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第二章:揺れる思惑
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舞踏会への出陣準備
午前のうちに、アスカは侍女たちと最終的な支度を詰めた。ドレスは淡い青色を基調としたものを選んでいる。上品ながらも少し大胆に肩を露出したデザインで、白い肌が映えるように仕立てられた。背中側には銀糸で繊細な刺繍が施され、動くたびに光を反射して美しく輝く。
周囲から“公爵夫人”として見られる以上、地味な装いは却って弱々しい印象を与えてしまう。アスカはあえて華やかなデザインを選び、“遠慮なく輝く姿”を示すことを狙っていた。
「アスカ様、とてもお似合いです。きっと会場でも注目を集めることでしょう。」
鏡越しにリディアが微笑みかける。まるで姉妹のように和やかな光景だが、その内実は緊張感に満ちていた。
「ありがとう、リディア。あとは心構えだけね……。失敗は許されないし、私がどう振る舞うかで周囲の見る目も変わるはず。しっかりやってみるわ。」
いつになくアスカの声は力強い。半年前までは想像できなかった光景だ。実家にいた頃は、結婚相手との“幸せ”を夢見ることもあったが、今の彼女はまるで別の目標を宿している。それは“自分を見限った周囲を見返す”という意志であり、“こんな白い結婚に終わらせない”という決意だ。
出発前の不穏な出会い
昼過ぎ、馬車が出発するまで小一時間というところで、アスカはふと執務室に立ち寄り、最後の確認をしていた。舞踏会で出会うかもしれない人名や、話を聞いておくべき領主・貴族のリストなどをざっと頭に叩き込む。
そこへ、ノックの音もなく扉が開いた。入ってきたのは予想通りの人物――セシリア。深いエメラルドグリーンのドレスに身を包んだ彼女は、いつものように傲慢な笑みを浮かべている。
「まるで戦地へ向かう戦士のような表情ね、公爵夫人。今日が初めての舞踏会ですもの、緊張して当然かしら?」
嫌味とも挑発ともとれる口調だが、アスカは動じずににこりと微笑んだ。
「ご心配なく。確かに緊張しているけれど、私にとっては大切な場だから、全力で臨むつもりよ。」
セシリアは机の上をちらりと見やり、紙をめくるアスカの手元をあからさまに覗き込む。
「なるほど……人名リストまで用意して、どの貴族がどんな噂を抱えているのか、調べるつもり? ずいぶんと念入りね。アスカ公爵夫人は意外と策略家なのかしら。」
「策略というほど大げさなものでもありません。公の場に出るなら、それなりの下調べは必要でしょう?」
淡々と受け答えするアスカに、セシリアは薄く笑って身を引いた。
「ええ、その通り。私も舞踏会に行ってみようかしら。いろいろな人とお話しするのは嫌いじゃないの。……もしかして、あなたの“可愛い夫”がそこに現れるかもしれないものね。」
最後の言葉にアスカの胸が小さく痛む。レイヴンが姿を現す可能性があるのだろうか。彼は“出張”と称して屋敷を離れているが、セシリアの知るところでは、会場で落ち合うつもりなのかもしれない。
しかし、アスカは感情を表に出さない。ここで焦りを見せれば相手の思うツボだとわかっている。
「そうね。もしレイヴン様が来るなら、それはそれで朗報だわ。……では、セシリア様もドレスの準備があるんじゃなくて? 私はこれから馬車の出発に間に合うよう、急いで支度を済ませないといけないの。」
「ご親切にどうも。でも私は、いつでも出かける準備はできているわ。あなたと違って、“家の中”で必死に取り仕切る役目はないから。」
セシリアは優雅に身を翻し、部屋を出て行った。その背中を見送りながら、アスカの心には微かな苛立ちが残る。
(あの人はいったい何を考えているの……。レイヴンのことも、自分の目的も、まったく隠そうとしない。まるで私を弄ぶかのように……。)
華やかな舞踏会の幕開け
そして夕刻。アスカが乗った馬車は、煌びやかな照明が灯る侯爵家の館へと到着した。敷地に入ると、すでに多くの馬車が並んでおり、貴族たちが次々と玄関ホールへ吸い込まれていく。男性は豪華な礼装を身にまとい、女性は色とりどりのドレスを揺らしながら、笑みを交わし合う。
アスカは緊張を胸に抱きつつ、車輪止めがされるのを待った。扉が開かれ、従者が丁重に手を差し出す。彼女はその手を借りて馬車から降り立つと、気持ちを引き締めるように深呼吸をする。
(ここからが勝負……。)
広々としたエントランスホールを進むと、シャンデリアの光が眩いばかりに降り注ぎ、赤いカーペットが奥の大広間へ誘うように伸びている。すでに多くの男女が思い思いに談笑しており、豪華な食事や飲み物を手に楽しんでいる。
アスカの姿が目に入ると、周囲の人々はささやき合ったり、一瞬視線を投げたりしているのがわかる。そもそも“レイヴン公爵の新妻”というだけで目立つうえ、“夫を伴わずに来た”という事実はスキャンダラスな話題になりやすい。
(さあ、笑いたければ笑えばいいわ。でも私は……公爵夫人としての立ち居振る舞いを見せ、必要な情報を得てみせる。)
アスカは胸を張り、招待状を確認した係の者に会釈をして大広間へと進む。そこは絢爛豪華な装飾が施され、天井の中央には巨大なシャンデリアが輝いている。響き渡る演奏の調べが耳に心地よい。
貴婦人たちが輪になって談笑する様子、紳士たちが興味深げに取引の話をする様子――いかにも“貴族の社交界”らしい空気が満ちている。
注目を浴びる公爵夫人
アスカが一歩足を踏み入れると、さっそく何人かの貴族が彼女に声をかけてきた。
「まあ、レイヴン公爵家の新婦様ですわね。お初にお目にかかります。なんと美しい……!」
「お噂はかねがね。今日はご主人はご一緒ではないのですか?」
そうやって畳みかけるように質問を浴びせながら、彼らはアスカの表情を探る。やはり“夫が同伴しない新妻”というのは格好の好奇の的だ。
アスカは微笑みながらそれぞれに丁寧に返礼し、「主人は公務の都合で出席が難しく、誠に残念です」と短い言葉で切り抜けた。相手に余計な情報を与えず、愛想を崩さない――貴族の社交術の基本に沿って立ち回るのだ。
(何も怖がる必要はない。私は私で、公爵夫人としてここに立っている。)
そう自分に言い聞かせるうちに、自然と笑顔にも余裕が生まれてきた。先ほど話した女性のうち何人かは、意外にも“レイヴン公爵家と関係を深めたい”という下心があるのか、アスカの味方につきたがるそぶりを見せる。
アスカはそうした人々をうまくあしらいながら、抱えている疑問――アーヴィング商会の評判や、セシリアの噂など――の情報を引き出せないかと探りを入れる。そして、いくつか興味深い断片が耳に入ってきた。
「アーヴィング商会? ええ、最近どんどん勢力を伸ばしているようですわね。裏ではかなり強引な手段を使っているという噂もありますけれど……。」
「レイヴン公爵がお抱えにしているという話を小耳にはさみましたが、詳しいことはわかりません。ただ、莫大な資金が動いているとかなんとか……。」
やはり、その名は社交界でも耳にする。しかも、“強引な手段”や“莫大な資金”という不穏な単語がちらつくあたり、アスカが感じた違和感は的中しているようだ。
しかし、誰もが口ごもるように曖昧に話を止めてしまう。アーヴィング商会を真正面から批判するのは、レイヴン公爵を敵に回すことにもなりかねないからだろう。アスカ自身が当の“公爵夫人”である以上、人々も気を遣って言葉を濁すのだ。
思わぬ再会と揺れる真相
しばらくして、舞踏会の中心ではダンスが始まった。煌めく音楽に合わせて、人々がペアを組み、華麗にフロアを舞う。
アスカは誘いを受けるたびに軽く踊りつつ、合間に情報収集を続けた。ところが、音楽の休止するタイミングで振り向いた瞬間、息をのむほど驚く存在が視界に飛び込んできた。
一瞬だけ、背の高い黒髪の男性の姿を見た気がしたのだ。白い手袋と漆黒の礼服が鮮明に目に入り、その姿は紛れもなくレイヴンに似ていた。しかし、すぐに人波に紛れて消えてしまい、アスカは確信を持てない。
(いまの……レイヴン? まさか、あの人が本当に来ているの……?)
胸がざわつく。もし彼が本当に来ているのなら、どうして私に何も言わず、こうして人目を避けるように現れているのか。さまざまな疑問が頭をよぎる。
そんな混乱の中、また別の人物の声がアスカを呼び止めた。
「これはこれは、アスカ公爵夫人。お美しいお姿で、我々も目福ですな。」
見れば、そこに立っていたのはリュミエール家の昔馴染みでもある伯爵――カルデール伯。かつてアスカが社交界の下見をしていた頃に、一度顔を合わせたことがある人物だ。豊かな口ひげを湛え、朗らかな笑顔を浮かべている。
だが、その笑顔の裏側に鋭い洞察が隠れていることを、彼女は知っていた。カルデール伯は、噂好きかつ情報通であることで知られ、王都の社交界の裏話を数多く握っているという。
「こんなに大勢の目がある場所に、よくお一人でいらっしゃいましたね。……やはりレイヴン公爵は多忙でお越しになれなかったので?」
アスカは笑顔のまま短く息を吐く。
「ええ、仕事の都合がつかなかったのです。私としても残念ですが……。」
伯爵は視線を左右に泳がせながら、口元をゆるめた。
「なるほど、なるほど。ですが、噂によれば今夜、王都の外からとある客人が公爵様を探しているとか。アーヴィング商会の手代がうろうろしているという話を耳にしましたよ。こんな社交界に、あの商会の人間が来るのは珍しい。もっとも、私はまだ直接見かけておりませんがね。」
突然のアーヴィング商会の名に、アスカは心臓が高鳴るのを感じた。
「……伯爵は何かご存知で?」
「さあ、何も確証はありません。ただ、アーヴィング商会というのは近頃怪しげな噂が絶えない。王都の貴族たちとも深く取引をしているらしいですが、その手法がどうも表に出せないようなものだという話もある。実際、公爵家とも――」
伯爵がそこまで言いかけたとき、周囲の喧騒が一段と増した。どうやら、会場の入り口付近で誰かがやや大きな声を上げたようだ。人々の関心が一斉にそちらに向かう。
アスカも気になってそちらへと視線を走らせると、人だかりの向こうに見えたのは――金髪を光らせるセシリアの姿。そして、その隣には小柄な男がいた。毛皮をまとった商人風の出で立ちで、顔が険しい。
(あれが……アーヴィング商会の手代?)
セシリアは男を制するように腕を押さえ、何事かをささやいているらしい。男は気まずそうにあたりを見回しながら、落ち着きを失っているようだった。
その光景を横目に、カルデール伯がひそひそ声で続ける。
「ご覧なさい、あれではありませんかな。私が聞いた噂によれば、セシリア様もアーヴィング商会と関わりを持っているとか。まったく、何がどう繋がっているやら……。」
「……ええ、本当に。」
アスカは内心でぞくりとする。セシリアは明らかに男を連れて来ている。そして、その男は会場で何かを探し回っているように見える。もしかすると、その“何か”とはレイヴン公爵自身かもしれない。
しかし、セシリアが男を連れ立って舞踏会を訪れること自体、相当な不自然さを伴う。彼女自身は貴族階級の出身ではあるようだが、“商人の手代”と公の場を行動するのは、貴族社会の慣習から見て異例のことだ。
午前のうちに、アスカは侍女たちと最終的な支度を詰めた。ドレスは淡い青色を基調としたものを選んでいる。上品ながらも少し大胆に肩を露出したデザインで、白い肌が映えるように仕立てられた。背中側には銀糸で繊細な刺繍が施され、動くたびに光を反射して美しく輝く。
周囲から“公爵夫人”として見られる以上、地味な装いは却って弱々しい印象を与えてしまう。アスカはあえて華やかなデザインを選び、“遠慮なく輝く姿”を示すことを狙っていた。
「アスカ様、とてもお似合いです。きっと会場でも注目を集めることでしょう。」
鏡越しにリディアが微笑みかける。まるで姉妹のように和やかな光景だが、その内実は緊張感に満ちていた。
「ありがとう、リディア。あとは心構えだけね……。失敗は許されないし、私がどう振る舞うかで周囲の見る目も変わるはず。しっかりやってみるわ。」
いつになくアスカの声は力強い。半年前までは想像できなかった光景だ。実家にいた頃は、結婚相手との“幸せ”を夢見ることもあったが、今の彼女はまるで別の目標を宿している。それは“自分を見限った周囲を見返す”という意志であり、“こんな白い結婚に終わらせない”という決意だ。
出発前の不穏な出会い
昼過ぎ、馬車が出発するまで小一時間というところで、アスカはふと執務室に立ち寄り、最後の確認をしていた。舞踏会で出会うかもしれない人名や、話を聞いておくべき領主・貴族のリストなどをざっと頭に叩き込む。
そこへ、ノックの音もなく扉が開いた。入ってきたのは予想通りの人物――セシリア。深いエメラルドグリーンのドレスに身を包んだ彼女は、いつものように傲慢な笑みを浮かべている。
「まるで戦地へ向かう戦士のような表情ね、公爵夫人。今日が初めての舞踏会ですもの、緊張して当然かしら?」
嫌味とも挑発ともとれる口調だが、アスカは動じずににこりと微笑んだ。
「ご心配なく。確かに緊張しているけれど、私にとっては大切な場だから、全力で臨むつもりよ。」
セシリアは机の上をちらりと見やり、紙をめくるアスカの手元をあからさまに覗き込む。
「なるほど……人名リストまで用意して、どの貴族がどんな噂を抱えているのか、調べるつもり? ずいぶんと念入りね。アスカ公爵夫人は意外と策略家なのかしら。」
「策略というほど大げさなものでもありません。公の場に出るなら、それなりの下調べは必要でしょう?」
淡々と受け答えするアスカに、セシリアは薄く笑って身を引いた。
「ええ、その通り。私も舞踏会に行ってみようかしら。いろいろな人とお話しするのは嫌いじゃないの。……もしかして、あなたの“可愛い夫”がそこに現れるかもしれないものね。」
最後の言葉にアスカの胸が小さく痛む。レイヴンが姿を現す可能性があるのだろうか。彼は“出張”と称して屋敷を離れているが、セシリアの知るところでは、会場で落ち合うつもりなのかもしれない。
しかし、アスカは感情を表に出さない。ここで焦りを見せれば相手の思うツボだとわかっている。
「そうね。もしレイヴン様が来るなら、それはそれで朗報だわ。……では、セシリア様もドレスの準備があるんじゃなくて? 私はこれから馬車の出発に間に合うよう、急いで支度を済ませないといけないの。」
「ご親切にどうも。でも私は、いつでも出かける準備はできているわ。あなたと違って、“家の中”で必死に取り仕切る役目はないから。」
セシリアは優雅に身を翻し、部屋を出て行った。その背中を見送りながら、アスカの心には微かな苛立ちが残る。
(あの人はいったい何を考えているの……。レイヴンのことも、自分の目的も、まったく隠そうとしない。まるで私を弄ぶかのように……。)
華やかな舞踏会の幕開け
そして夕刻。アスカが乗った馬車は、煌びやかな照明が灯る侯爵家の館へと到着した。敷地に入ると、すでに多くの馬車が並んでおり、貴族たちが次々と玄関ホールへ吸い込まれていく。男性は豪華な礼装を身にまとい、女性は色とりどりのドレスを揺らしながら、笑みを交わし合う。
アスカは緊張を胸に抱きつつ、車輪止めがされるのを待った。扉が開かれ、従者が丁重に手を差し出す。彼女はその手を借りて馬車から降り立つと、気持ちを引き締めるように深呼吸をする。
(ここからが勝負……。)
広々としたエントランスホールを進むと、シャンデリアの光が眩いばかりに降り注ぎ、赤いカーペットが奥の大広間へ誘うように伸びている。すでに多くの男女が思い思いに談笑しており、豪華な食事や飲み物を手に楽しんでいる。
アスカの姿が目に入ると、周囲の人々はささやき合ったり、一瞬視線を投げたりしているのがわかる。そもそも“レイヴン公爵の新妻”というだけで目立つうえ、“夫を伴わずに来た”という事実はスキャンダラスな話題になりやすい。
(さあ、笑いたければ笑えばいいわ。でも私は……公爵夫人としての立ち居振る舞いを見せ、必要な情報を得てみせる。)
アスカは胸を張り、招待状を確認した係の者に会釈をして大広間へと進む。そこは絢爛豪華な装飾が施され、天井の中央には巨大なシャンデリアが輝いている。響き渡る演奏の調べが耳に心地よい。
貴婦人たちが輪になって談笑する様子、紳士たちが興味深げに取引の話をする様子――いかにも“貴族の社交界”らしい空気が満ちている。
注目を浴びる公爵夫人
アスカが一歩足を踏み入れると、さっそく何人かの貴族が彼女に声をかけてきた。
「まあ、レイヴン公爵家の新婦様ですわね。お初にお目にかかります。なんと美しい……!」
「お噂はかねがね。今日はご主人はご一緒ではないのですか?」
そうやって畳みかけるように質問を浴びせながら、彼らはアスカの表情を探る。やはり“夫が同伴しない新妻”というのは格好の好奇の的だ。
アスカは微笑みながらそれぞれに丁寧に返礼し、「主人は公務の都合で出席が難しく、誠に残念です」と短い言葉で切り抜けた。相手に余計な情報を与えず、愛想を崩さない――貴族の社交術の基本に沿って立ち回るのだ。
(何も怖がる必要はない。私は私で、公爵夫人としてここに立っている。)
そう自分に言い聞かせるうちに、自然と笑顔にも余裕が生まれてきた。先ほど話した女性のうち何人かは、意外にも“レイヴン公爵家と関係を深めたい”という下心があるのか、アスカの味方につきたがるそぶりを見せる。
アスカはそうした人々をうまくあしらいながら、抱えている疑問――アーヴィング商会の評判や、セシリアの噂など――の情報を引き出せないかと探りを入れる。そして、いくつか興味深い断片が耳に入ってきた。
「アーヴィング商会? ええ、最近どんどん勢力を伸ばしているようですわね。裏ではかなり強引な手段を使っているという噂もありますけれど……。」
「レイヴン公爵がお抱えにしているという話を小耳にはさみましたが、詳しいことはわかりません。ただ、莫大な資金が動いているとかなんとか……。」
やはり、その名は社交界でも耳にする。しかも、“強引な手段”や“莫大な資金”という不穏な単語がちらつくあたり、アスカが感じた違和感は的中しているようだ。
しかし、誰もが口ごもるように曖昧に話を止めてしまう。アーヴィング商会を真正面から批判するのは、レイヴン公爵を敵に回すことにもなりかねないからだろう。アスカ自身が当の“公爵夫人”である以上、人々も気を遣って言葉を濁すのだ。
思わぬ再会と揺れる真相
しばらくして、舞踏会の中心ではダンスが始まった。煌めく音楽に合わせて、人々がペアを組み、華麗にフロアを舞う。
アスカは誘いを受けるたびに軽く踊りつつ、合間に情報収集を続けた。ところが、音楽の休止するタイミングで振り向いた瞬間、息をのむほど驚く存在が視界に飛び込んできた。
一瞬だけ、背の高い黒髪の男性の姿を見た気がしたのだ。白い手袋と漆黒の礼服が鮮明に目に入り、その姿は紛れもなくレイヴンに似ていた。しかし、すぐに人波に紛れて消えてしまい、アスカは確信を持てない。
(いまの……レイヴン? まさか、あの人が本当に来ているの……?)
胸がざわつく。もし彼が本当に来ているのなら、どうして私に何も言わず、こうして人目を避けるように現れているのか。さまざまな疑問が頭をよぎる。
そんな混乱の中、また別の人物の声がアスカを呼び止めた。
「これはこれは、アスカ公爵夫人。お美しいお姿で、我々も目福ですな。」
見れば、そこに立っていたのはリュミエール家の昔馴染みでもある伯爵――カルデール伯。かつてアスカが社交界の下見をしていた頃に、一度顔を合わせたことがある人物だ。豊かな口ひげを湛え、朗らかな笑顔を浮かべている。
だが、その笑顔の裏側に鋭い洞察が隠れていることを、彼女は知っていた。カルデール伯は、噂好きかつ情報通であることで知られ、王都の社交界の裏話を数多く握っているという。
「こんなに大勢の目がある場所に、よくお一人でいらっしゃいましたね。……やはりレイヴン公爵は多忙でお越しになれなかったので?」
アスカは笑顔のまま短く息を吐く。
「ええ、仕事の都合がつかなかったのです。私としても残念ですが……。」
伯爵は視線を左右に泳がせながら、口元をゆるめた。
「なるほど、なるほど。ですが、噂によれば今夜、王都の外からとある客人が公爵様を探しているとか。アーヴィング商会の手代がうろうろしているという話を耳にしましたよ。こんな社交界に、あの商会の人間が来るのは珍しい。もっとも、私はまだ直接見かけておりませんがね。」
突然のアーヴィング商会の名に、アスカは心臓が高鳴るのを感じた。
「……伯爵は何かご存知で?」
「さあ、何も確証はありません。ただ、アーヴィング商会というのは近頃怪しげな噂が絶えない。王都の貴族たちとも深く取引をしているらしいですが、その手法がどうも表に出せないようなものだという話もある。実際、公爵家とも――」
伯爵がそこまで言いかけたとき、周囲の喧騒が一段と増した。どうやら、会場の入り口付近で誰かがやや大きな声を上げたようだ。人々の関心が一斉にそちらに向かう。
アスカも気になってそちらへと視線を走らせると、人だかりの向こうに見えたのは――金髪を光らせるセシリアの姿。そして、その隣には小柄な男がいた。毛皮をまとった商人風の出で立ちで、顔が険しい。
(あれが……アーヴィング商会の手代?)
セシリアは男を制するように腕を押さえ、何事かをささやいているらしい。男は気まずそうにあたりを見回しながら、落ち着きを失っているようだった。
その光景を横目に、カルデール伯がひそひそ声で続ける。
「ご覧なさい、あれではありませんかな。私が聞いた噂によれば、セシリア様もアーヴィング商会と関わりを持っているとか。まったく、何がどう繋がっているやら……。」
「……ええ、本当に。」
アスカは内心でぞくりとする。セシリアは明らかに男を連れて来ている。そして、その男は会場で何かを探し回っているように見える。もしかすると、その“何か”とはレイヴン公爵自身かもしれない。
しかし、セシリアが男を連れ立って舞踏会を訪れること自体、相当な不自然さを伴う。彼女自身は貴族階級の出身ではあるようだが、“商人の手代”と公の場を行動するのは、貴族社会の慣習から見て異例のことだ。
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