「白い結婚の終幕:冷たい約束と偽りの愛」

鍛高譚

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第二章:揺れる思惑

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 朝焼けの光が、王都を見下ろす公爵家の屋敷を静かに照らしていた。風の冷たさはいまだ残り、秋の訪れを感じさせる。深く濃い雲が遠景に流れていく様子は、まるでこの屋敷の住人たちの胸の内を映し出しているかのようで、どこか不穏な気配を帯びていた。
 アスカは昨夜も遅くまで書類の整理をしていたため、疲労でまぶたが重い。しかし、公爵夫人としての日常は、待ってくれない。彼女は朝早くに目を覚まし、リディアの助けを借りながら身支度を整えると、また新たな一日を始めるべく執務室へと足を向けた。

まだ見えぬ夫の影

 屋敷の廊下は広々としており、天井から吊るされたシャンデリアが淡い光を投げかける。朝とはいえ少し暗さの残る空気の中、アスカの靴音だけがやけに響いていた。
 昨日、夜遅くに戻ってきたレイヴンは、食事すら取らず自室へ籠もってしまったようだ。彼と顔を合わせたのはわずか数秒ほどで、まともに会話をする暇さえなかった。
 新婚生活とは到底思えない、こうした“すれ違い”の日常がすでに常態化しつつある。しかし、アスカは自分の胸に芽生えかける虚しさを振り払いながら、今日も“公爵夫人”として成すべきことをこなすしかないと割り切る。

「おはようございます、公爵夫人様。」

 執務室の扉を開けると、執事のオーランドが控えめな笑みを浮かべて出迎えた。整えられた小机には朝の茶が準備され、その横には今日確認するべき書簡や書類が積まれている。
 アスカは軽く会釈し、椅子に腰を下ろすと、まずは机上の書簡にざっと目を通した。内容の大半は、公爵家が抱える領地の状況報告や、取引先の商人からの問い合わせなど、公的なものが多い。中には、社交界で行われる茶会や舞踏会への招待状も混ざっており、彼女に参加の意思を問う文面が見られた。

「公爵夫人様、今週末に開かれる侯爵家主催の舞踏会にご招待が届いております。ご出席なさいますか?」
 オーランドが尋ねると、アスカは軽く眉根を寄せた。社交界への参加は、公爵夫人としての義務のひとつだ。しかし、夫であるレイヴンが同行する意志を見せるとは考えにくい。
(とはいえ、出席しなければ“公爵家の新婦は公の場に出られないほど関係がうまくいっていない”と噂されるかもしれない――。)

 短い思案の末、彼女は参加を決めた。
「ええ、出席いたします。主人の都合が合わない場合でも、私だけで行くことになるでしょうが……準備を進めておいてください。」
「かしこまりました。ドレスや侍女の手配につきましては、改めてご相談させていただきます。」

 こうして、社交界という大舞台への初参加が、具体的に動き始めた。

執務に潜む違和感

 招待状を脇へ置き、アスカは昨日の続きである財務関係の書類を手に取った。公爵家が取り引きしている商会のリストや、領地の管理費用などを細かく確認していくうちに、やはりある一点が気にかかる。
 それは、特定の商人――名を“アーヴィング商会”という――が受注している案件が異様に多いこと。さらに、契約金額も相場を大きく上回っている。それだけならまだしも、その商会と競合する業者に割り当てられる仕事は極端に少なく、公爵家からの支払いも滞りがちだという。
 明らかに歪んだ構図だが、その理由がはっきりしない。執事や秘書官に尋ねても、「公爵様の方針」と一言で片付けられてしまうのが現状だった。

(レイヴンが個人的なメリットを得ているのか、それとも別の何かがあるのか……。)

 疑問は尽きないが、当のレイヴンに直接問いただす機会がほとんどないのがもどかしい。アスカは無意識に手元の書類を強く握りしめ、深いため息をついた。
 そんな彼女の気配に気づいたのか、そばで控えていたリディアが静かに声をかける。

「アスカ様、ご気分でも優れないのでしょうか? もしよければ、少し休憩なさってはいかがですか? お茶をお淹れしましょうか……」
「ありがとう、リディア。でも、もう少しだけ書類を見てからにするわ。」

 アスカは笑みを作って応じる。リディアの存在が、今の彼女にとっていかに心の支えになっているかは言うまでもない。だからこそ、ここで怯んではいけないと自分を奮い立たせるのだ。

セシリアの影

 執務室での作業を一段落させ、昼食まで少し時間がある。アスカは一息つこうと廊下を歩き、中庭へ向かった。青々とした芝生が広がる庭は手入れが行き届いているものの、どこか作り物めいた冷たさが漂っている。
 風に揺れるバラのアーチをくぐった先で、彼女は思わず足を止めた。視界の先に見えるのは、金髪を美しく巻いた女性――セシリアが、目を伏せたままベンチに腰掛けている姿だった。
 一見すると儚げで絵になる光景だが、アスカには警戒心が先に立つ。セシリアは昨夜も屋敷に滞在していたようで、“客人”の域を超えてこの家で振る舞っている節がある。いったい何者なのか。言葉を交わした印象では、ただの“親しい客”ではないことは明白だ。

「……アスカ公爵夫人。偶然ね。散歩かしら?」

 アスカが近づくと、セシリアはすぐに気づいて顔を上げた。その視線には、どこか人を試すような挑発が混ざっている。
 アスカはできるだけ穏やかな表情を保ち、礼儀正しく微笑んだ。

「ええ、少し気分転換に歩いていただけです。セシリア様も、おくつろぎ中でしたか?」
「ええ、そうよ。屋敷の中ばかりでは退屈だもの。たまには外の空気を吸わないと息が詰まってしまうわ。」

 そう言いながらも、セシリアはどこか探るような目でアスカを眺める。まるで彼女の表情や仕草から、何かしらの弱点を見出そうとしているかのようだ。
 アスカはその視線を感じながらも、話題を逸らすように問いかける。

「セシリア様は、こちらの屋敷に長く滞在されるご予定なのかしら?」
「さあ、どうかしらね。私は気まぐれだから、飽きたらどこへでも行くかもしれないし、興味のあるところには長居するかもしれない。……そう、例えばこの屋敷とか。」

 セシリアは唇に淡い笑みを宿しながら、わざとらしく周囲を見回した。そこに含まれる意味を、アスカはすぐに悟る。彼女は「公爵家に留まるだけの理由がある」ということを、暗にほのめかしているのだろう。
 昨日、セシリアは挑発的な言葉でアスカの胸をざわつかせたが、今日もその姿勢は変わらない。むしろ、さらに深く干渉しようとしているかのように見える。

(いったい何のつもりなの……。私に夫婦の不仲を見せつけるため? それとも、別の目的があって……?)

 頭の中で疑問が渦巻く。だが、無理に踏み込んだ話題を振るのは、相手の思うツボかもしれない。アスカはやや胸を張り、落ち着いた口調で返した。

「いずれにせよ、こうして屋敷にいらしてくださるのは、公爵家にとってもありがたいことです。きっと主人も退屈しないでしょうし。」
「まあ、そうね。あなたがそう言うなら、しばらく居座っても差し支えないわね。」

 セシリアは意味深な笑みを残して立ち上がり、ゆったりとした足取りで中庭を後にする。その姿を見送るアスカの胸には、言いようのない重苦しさが残った。冷たい風が髪を揺らし、またひとつ不穏な影が心を覆う。

来客と、動き出す影

 午後になって、屋敷の正門から馬車が入り込む音がした。執事が慌ててアスカのもとへ駆け寄り、来客の名を告げる。

「公爵夫人様、リュミエール侯爵家より、イザーク様とマリアンヌ様がお見えになりました。」
「……父と母が? こんな突然に、何の用かしら。」

 思わぬ来訪にアスカは驚きつつも、すぐに応接室へ向かうために身支度を整えた。実家の両親が気軽に訪ねてくることは滅多にない。大抵は手紙や使者を通じて連絡をよこすのだが、今回はどういう風の吹き回しだろうか。
 応接室に入ると、父イザークと母マリアンヌがすでにソファに腰掛けていた。父は相変わらず厳格な表情を崩さず、母はどこか冷めた瞳で室内を見回している。

「……お久しぶりです、父上、母上。何か急用でも?」
 アスカが尋ねると、イザークは言葉少なに切り出した。

「アスカ、お前の嫁入りからそれほど日は経っていないが、どうにも様子がおかしいという噂を耳にした。レイヴン公爵がほとんど姿を見せず、しかも家の中には妙な女が居座っているらしいな。」
 母マリアンヌもため息まじりに続ける。
「リディアからあまり細かいことを聞き出すわけにもいかないけれど、『夫人が苦労されているのでは』と耳にしたの。せっかく公爵夫人になったというのに、何か問題を起こしているなら看過できないわ。」

 どうやらリディアが何らかの形でリュミエール家に状況を報告していたらしい。アスカは心の中で複雑な思いが渦巻く一方、両親の言葉に反論せず、冷静を装って答えた。

「問題というほどではありません。レイヴン様はお忙しいだけですし、あの金髪の女性――セシリア様もあくまで“客人”として滞在しているに過ぎません。ただ、そうですね……多少はいろいろと不便があるのは事実です。」
「なんだ、その曖昧な言い方は。お前、本当にそれでいいのか?」

 イザークの声音には苛立ちがにじんでいる。公爵家との結婚は、リュミエール家にとっても大きな賭けだった。もしそれが破談や不仲によって失敗に終われば、父の目論見は瓦解しかねない。
 母マリアンヌも口調を強めて言う。

「そうよ、アスカ。もし何かあれば、早めに相談してちょうだい。あなたが花嫁として役に立たないとわかったら、どうなるかわかっているわね?」
 その言葉は、娘を気遣うよりも“家のためにちゃんと動け”という圧力の方が強く感じられる。アスカはやるせない思いを堪えながら、なんとか微笑みを作った。

「ええ、承知しています。ただ私も、ここで公爵夫人として果たすべき務めがあります。今後のことは私にお任せください。父上と母上は、どうかリュミエール家のことを優先していただければ。」
「……フン。まったく、どこまで本気で言っているのか。」

 イザークは満足そうでも、納得いかないようでもある複雑な表情を浮かべて椅子から立ち上がった。
 一方、母のマリアンヌは冷笑とも取れる薄い笑みを浮かべ、アスカを見つめる。

「それならいいのだけれど……アスカ、あなたも知っての通り、貴族社会は噂が大好きよ。なるべく早く“公爵家の新婦”として確固たる地位を築きなさい。そうでないと、せっかくの政略結婚が無駄になるわ。」

 そう言い残し、二人は使用人に案内されて屋敷を後にした。訪問はわずかな時間だったが、アスカの心には再び重圧だけが残る。両親が彼女自身を心配して来たわけではないことは、火を見るより明らかだった。
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