爵家で“笑われる”ことを一番恐れているのは、どうやら義妹本人らしい。だが、その焦りの見せ方があまりにも愚かだった。

「お客様がいらっしゃる前よ!」

 継母がようやく声を荒げる。

 ミレイユはそこで初めて、部屋の中の他人へ視線を向けた。
 だが恥じらいはない。
 むしろ、“見られている”と分かった瞬間に顔が引き締まった。

 いつものように、可哀想な妹の仮面を被ろうとしたのだろう。

 けれど、もう遅い。

 怒鳴り込んできた姿を見られてしまったあとでは、どれほど目を潤ませても滑稽さが先に立つ。

「あら……」

 ミレイユはとってつけたように言った。

「失礼いたしましたわ。少し、急ぎの用がありましたの」

 その変わり身を見て、子爵夫人の姪が思わず目を伏せる。笑いをこらえたのかもしれない。

 子爵夫人だけは、にこやかなままだった。

「お気になさらずに。若い方はお支度も大変ですものね」

 優しいようでいて、完全に上からの言い方だった。

 ミレイユもそれは分かったらしい。頬がかっと赤くなる。

「ええ、そうですわ。いろいろと、整えなければなりませんもの」

 その“整える”という言葉が、妙に空々しく響く。

 今の伯爵家で、整えることのできる人間はもう一人減ったばかりだ。

「でしたら、なおのこと」

 子爵夫人は茶器を置きながら言った。

「落ち着いていらしたほうがよろしくてよ」

 ミレイユの唇が歪む。

 言い返したい。
 だが相手は子爵夫人だ。
 しかも今の自分は、伯爵家の中でさえ不安定な立場にいる。

 そこでようやく、彼女は沈黙するしかなくなった。

 イザベルはその隙に立ち上がり、無理やり娘の腕を取る。

「少しこちらへいらっしゃい」

「お母様、離して」

「いいから」

 二人が応接間を出ていく。

 残された空気は、ひどく気まずかった。

 イザベルが戻ってきた時には、頬の色が完全に失われていた。子爵夫人は何事もなかったように茶を飲んでいたが、もうこの茶会が終わったも同然なのは誰の目にも明らかだった。

「……今日は少し、お疲れのようね」

 子爵夫人は立ち上がりながら言う。

「また改めてお伺いするわ」

 それは社交辞令に見えて、実際には“今日はもう十分見せていただいた”という意味だった。

 イザベルは立ち上がって見送る。足元が少しふらついていた。

「申し訳ございません……」

「お気になさらずに」

 子爵夫人は穏やかに笑う。

「どのご家庭にも、いろいろございますもの」

 そして帰っていった。

 その背を見送ったあと、イザベルは応接間の中央でしばらく立ち尽くしていた。

 飾り棚の上には、今朝整えられたばかりの花がある。
 茶器も上等なものを出した。
 菓子も、見栄えのいいものを選ばせた。

 それでも、すべて台無しだった。

 いや、違う。

 もともと台無しになるだけの中身しかなかったのかもしれない。
 それを今までは、セレナが見えないところで支えていた。

「……どうすればいいの」

 呟いても、誰も答えない。

 その問いに、今までは長女が答えていたのだ。
 でも、その長女はもういない。

 そしてその頃、ミレイユは自室へ引き戻されたあとも、怒りで震えていた。

「何よ……何なのよ!」

 鏡台の前で髪飾りを投げつける。
 だが昨日のように全部を壊しはしない。扉の外に人がいることも、自分がもう自由に暴れられる立場ではないことも、多少は分かっているのだろう。

 それでも心の中は煮えたぎっていた。

 子爵夫人の目。
 若い令嬢の視線。
 “落ち着いていらしたほうがよろしくてよ”という、あの言い方。

 完全に見下されていた。

 姉がいなくなった途端に。

 そこまで考えて、ミレイユははっとしたように息を止める。

 姉がいなくなった途端。

 つまり、今まで自分が“伯爵家の可愛い妹君”として通用していたのは、姉がその家を整えていたからなのではないか――そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎったのだ。

 だが次の瞬間には、彼女は激しく首を振った。

「違う」

 違う。
 そんなはずはない。

 自分は悪くない。
 姉が出ていったからおかしくなっただけ。
 父も母も役に立たないだけ。
 侯爵家が自分をきちんと迎えないのが悪い。

 そう思わなければ、立っていられない。

 ミレイユは荒い息をつきながら、鏡の中の自分を見た。

 美しいはずの顔が、今は少しも美しく見えない。
 目はつり上がり、口元は硬く、焦りと苛立ちが張りついている。

 その顔に、自分で少しだけ怯えた。

 けれどそれを認めるより先に、彼女はまた別の怒りを探し始める。
 そうしなければ、飾り棚みたいに自分の内側まで崩れてしまいそうだった。
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