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31話 キュレイション嬢は何と言っている
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31話 キュレイション嬢は何と言っている
予算審議会の当日、王宮の空気は朝から妙に乾いていた。
湿り気のない緊張というものがある。怒鳴り声が飛ぶわけでもなく、誰かが走り回るわけでもない。ただ、行き交う人間の歩幅だけが少し狭くなり、扉の開閉がいつもより静かになり、紙を持つ手の角度までかすかに固くなる。
そういう朝だった。
キャル・キュレイションは控え室代わりの小部屋で、机の上に置かれた整理表の束を見下ろしていた。
継続費。
単年費。
緊急費。
擬装された体面費。
比較不能な形で出された要求。
前年との差が大きすぎるもの。
どの紙も同じ単位へ直し、同じ順番へ並べ、見ればすぐ差が出るようにしてある。ここまでやってようやく、各家の“もっと寄越せ”が同じ土俵に乗る。
つまり今日は、その土俵の上で誰かが転ぶ日だ。
「嫌ですね」
ぽつりと出た本音に、横で資料を整えていたルネ・ベルティエが苦笑した。
「ええ」
「絶対に荒れますよね」
「たぶん」
「たぶん、じゃありません」
キャルは紙束を揃えた。
「こういうの、見られたくなくて単位を崩していたんでしょう」
「そうですね」
「それを揃えて並べるんですから」
「ええ」
「最悪です」
ルネは一度だけ目を閉じた。
最近このやり取りばかりだな、とキャルは思う。だが最近は毎回、本当に最悪なので仕方がない。
扉が叩かれる。
「入る」
返事より少し早く入ってきたのは財務局長だった。朝から顔色が冴えない。いつもの実務顔ではあるが、今日はその下に「面倒だ」という本音が少し透けて見える。
それだけで、今日の審議会がろくでもないことはよく分かった。
「準備は」
「一応」
キャルは整理表を軽く持ち上げた。
「見やすくはしてあります」
「それで十分だ」
局長は短く言った。
「お前は発言するな」
「それは助かります」
「ただし」
やはり続きがある。
「問われたら答えろ」
最悪だった。
「問われなければいいんですが」
「私もそう思う」
局長が本気でそう言ったので、キャルは少しだけ顔を上げた。
この人も今日は相当うんざりしているらしい。気持ちは分かる。各家の要求を全部同じ表へ並べるというのは、火種を一箇所へ集めるようなものだ。
「私はどこまで」
「後ろだ」
局長は部屋の奥に置かれた紙束を顎で示した。
「表には出るな。必要になるまで」
必要になるまで、という言い方がもう嫌だった。
つまり必要になる可能性を、最初から捨てていないのだ。
それでも、ど真ん中へ立たされるよりはましだろう。キャルは小さく頷いた。
「分かりました」
審議会の部屋は、広いというより長かった。
机が横へ長く繋がれ、その左右に大貴族たちが並び、その正面に王家側の席がある。財務局、造幣局、兵站局、内政局など、各局の長も必要なだけ顔を出している。見渡しただけで疲れる顔ぶれだった。
キャルは局長の指示通り、少し後ろへ下がった位置についた。前へ出ない。視線を必要以上に受けない。紙はすぐ渡せる位置に置く。
こういう時は、存在感は薄い方がいい。
だが現実はたいてい、その希望通りにはいかない。
審議会が始まると、最初は比較的静かだった。
財務局長が今期の収支見込みを淡々と述べる。そこへ街道補修費、港湾整備費、祭礼支出、親衛隊増員費といった要求が一つずつ乗っていく。各家の代表は、声を荒げるまではいかなくとも、みな自分の紙だけは“必要な出費”として語る。
必要。
重要。
今期を逃せばならない。
民のため。
国の威光のため。
聞いているだけで肩が凝りそうな言葉ばかりだ。
そして、そのたびにキャルは心の中で思う。
じゃあ最初から比較しやすく書けばいいのに、と。
同じ金を欲しがるなら、せめて同じ単位で出せばいい。だがそうしないのは、見比べられると困るからだ。
紙は正直だ。正直すぎるから、人は時々、わざと読みにくくする。
「南部防備費の増額は必要だ」
年配の大貴族が低く言う。
「国境が落ち着かぬ以上、先送りはできん」
別の席から声が飛ぶ。
「北方港湾の整備も同じだ。交易が鈍れば税収そのものが痩せる」
「親衛隊増員もだ」
「祭礼費を削れば王都の面子が立たん」
面子、出たな、とキャルは思った。
案の定、それを言った貴族の紙は“祭礼特別支出”の形で毎年少しずつ膨らんでいた。体面を必要性の顔で書いた紙の典型だ。
財務局長はしばらく黙っていたが、やがて整理表の束を手に取った。
「要求は承った」
その一言で、部屋の空気が少し変わる。
「ただし」
局長は紙を一枚めくった。
「比較のため、財務局にて形式を揃えた整理表を作成した」
来たな、とキャルは思った。
隣のルネが、ごく小さく息を呑むのが聞こえる。
局長は続けた。
「継続費、単年費、緊急費、前年との差額、現行支出との関係。すべて同一単位に直してある」
数人の大貴族の顔色が、目に見えて変わった。
それはそうだろう。
見られたくなくて崩していたものを、見やすく揃えられたのだ。
局長が最初の一枚を読み上げる。
「祭礼特別支出。前年も類似名目にて追加支出あり。事実上の定常費」
一人の貴族がすぐに声を荒げた。
「待て。それは祭礼ごとの事情が――」
「ならばなおさら、毎年臨時扱いにする理由が薄い」
局長は一歩も引かない。
次の紙へ移る。
「王家親衛隊増員要求。装備更新費と特別手当が別紙立て。翌年以降の本体支出への影響未記載」
「それは機密上」
「予算要求において、記載を落とす理由にはならん」
さらに次。
「南部防備費要請。必要性は認めるが、現地備蓄との差額説明が不足」
「それは――」
「数字が足りん」
そこまで言ったところで、部屋の空気は完全に荒れ始めた。
怒鳴り声ではない。
だが、低く押し殺した不満が一斉に動く。
誰もが自分の紙は特別扱いしてほしいのに、今日の財務局はそれを全部同じ土俵へ並べてしまっている。面白いはずがない。
「誰がこんな整理をした」
とうとう、ひとりの大貴族がそう言った。
来た。
キャルは心の中だけで深いため息をついた。
局長がほんのわずかに沈黙する。
その一瞬で、いくつもの視線がこちらの後方へ流れかけたのが分かった。嫌な流れだな、と本気で思う。
そこで、別の貴族が低く言う。
「こんなもの、財務局のいつもの筆ではない」
よく見ているな、とキャルは思った。
それはたぶん褒め言葉ではないが、紙を読む目はあるらしい。
「誰だ」
「どこの誰が、こうも見やすく余計なものを削いだ」
言い方はひどいが、意味は分かる。
余計なものを削いだ。
つまり言い訳の層を剥がした、ということだ。
局長が口を開きかけた、その時だった。
「キュレイション嬢は何と言っている」
静かな声が、部屋の奥から落ちた。
一瞬で、全部が止まる。
国王だった。
今まで口を挟まず、各家のやり取りを黙って見ていたその人が、そこで初めて言葉を置いた。
キュレイション嬢は何と言っている。
その一言の意味を理解するまでに、ほんのわずかに時間がかかった。
そして理解した瞬間、部屋中の視線が一斉に後方へ向く。
最悪である。
本当に、最悪である。
前へ出るつもりなどなかった。今日に限っては、本気で。だが国王が名を出して問うた以上、黙っているのは不可能だった。
局長が小さく目で促す。
出ろ、の合図だ。
キャルはゆっくりと前へ出た。視線が重い。高位の貴族たちの目というものは、いつだって人を値踏みする。しかも今日は、自分たちの紙を剥がされた後だ。機嫌がいいはずもない。
「キャル・キュレイションです」
頭を下げ、面を上げる。
国王は静かに問うた。
「整理表の作成に関わったのは其方か」
「はい」
「なら聞こう」
その声音は、余計なものを削いだ声だった。
「各要求をどう見る」
その問いの重さに、部屋の空気がまた一段深くなる。
答えを誤れば終わる。だが答えを濁しても意味がない。こういう時に必要なのは、たぶん愛想ではなく順番だ。
キャルは一度だけ息を吸った。
「必要なものは、あります」
最初にそう言う。
「全部が不当だとは思いません」
一人の大貴族の顔がわずかに緩む。だがすぐに続ける。
「ただし」
紙へ目を落とす。
「見られると困る形で出された要求が多すぎます」
部屋が静まる。
「単年費に見せた継続費」
「臨時に見せた定常費」
「緊急性を理由にした体面費」
「比較されないよう単位を崩した要求」
一つずつ言葉を置く。
「それらを揃えて並べると、必要なものと、必要に見せたいものが分かれます」
年配の貴族が低く言う。
「小娘が」
その一言に、キャルは一瞬だけそちらを見た。
やはり来るか、と思う。
だが今は、腹も立たなかった。
「ええ、小娘です」
静かに返す。
「でも差額は出せます」
部屋のどこかで、誰かが息を止めた。
キャルは続ける。
「例えば祭礼特別支出」
「毎年、臨時の顔をしていますが、実際には繰り返されています」
「なら定常費へ入れるべきです」
「親衛隊増員要求も同じです」
「装備更新と特別手当を別紙にするなら、その後の本体支出への影響を書くべきです」
「書いていない以上、比較から逃げています」
今度は別の貴族が言う。
「無礼だな」
「そうでしょうか」
キャルは首を傾げた。
「予算要求ですよね」
「なら比較されて当然では」
一歩も引かなかった。
引けるはずもない。ここで半端に怯めば、紙の方まで嘘になる。
国王は黙って聞いている。
だからキャルも続ける。
「必要なものを削れとは言っていません」
「でも、必要な顔をした体面費まで同列に守る余裕があるかは、別です」
部屋の温度が、少しずつ下がっていくような気がした。
高位の貴族たちは、こういう言い方に慣れていないのだろう。遠回しな諫言ではなく、数字を先に揃えた上で、比べて見せるやり方に。
だから嫌なのだ。
嫌だが、嫌だからといって数字は消えない。
「つまり」
国王が低く言う。
「其方はこう言いたいのだな」
一拍。
「守るべきものはある」
「だが、守るふりをしているものまで同じ顔で並べるな、と」
「はい」
キャルははっきり頷いた。
「そうです」
その答えで、部屋の何人かはもう完全に黙った。
怒っているのか、呆れているのか、計算しているのか、顔だけでは分からない。だが少なくとも、もう「侍女風情」だの「小娘」だのと軽く言える空気ではなくなっている。
国王はしばらく整理表を見下ろしていたが、やがて静かに言った。
「よく分かった」
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
局長がすぐに口を開く。
「では、祭礼特別支出は定常費への組み替え前提で再提出を」
「親衛隊増員要求は、翌年度への影響込みで再計算」
「南部防備費は現地備蓄との差額説明を追加」
財務局側の声が一気に動く。
今まで貴族たちが押していた流れが、はっきり変わった。
数字が一度そろってしまうと、人はもう元の言い分だけでは押し切れない。
それが予算というものなのだろう。
キャルはそこでようやく、小さく息を吐いた。
疲れた。
本当に疲れた。
数字を並べるのはいい。だが、その先で人間がどう崩れるかまで見せられるのは、かなり疲れる。
国王が最後に一度だけキャルを見た。
「其方」
「はい」
「王の天秤というのは、こういう者のことを言うのかもしれんな」
その一言に、部屋がまた静まる。
やめてほしい、とキャルは本気で思った。
そういう呼び方はよくない。とてもよくない。持ち上げられることは、そのまま意味になる。意味は人を呼ぶ。人は仕事を増やす。
つまり最悪である。
だがここで「やめてください」と言えるはずもない。
「……恐れ多いです」
どうにかそれだけ返すと、国王は小さく口元を動かした。
笑ったのかどうか、ぎりぎり分からない程度だった。
審議会が終わって部屋を出た時には、キャルは本当に少しふらついた。
ルネが横で小声で言う。
「大丈夫ですか」
「よくありません」
「でしょうね」
その返しすら、今日はやけに遠く聞こえる。
「王の天秤、は」
ルネが少しだけ困ったように言う。
「……かなり効きましたね」
「最悪です」
キャルは即答した。
「そんなもの、効かなくていいんです」
「ですが、陛下の一言ですから」
「知ってます」
だから困るのだ。
財務局へ戻る廊下の途中で、すでに何人かの官吏がこちらを見ていた。噂は回る。しかも国王の口から出た言葉は、回る速度まで違う。
王の天秤。
そんな大げさなものになりたいわけではない。
ただ、読みにくい紙を読みやすくしたかっただけだ。
でも、数字を揃えてしまうと、人は勝手に意味を乗せる。
そういう場所にいるのだと、あらためて思い知らされる。
小部屋へ戻ると、机の上には新しい紙がもう一束増えていた。
キャルはしばらくそれを見つめ、それから深く、長くため息をついた。
「……増えると思いました」
ルネはそれに何も返さなかった。
返せなかったのだろう。
それでもキャルは、しばらく黙って紙の山を見下ろしていた。
結局こうなるのだ。
目立てば紙が増える。
紙が増えれば仕事が増える。
仕事が増えれば、また目立つ。
どこかで止めたいのに、数字の方が止まってくれない。
その循環の中に、自分はもうかなり深く入ってしまったのだと、キャルはようやく認めるしかなかった。
予算審議会の当日、王宮の空気は朝から妙に乾いていた。
湿り気のない緊張というものがある。怒鳴り声が飛ぶわけでもなく、誰かが走り回るわけでもない。ただ、行き交う人間の歩幅だけが少し狭くなり、扉の開閉がいつもより静かになり、紙を持つ手の角度までかすかに固くなる。
そういう朝だった。
キャル・キュレイションは控え室代わりの小部屋で、机の上に置かれた整理表の束を見下ろしていた。
継続費。
単年費。
緊急費。
擬装された体面費。
比較不能な形で出された要求。
前年との差が大きすぎるもの。
どの紙も同じ単位へ直し、同じ順番へ並べ、見ればすぐ差が出るようにしてある。ここまでやってようやく、各家の“もっと寄越せ”が同じ土俵に乗る。
つまり今日は、その土俵の上で誰かが転ぶ日だ。
「嫌ですね」
ぽつりと出た本音に、横で資料を整えていたルネ・ベルティエが苦笑した。
「ええ」
「絶対に荒れますよね」
「たぶん」
「たぶん、じゃありません」
キャルは紙束を揃えた。
「こういうの、見られたくなくて単位を崩していたんでしょう」
「そうですね」
「それを揃えて並べるんですから」
「ええ」
「最悪です」
ルネは一度だけ目を閉じた。
最近このやり取りばかりだな、とキャルは思う。だが最近は毎回、本当に最悪なので仕方がない。
扉が叩かれる。
「入る」
返事より少し早く入ってきたのは財務局長だった。朝から顔色が冴えない。いつもの実務顔ではあるが、今日はその下に「面倒だ」という本音が少し透けて見える。
それだけで、今日の審議会がろくでもないことはよく分かった。
「準備は」
「一応」
キャルは整理表を軽く持ち上げた。
「見やすくはしてあります」
「それで十分だ」
局長は短く言った。
「お前は発言するな」
「それは助かります」
「ただし」
やはり続きがある。
「問われたら答えろ」
最悪だった。
「問われなければいいんですが」
「私もそう思う」
局長が本気でそう言ったので、キャルは少しだけ顔を上げた。
この人も今日は相当うんざりしているらしい。気持ちは分かる。各家の要求を全部同じ表へ並べるというのは、火種を一箇所へ集めるようなものだ。
「私はどこまで」
「後ろだ」
局長は部屋の奥に置かれた紙束を顎で示した。
「表には出るな。必要になるまで」
必要になるまで、という言い方がもう嫌だった。
つまり必要になる可能性を、最初から捨てていないのだ。
それでも、ど真ん中へ立たされるよりはましだろう。キャルは小さく頷いた。
「分かりました」
審議会の部屋は、広いというより長かった。
机が横へ長く繋がれ、その左右に大貴族たちが並び、その正面に王家側の席がある。財務局、造幣局、兵站局、内政局など、各局の長も必要なだけ顔を出している。見渡しただけで疲れる顔ぶれだった。
キャルは局長の指示通り、少し後ろへ下がった位置についた。前へ出ない。視線を必要以上に受けない。紙はすぐ渡せる位置に置く。
こういう時は、存在感は薄い方がいい。
だが現実はたいてい、その希望通りにはいかない。
審議会が始まると、最初は比較的静かだった。
財務局長が今期の収支見込みを淡々と述べる。そこへ街道補修費、港湾整備費、祭礼支出、親衛隊増員費といった要求が一つずつ乗っていく。各家の代表は、声を荒げるまではいかなくとも、みな自分の紙だけは“必要な出費”として語る。
必要。
重要。
今期を逃せばならない。
民のため。
国の威光のため。
聞いているだけで肩が凝りそうな言葉ばかりだ。
そして、そのたびにキャルは心の中で思う。
じゃあ最初から比較しやすく書けばいいのに、と。
同じ金を欲しがるなら、せめて同じ単位で出せばいい。だがそうしないのは、見比べられると困るからだ。
紙は正直だ。正直すぎるから、人は時々、わざと読みにくくする。
「南部防備費の増額は必要だ」
年配の大貴族が低く言う。
「国境が落ち着かぬ以上、先送りはできん」
別の席から声が飛ぶ。
「北方港湾の整備も同じだ。交易が鈍れば税収そのものが痩せる」
「親衛隊増員もだ」
「祭礼費を削れば王都の面子が立たん」
面子、出たな、とキャルは思った。
案の定、それを言った貴族の紙は“祭礼特別支出”の形で毎年少しずつ膨らんでいた。体面を必要性の顔で書いた紙の典型だ。
財務局長はしばらく黙っていたが、やがて整理表の束を手に取った。
「要求は承った」
その一言で、部屋の空気が少し変わる。
「ただし」
局長は紙を一枚めくった。
「比較のため、財務局にて形式を揃えた整理表を作成した」
来たな、とキャルは思った。
隣のルネが、ごく小さく息を呑むのが聞こえる。
局長は続けた。
「継続費、単年費、緊急費、前年との差額、現行支出との関係。すべて同一単位に直してある」
数人の大貴族の顔色が、目に見えて変わった。
それはそうだろう。
見られたくなくて崩していたものを、見やすく揃えられたのだ。
局長が最初の一枚を読み上げる。
「祭礼特別支出。前年も類似名目にて追加支出あり。事実上の定常費」
一人の貴族がすぐに声を荒げた。
「待て。それは祭礼ごとの事情が――」
「ならばなおさら、毎年臨時扱いにする理由が薄い」
局長は一歩も引かない。
次の紙へ移る。
「王家親衛隊増員要求。装備更新費と特別手当が別紙立て。翌年以降の本体支出への影響未記載」
「それは機密上」
「予算要求において、記載を落とす理由にはならん」
さらに次。
「南部防備費要請。必要性は認めるが、現地備蓄との差額説明が不足」
「それは――」
「数字が足りん」
そこまで言ったところで、部屋の空気は完全に荒れ始めた。
怒鳴り声ではない。
だが、低く押し殺した不満が一斉に動く。
誰もが自分の紙は特別扱いしてほしいのに、今日の財務局はそれを全部同じ土俵へ並べてしまっている。面白いはずがない。
「誰がこんな整理をした」
とうとう、ひとりの大貴族がそう言った。
来た。
キャルは心の中だけで深いため息をついた。
局長がほんのわずかに沈黙する。
その一瞬で、いくつもの視線がこちらの後方へ流れかけたのが分かった。嫌な流れだな、と本気で思う。
そこで、別の貴族が低く言う。
「こんなもの、財務局のいつもの筆ではない」
よく見ているな、とキャルは思った。
それはたぶん褒め言葉ではないが、紙を読む目はあるらしい。
「誰だ」
「どこの誰が、こうも見やすく余計なものを削いだ」
言い方はひどいが、意味は分かる。
余計なものを削いだ。
つまり言い訳の層を剥がした、ということだ。
局長が口を開きかけた、その時だった。
「キュレイション嬢は何と言っている」
静かな声が、部屋の奥から落ちた。
一瞬で、全部が止まる。
国王だった。
今まで口を挟まず、各家のやり取りを黙って見ていたその人が、そこで初めて言葉を置いた。
キュレイション嬢は何と言っている。
その一言の意味を理解するまでに、ほんのわずかに時間がかかった。
そして理解した瞬間、部屋中の視線が一斉に後方へ向く。
最悪である。
本当に、最悪である。
前へ出るつもりなどなかった。今日に限っては、本気で。だが国王が名を出して問うた以上、黙っているのは不可能だった。
局長が小さく目で促す。
出ろ、の合図だ。
キャルはゆっくりと前へ出た。視線が重い。高位の貴族たちの目というものは、いつだって人を値踏みする。しかも今日は、自分たちの紙を剥がされた後だ。機嫌がいいはずもない。
「キャル・キュレイションです」
頭を下げ、面を上げる。
国王は静かに問うた。
「整理表の作成に関わったのは其方か」
「はい」
「なら聞こう」
その声音は、余計なものを削いだ声だった。
「各要求をどう見る」
その問いの重さに、部屋の空気がまた一段深くなる。
答えを誤れば終わる。だが答えを濁しても意味がない。こういう時に必要なのは、たぶん愛想ではなく順番だ。
キャルは一度だけ息を吸った。
「必要なものは、あります」
最初にそう言う。
「全部が不当だとは思いません」
一人の大貴族の顔がわずかに緩む。だがすぐに続ける。
「ただし」
紙へ目を落とす。
「見られると困る形で出された要求が多すぎます」
部屋が静まる。
「単年費に見せた継続費」
「臨時に見せた定常費」
「緊急性を理由にした体面費」
「比較されないよう単位を崩した要求」
一つずつ言葉を置く。
「それらを揃えて並べると、必要なものと、必要に見せたいものが分かれます」
年配の貴族が低く言う。
「小娘が」
その一言に、キャルは一瞬だけそちらを見た。
やはり来るか、と思う。
だが今は、腹も立たなかった。
「ええ、小娘です」
静かに返す。
「でも差額は出せます」
部屋のどこかで、誰かが息を止めた。
キャルは続ける。
「例えば祭礼特別支出」
「毎年、臨時の顔をしていますが、実際には繰り返されています」
「なら定常費へ入れるべきです」
「親衛隊増員要求も同じです」
「装備更新と特別手当を別紙にするなら、その後の本体支出への影響を書くべきです」
「書いていない以上、比較から逃げています」
今度は別の貴族が言う。
「無礼だな」
「そうでしょうか」
キャルは首を傾げた。
「予算要求ですよね」
「なら比較されて当然では」
一歩も引かなかった。
引けるはずもない。ここで半端に怯めば、紙の方まで嘘になる。
国王は黙って聞いている。
だからキャルも続ける。
「必要なものを削れとは言っていません」
「でも、必要な顔をした体面費まで同列に守る余裕があるかは、別です」
部屋の温度が、少しずつ下がっていくような気がした。
高位の貴族たちは、こういう言い方に慣れていないのだろう。遠回しな諫言ではなく、数字を先に揃えた上で、比べて見せるやり方に。
だから嫌なのだ。
嫌だが、嫌だからといって数字は消えない。
「つまり」
国王が低く言う。
「其方はこう言いたいのだな」
一拍。
「守るべきものはある」
「だが、守るふりをしているものまで同じ顔で並べるな、と」
「はい」
キャルははっきり頷いた。
「そうです」
その答えで、部屋の何人かはもう完全に黙った。
怒っているのか、呆れているのか、計算しているのか、顔だけでは分からない。だが少なくとも、もう「侍女風情」だの「小娘」だのと軽く言える空気ではなくなっている。
国王はしばらく整理表を見下ろしていたが、やがて静かに言った。
「よく分かった」
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
局長がすぐに口を開く。
「では、祭礼特別支出は定常費への組み替え前提で再提出を」
「親衛隊増員要求は、翌年度への影響込みで再計算」
「南部防備費は現地備蓄との差額説明を追加」
財務局側の声が一気に動く。
今まで貴族たちが押していた流れが、はっきり変わった。
数字が一度そろってしまうと、人はもう元の言い分だけでは押し切れない。
それが予算というものなのだろう。
キャルはそこでようやく、小さく息を吐いた。
疲れた。
本当に疲れた。
数字を並べるのはいい。だが、その先で人間がどう崩れるかまで見せられるのは、かなり疲れる。
国王が最後に一度だけキャルを見た。
「其方」
「はい」
「王の天秤というのは、こういう者のことを言うのかもしれんな」
その一言に、部屋がまた静まる。
やめてほしい、とキャルは本気で思った。
そういう呼び方はよくない。とてもよくない。持ち上げられることは、そのまま意味になる。意味は人を呼ぶ。人は仕事を増やす。
つまり最悪である。
だがここで「やめてください」と言えるはずもない。
「……恐れ多いです」
どうにかそれだけ返すと、国王は小さく口元を動かした。
笑ったのかどうか、ぎりぎり分からない程度だった。
審議会が終わって部屋を出た時には、キャルは本当に少しふらついた。
ルネが横で小声で言う。
「大丈夫ですか」
「よくありません」
「でしょうね」
その返しすら、今日はやけに遠く聞こえる。
「王の天秤、は」
ルネが少しだけ困ったように言う。
「……かなり効きましたね」
「最悪です」
キャルは即答した。
「そんなもの、効かなくていいんです」
「ですが、陛下の一言ですから」
「知ってます」
だから困るのだ。
財務局へ戻る廊下の途中で、すでに何人かの官吏がこちらを見ていた。噂は回る。しかも国王の口から出た言葉は、回る速度まで違う。
王の天秤。
そんな大げさなものになりたいわけではない。
ただ、読みにくい紙を読みやすくしたかっただけだ。
でも、数字を揃えてしまうと、人は勝手に意味を乗せる。
そういう場所にいるのだと、あらためて思い知らされる。
小部屋へ戻ると、机の上には新しい紙がもう一束増えていた。
キャルはしばらくそれを見つめ、それから深く、長くため息をついた。
「……増えると思いました」
ルネはそれに何も返さなかった。
返せなかったのだろう。
それでもキャルは、しばらく黙って紙の山を見下ろしていた。
結局こうなるのだ。
目立てば紙が増える。
紙が増えれば仕事が増える。
仕事が増えれば、また目立つ。
どこかで止めたいのに、数字の方が止まってくれない。
その循環の中に、自分はもうかなり深く入ってしまったのだと、キャルはようやく認めるしかなかった。
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