『無彩の婚礼に、絵筆で抗います ―伯爵令嬢カリナの色彩革命―』

３話

カリナ・ステラリアにとって、絵を描くことはずっと「ささやかな楽しみ」であり、いつの間にか胸の奥にしまっておくようになった「自分だけの夢」だった。

けれど――
ヴェイル公爵家との婚約が決まったその日から、その夢はゆっくりと、暗い霧の向こう側へ押しやられていく。

　

婚約が公になってからの数日間、ステラリア家はずっと「お祝いモード」だった。

朝から晩まで客が訪れ、王都の名のある貴族はもちろん、顔の広い商人や芸術家までもが「おめでとうございます」と言いに来る。

おかげで、カリナが一人になれる時間はほとんどない。

廊下を歩けば誰かに呼び止められ、部屋に戻れば侍女が次の予定を告げに来る。

（……私の人生の主役って、いったい誰なのかしら）

心にぽっかり空いた穴だけが、日ごとに少しずつ大きくなっていった。

　

ある夕暮れ。
ようやく最後の来客が帰り、静けさが屋敷に戻ったころ。

カリナは自室のドアを閉め、スカートの裾をつまんだまま、大きく息を吐いた。

「絵筆を握る暇なんて、とてもないわ……」

部屋の片隅には、埃をかぶりかけたイーゼルと、閉じっぱなしのスケッチブック、そして大切にしてきた画材たち。

つい数週間前までは、暇さえあればイーゼルの前に座り、季節の花や小鳥を描き留めていたのに――

婚約の話が持ち上がってから、その姿を見た者は誰もいない。
というより、カリナ自身がそこへ向かう気力をどこかに落としてきてしまった。

　

その日は一日中、「来週の婚約式」の打ち合わせだった。

指輪の交換、誓いの言葉、賓客の配置、料理メニュー、余興の内容。

父は妙に上機嫌で、

「王都一の音楽隊を呼ぶぞ」
「特別なワインを取り寄せるか」

と、勢いよく案を出し続ける。

伯爵家として恥をかきたくない気持ちは分かる。
……分かるのだが、そこに「カリナ本人の意見」が入り込む余地は、見事なまでにゼロだった。

　

「お嬢様、明日は生地のお色味を最終確認いたしますので、朝一番にドレス係とお打ち合わせをお願いしたく……こちらの予定でよろしゅうございますね」

侍女長が手帳を片手に、すらすらと予定を読み上げる。

カリナは小さく頷きながら、心の中でそのスケジュール帳を巨大な蜘蛛の巣か何かのように思った。

（こうやって少しずつ、自由って絡め取られていくのね……）

ドレスの色、刺繍の糸、宝石の配置から、当日の表情や仕草に至るまで。

「伯爵令嬢として完璧であること」が、いつの間にか彼女の日常のすべてを埋め尽くしはじめていた。

　

夜更け。
屋敷の灯りが次々と落ちていき、ようやく静寂が戻ってくる。

そのときになってようやく、カリナは机に向かおうという気になった。

閉じられたままのスケッチブックをそっと開く。

そこには、草花の鮮やかな色合い、空の青、愛らしい動物たち――
幼いころの自分が、まっすぐなときめきのまま描いた世界が並んでいた。

（……こんなふうに描いていたんだ、私）

ページをめくる指がかすかに震える。

鉛筆を握ってみるものの、手の中に力が入らない。

描きたい景色は、ちゃんと頭の中にあるはずなのに。
線を引こうとするたび、「婚約」という言葉が後ろから襟首をつかんで引き止めてくる気がした。

　

（描きたいものは、確かにあるのに……）

心の中の声は切実なのに、鉛筆の先は白紙の上で迷子になったまま。

思い浮かぶのは、あの父の顔。

「芸術など、ただのお遊びだ」

何度となく聞かされた言葉が、耳の奥でこだまする。

今や周囲の誰もが、カリナを“エドリック・ヴェイルの婚約者”としてしか見ていない。

その視線を思い出すたび、絵を描く行為がとんでもなく“わがままな反抗”に思えてしまうのだ。

　

カリナはそっと鉛筆を置き、スケッチブックを閉じた。

それはまるで、自分の手で夢に蓋をする儀式のようだった。

（いつか、画家になれたら――なんて、思ってた頃もあったのにね）

今、その言葉を口にしたらどうなるだろう。

父には鼻で笑われ、周囲には呆れられるのが目に見えている。

「家のために」「婚約者のために」
そう言われれば言われるほど、自分の願いなんて、声にしてはいけないことのように思えてしまう。

　

翌朝。

寝不足のまま、カリナは食堂へ向かった。

いつも通りの位置に父が座り、新聞を広げて眉間に皺を寄せている。

政治、経済、社交界の噂――婚約騒ぎの最中でも、彼の興味はそちらが本命らしい。

母も席にはいるが、相変わらず控えめな微笑みを浮かべるばかりで、カリナに特別な言葉をかけることはない。

この家では、父の言葉が絶対で、母はそれを静かに受け止めるだけなのだ。

　

カリナが椅子に腰を下ろしたとき、父はようやく新聞から顔を上げた。

「来週の婚約式だが、準備に抜かりはないだろうな。ヴェイル公爵家が相手だ。粗相は断じて許されん」

「……はい」

小さな返事に、父はさらに続ける。

「式の前日には、ドレス、装飾品、音楽隊、余興の舞――すべて最終確認をしろ。エドリック殿下に恥をかかせるような真似はするな。よいな」

その口調には、「お前の気持ちや都合はどうでもいい」という本音が透けて見える。

カリナはスプーンを握りしめ、視線を落とした。

反論しても無駄。
その事実が、胸の奥をじわりと冷たくしていく。

　

朝食後、カリナは侍女長と一緒に広間へ。

今日もまた、ドレス係との打ち合わせが待っていた。

前回見たものとよく似た正装用ドレス――ただし、父の意向により、さらにレースと金糸と宝石を盛り盛りにした「完全版」らしい。

試着するたび、締め付けられたコルセットに息が詰まりそうになる。

「伯爵さまのご要望も踏まえつつ、より上品で豪華に仕上げてみました。いかがでしょう、お嬢様？」

期待に満ちた笑顔を向けられても、返せる言葉は限られている。

「……とても、素敵だと思います」

本心かどうかは誰にも分からない。
少なくとも、聞いてきた本人たちは、それで満足そうに頷いた。

華やかさを競うように飾られていくドレスたち。
だが、その内側で息苦しさに耐えている令嬢の存在には、誰も気づこうとしない。

　

昼すぎには宝石商が現れ、ネックレスやイヤリングのサンプルを並べていく。

父の相談役の貴族たちも入れ替わり立ち替わり現れ、「この構図なら公爵家の印象がいい」だの「あの客を前列に座らせるべきだ」だのと意見を交わしていた。

母はいつの間にか姿を消し、奥の部屋へ引きこもっている。

（みんな、楽しそうね……）

楽しそう、というのは、あくまで外から見た感想でしかない。
少なくとも、この場で「つらい」と言えるのは、きっと自分だけだ。

　

ようやく夕方になって、打ち合わせは散会。

廊下を歩きながら、カリナは壁の時計をちらりと見上げた。

思っていた以上に時間が経っていて、今日もまた「自分だけの時間」はほとんど残されていない。

部屋に戻ると、机の上には昨夜と同じようにスケッチブックが置かれていた。

けれど、手を伸ばす気力が湧いてこない。

そのままベッドに身を投げ出し、天井を見上げて小さく呟く。

（こんな日々が続いたら……本当に、私は絵を描かなくなってしまうのかもしれない）

思考の端で、自嘲めいた笑いが生まれては消えていく。

夢は、少しずつ現実から遠ざかり、静かに閉じ込められていく。

（いっそ、自分から手放した方が楽なのかしら）

そんな弱気も一瞬よぎる。

けれど、絵を描くときに感じる、あのどうしようもなく自由な感覚を思い出すと――
胸の奥が、きゅっと痛んだ。

それは、カリナにとって唯一の“光”だった。

それを失うということは、自分自身の輪郭まで失ってしまうということ。

だからこそ、筆を握るのが怖くてたまらないのに、同時に――

（まだ……全部を諦めたくはない）

そう思ってしまう自分も、確かにそこにいる。

　

――こうして、カリナの「夢」は、婚約という契約の影に追いやられ、静かに封じ込められつつあった。

ステラリア家の令嬢としての責務に押し流され、「完璧な花嫁」であることだけが求められる日々。

本当にそれしか道はないのかと自問しながらも、彼女は結局、流れに逆らえず眠りに落ちていく。

その夜は、出口の見えない迷路に迷い込んだような、重たい暗がりの中の眠りだった。

ただひとつ――

婚約が決まったあの夜、小さな日記帳に書き残した言葉。

「私は道具になるつもりはない」

その一行だけが、かすかな火種のように、まだ胸の底でくすぶり続けている。

　

その火がどんな形で未来を変えていくのか。
それを知る者は、まだ誰もいない。

カリナ自身でさえも。