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11話
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王宮東翼――政務執務室。
夜半をとうに過ぎたというのに、白壁の間にはまだ無数の蝋燭が揺れていた。高窓から射し込む月光は弱く、代わりに机上の書類が燭台の炎で赤く染まる。その中央で、王太子アルフォンスはペンを握ったまま固まっていた。
「……どうして、こうも終わらん」
唇を噛みしめ、視線を左へ動かす。そこには“未決”の札が挟まった帳簿の山――昨日より二倍に膨れた紙の塔がそびえている。右手には“至急”の束。こちらも山脈クラス。
「殿下、水を」
側近騎士ロレンツォが銀杯を差し出す。受け取ったアルフォンスは一息で喉へ流し込み、即座に胃の奥が軋むのを感じた。空腹と疲労で胃壁が悲鳴を上げている。だが休めば書類が雪崩を起こす。
「影務官はどうした!?」
「昨夜から泊まり込みで手伝わせておりますが、追いつきません」
「影務官十人で追いつかん仕事を、あいつは一人で──」
言いかけて言葉を飲み込む。思い浮かんだのは、淡いミントグリーンのドレスを揺らしながら、淡々と政務を片付けていた元婚約者――シャル・ド・ネ・アルベール。
“婚約破棄”の瞬間、彼女が王宮で担っていた裏方仕事も消滅した。それがどれほど大きかったのか、いま身をもって思い知らされている。
「殿下、財務長官から督促状です。『今年度予算案が止まっている』と」
「先に回しておけ!」
「すでに三度、回しております!」
ロレンツォの声が裏返った。アルフォンスは髪をかきむしる。王宮の歯車が軋み始めた音が、壁の向こうからも聞こえてくる気がした。
夜明け前、鳥が鳴く。執務室では蝋燭が三度目の取り替えを迎えていた。
「殿下、こちら税制改正案の最終確認です」
「そこは第三節を丸ごと削れ。庶民への減税を強調する」
「ですが整合性が――」
「細かい数字は後回しだ!」
ペンが滑り、インク壺を倒す。黒い染みが書類に広がり、侍従官が青ざめる。アルフォンスは額を押さえ、椅子にもたれかかった。
(……なぜだ。俺は正しいことをしたはずだ)
“真実の愛”を貫く英雄。それが自分の物語になると信じていた。だが現実は、紙と数字と締切に追い詰められた社畜王子。
視界の端で、ロレンツォが胃薬の瓶を握りしめている。もう殿下用の常備薬は底を突き、騎士団の救急箱を漁ったらしい。
「殿下……公爵令嬢を呼び戻しては」
囁くような提案。アルフォンスはぎょろりと睨んだ。
「――馬鹿を言うな! 俺が頭を下げるとでも?」
「しかしこのままでは、国王陛下の叱責どころか、政務が完全に麻痺します」
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「殿下ッ!」
現れた侍従が震える手で文書を掲げる。王印の赤い蝋封。
「陛下より直々の御沙汰。『進捗報告を今夜の御前会議で行え』とのことです」
室内の空気が凍った。アルフォンスは封書を受け取り、わずかに震える手で開く。文面は短い。〈滞るなら理由を説明せよ〉――それだけ。だが、その重みは計り知れない。
ぐらり、と視界が揺れた。胃がきしみ、冷汗が背中をつたう。ロレンツォが慌てて支える。
「殿下、ご無理です! 一度お休みに――」
「休めるか!!」
机を拳で叩くと、未決の山が崩れ、紙吹雪が舞った。蝋燭の炎が揺れ、影が壁を走る。
(なぜだ。なぜ彼女を手放した……?)
自問が胸を抉る。あの時、シャルは何も言わず去った。泣きも怒りもせず、ただ淡く微笑み――まるで自由を手に入れた鳥のようだった。
その笑顔が脳裏に浮かび、アルフォンスは思わずペンを握り直す。
「……ロレンツォ」
「はっ」
「公爵家へ書状を出す。形式は“政務協力のお願い”だ。俺の名は伏せろ。宮内庁名義でいい」
「殿下……!」
騎士の瞳に映るのは、敗北を認めた主君の横顔。アルフォンスは肩で息をしながらも、プライドの残骸をかき集めるように言った。
「誤解するな。これは国のためだ。俺のためではない」
「承知いたしました」
ロレンツォが深く一礼し、部屋を出ていく。残されたアルフォンスは崩れた書類の中で膝に肘を置き、額を押さえた。
窓の外では、東の空が白み始めている。夜明けは新しい希望を連れてくるというが、今の彼に差し込むのは、逃げ場を奪う冷たい光だ。
(頼む……シャル。俺の物語を、もう一度動かしてくれ)
その祈りは、やがて届かないと知ることになる。なぜなら――シャル・ド・ネ・アルベールは、今日も昼までぐっすり眠る予定なのだから。
王都最大の夜会場〈クリスタル・パレス〉。
無数のシャンデリアが放つ光が、磨き上げられた大理石の床に乱反射し、宵のきらめきを閉じ込めたガラスの箱庭のようだった。
だが今夜、その豪奢な空間を埋め尽くす貴婦人たちの視線は、氷の刃に似て冷ややかだった。
「ご覧になって、あれが“真実の愛”ですって」
「まぁ……お母上のドレスをそのまま短くしたようなお仕立てね」
「しかも手袋が肘上丈じゃないわ。マナーを知らない証拠よ」
囁きはレース扇の奥で毒を含み、かすかな笑いへ変わる。
その的となっているのは、緊張で肩をすぼめた金髪の少女――レミィ・ブランシュ。
王太子アルフォンスが“真実の愛”を宣言し、婚約者候補として連れてきた平民出身の令嬢である。
夜半をとうに過ぎたというのに、白壁の間にはまだ無数の蝋燭が揺れていた。高窓から射し込む月光は弱く、代わりに机上の書類が燭台の炎で赤く染まる。その中央で、王太子アルフォンスはペンを握ったまま固まっていた。
「……どうして、こうも終わらん」
唇を噛みしめ、視線を左へ動かす。そこには“未決”の札が挟まった帳簿の山――昨日より二倍に膨れた紙の塔がそびえている。右手には“至急”の束。こちらも山脈クラス。
「殿下、水を」
側近騎士ロレンツォが銀杯を差し出す。受け取ったアルフォンスは一息で喉へ流し込み、即座に胃の奥が軋むのを感じた。空腹と疲労で胃壁が悲鳴を上げている。だが休めば書類が雪崩を起こす。
「影務官はどうした!?」
「昨夜から泊まり込みで手伝わせておりますが、追いつきません」
「影務官十人で追いつかん仕事を、あいつは一人で──」
言いかけて言葉を飲み込む。思い浮かんだのは、淡いミントグリーンのドレスを揺らしながら、淡々と政務を片付けていた元婚約者――シャル・ド・ネ・アルベール。
“婚約破棄”の瞬間、彼女が王宮で担っていた裏方仕事も消滅した。それがどれほど大きかったのか、いま身をもって思い知らされている。
「殿下、財務長官から督促状です。『今年度予算案が止まっている』と」
「先に回しておけ!」
「すでに三度、回しております!」
ロレンツォの声が裏返った。アルフォンスは髪をかきむしる。王宮の歯車が軋み始めた音が、壁の向こうからも聞こえてくる気がした。
夜明け前、鳥が鳴く。執務室では蝋燭が三度目の取り替えを迎えていた。
「殿下、こちら税制改正案の最終確認です」
「そこは第三節を丸ごと削れ。庶民への減税を強調する」
「ですが整合性が――」
「細かい数字は後回しだ!」
ペンが滑り、インク壺を倒す。黒い染みが書類に広がり、侍従官が青ざめる。アルフォンスは額を押さえ、椅子にもたれかかった。
(……なぜだ。俺は正しいことをしたはずだ)
“真実の愛”を貫く英雄。それが自分の物語になると信じていた。だが現実は、紙と数字と締切に追い詰められた社畜王子。
視界の端で、ロレンツォが胃薬の瓶を握りしめている。もう殿下用の常備薬は底を突き、騎士団の救急箱を漁ったらしい。
「殿下……公爵令嬢を呼び戻しては」
囁くような提案。アルフォンスはぎょろりと睨んだ。
「――馬鹿を言うな! 俺が頭を下げるとでも?」
「しかしこのままでは、国王陛下の叱責どころか、政務が完全に麻痺します」
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「殿下ッ!」
現れた侍従が震える手で文書を掲げる。王印の赤い蝋封。
「陛下より直々の御沙汰。『進捗報告を今夜の御前会議で行え』とのことです」
室内の空気が凍った。アルフォンスは封書を受け取り、わずかに震える手で開く。文面は短い。〈滞るなら理由を説明せよ〉――それだけ。だが、その重みは計り知れない。
ぐらり、と視界が揺れた。胃がきしみ、冷汗が背中をつたう。ロレンツォが慌てて支える。
「殿下、ご無理です! 一度お休みに――」
「休めるか!!」
机を拳で叩くと、未決の山が崩れ、紙吹雪が舞った。蝋燭の炎が揺れ、影が壁を走る。
(なぜだ。なぜ彼女を手放した……?)
自問が胸を抉る。あの時、シャルは何も言わず去った。泣きも怒りもせず、ただ淡く微笑み――まるで自由を手に入れた鳥のようだった。
その笑顔が脳裏に浮かび、アルフォンスは思わずペンを握り直す。
「……ロレンツォ」
「はっ」
「公爵家へ書状を出す。形式は“政務協力のお願い”だ。俺の名は伏せろ。宮内庁名義でいい」
「殿下……!」
騎士の瞳に映るのは、敗北を認めた主君の横顔。アルフォンスは肩で息をしながらも、プライドの残骸をかき集めるように言った。
「誤解するな。これは国のためだ。俺のためではない」
「承知いたしました」
ロレンツォが深く一礼し、部屋を出ていく。残されたアルフォンスは崩れた書類の中で膝に肘を置き、額を押さえた。
窓の外では、東の空が白み始めている。夜明けは新しい希望を連れてくるというが、今の彼に差し込むのは、逃げ場を奪う冷たい光だ。
(頼む……シャル。俺の物語を、もう一度動かしてくれ)
その祈りは、やがて届かないと知ることになる。なぜなら――シャル・ド・ネ・アルベールは、今日も昼までぐっすり眠る予定なのだから。
王都最大の夜会場〈クリスタル・パレス〉。
無数のシャンデリアが放つ光が、磨き上げられた大理石の床に乱反射し、宵のきらめきを閉じ込めたガラスの箱庭のようだった。
だが今夜、その豪奢な空間を埋め尽くす貴婦人たちの視線は、氷の刃に似て冷ややかだった。
「ご覧になって、あれが“真実の愛”ですって」
「まぁ……お母上のドレスをそのまま短くしたようなお仕立てね」
「しかも手袋が肘上丈じゃないわ。マナーを知らない証拠よ」
囁きはレース扇の奥で毒を含み、かすかな笑いへ変わる。
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