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1話
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エリシア・フォン・ラヴェル侯爵令嬢――それが、私の名前である。
ラヴェル侯爵家は、王都でも古くから続く名家のひとつだ。歴史だけを見れば誇れる家柄ではあるが、近年の社交界で目立つ存在かと問われれば、答えは否である。派手な後援者がいるわけでもなく、目新しい功績を誇示することもない。堅実で、実直で、そしてどこか地味。良く言えば安定、悪く言えば存在感に欠ける家だった。
そして、その家の長女である私もまた、家柄と同じような評価を受けていた。
私に与えられた二つ名は――『幸薄い令嬢』。
それを最初に誰が言い出したのかは知らない。だが、気がつけば社交界ではそう囁かれるようになっていたらしい。華やかな舞踏会にもほとんど顔を出さず、社交の中心に立つこともない。装いも控えめで、笑顔も大人しく、感情を表に出すことが少ない。そのせいで、どうやら「不幸そう」「薄幸そう」と映ったようだ。
もっとも、当の本人である私は、その評価を聞いても特別傷ついたことはなかった。
(幸薄い、ですか……)
初めて耳にしたときは、思わず心の中でそう繰り返してしまったけれど、不思議と腹は立たなかった。それどころか、少しだけ肩の力が抜けたような気さえした。
目立たないということは、裏を返せば、余計な期待をされないということでもある。過度に注目されず、過剰な役割を押し付けられず、自分の時間を静かに守ることができる――私にとって、それはむしろ好都合だった。
私は社交界のきらびやかな空気よりも、侯爵家の広い庭園で過ごす時間の方が好きだった。朝露に濡れた土の匂い、温室に満ちるハーブの香り、葉の色や形の微妙な違いを眺めながら、新しい品種を試す時間。午後には書斎で本を読み、気が向けば焼き菓子を作る。
砂糖とバターの甘い香りが屋敷に広がると、それだけで心が落ち着いた。
誰かに称賛されなくてもいい。拍手を浴びなくても構わない。静かで、穏やかで、自分の好きなことに囲まれた日常――それこそが、私にとっての幸福だった。
だから私は、自分が『幸薄い令嬢』と呼ばれていることに、特別な反論をする気にもならなかったのだ。
そんな私の日常が、音を立てて変わり始めたのは、ある日の午後のことだった。
「エリシア、少し執務室まで来てくれるか」
父――ラヴェル侯爵が、珍しく改まった口調で私を呼び止めたのだ。
父は普段から穏やかな人物で、私に対しても干渉の少ない人だった。その父が「話がある」と言う時は、たいてい領地の収支や、些細な家内の相談事くらいである。だがその日の父の表情は、明らかにいつもと違っていた。
「お呼びですか、お父様」
執務室に入ると、父は机に向かったまま、しばらく沈黙していた。書類に視線を落としたまま、何度か息を整えるように深く息を吸っている。その様子を見て、私は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
「……実はな」
やがて父は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「お前に、縁談の話が来ている」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……縁談、ですか?」
思わずそう聞き返すと、父は小さく頷いた。
「ああ。王都の公爵家からの正式な申し入れだ」
公爵家。
その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。私はこれまで一度も、正式な縁談を持ち込まれたことがない。侯爵家の令嬢として最低限の釣り合いはあっても、社交界での評価は決して高くない。それを、なぜ今になって――しかも公爵家が?
「……どちらの公爵家でしょうか」
慎重に尋ねると、父は一瞬、視線を逸らした。
「ディーン・フォン・アルベリオン公爵家だ。跡取りであるディーン殿との縁談だよ」
その名を聞いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
ディーン・アルバート・フォン・アルベリオン。王都で彼の名を知らぬ者はいない。金髪碧眼の美貌、優れた家柄、社交界での高い人気。だが同時に、冷酷で尊大、令嬢を軽んじる人物としても知られている男。
どう考えても、私とは釣り合わない。
「……なぜ、私なのでしょうか」
率直な疑問が口をついて出た。父はしばらく黙り込んだ後、重い口を開く。
「実はな……ディーン殿には、すでに心に決めた女性がいるらしい」
その相手は、平民の娘だという。
公爵家の正妻として迎えることはできず、しかし家の体面を保つためには、家柄の整った妻が必要――そういう事情だと、父は説明した。
つまり。
これは、愛情を前提としない結婚。いわゆる『白い結婚』。
父は言葉を選びながら続けた。
「無理にとは言わない。ただ……家の事情もある。どうか、少し考えてくれないか」
父の表情には、確かな申し訳なさがあった。
私はその顔を見つめながら、静かに考えた。
愛のない結婚。名目だけの妻。干渉されない関係。
(……それは、本当に不幸なことなのかしら)
社交界の中心に立ち、華やかな役割を押し付けられる結婚よりも、よほど気楽なのではないだろうか。相手が私に興味を持たないのであれば、私も無理に期待に応える必要はない。
それどころか――。
(自由が、守られるのなら……)
私にとって、それはむしろ理想に近い条件だった。
私はゆっくりと顔を上げ、父に向かって微笑んだ。
「……分かりました。お父様。そのお話、お受けいたします」
父は驚いたように目を見開き、そして深く息を吐いた。
「本当にいいのか、エリシア……」
「ええ。私は、大丈夫です」
その時の私はまだ、この選択が、私の人生を大きく変える第一歩になることを知らなかった。
けれど少なくとも――この瞬間、私は確信していた。
この縁談は、私にとって「不幸の始まり」ではない。
むしろ、静かで自由な未来へと続く、扉なのだと。
ラヴェル侯爵家は、王都でも古くから続く名家のひとつだ。歴史だけを見れば誇れる家柄ではあるが、近年の社交界で目立つ存在かと問われれば、答えは否である。派手な後援者がいるわけでもなく、目新しい功績を誇示することもない。堅実で、実直で、そしてどこか地味。良く言えば安定、悪く言えば存在感に欠ける家だった。
そして、その家の長女である私もまた、家柄と同じような評価を受けていた。
私に与えられた二つ名は――『幸薄い令嬢』。
それを最初に誰が言い出したのかは知らない。だが、気がつけば社交界ではそう囁かれるようになっていたらしい。華やかな舞踏会にもほとんど顔を出さず、社交の中心に立つこともない。装いも控えめで、笑顔も大人しく、感情を表に出すことが少ない。そのせいで、どうやら「不幸そう」「薄幸そう」と映ったようだ。
もっとも、当の本人である私は、その評価を聞いても特別傷ついたことはなかった。
(幸薄い、ですか……)
初めて耳にしたときは、思わず心の中でそう繰り返してしまったけれど、不思議と腹は立たなかった。それどころか、少しだけ肩の力が抜けたような気さえした。
目立たないということは、裏を返せば、余計な期待をされないということでもある。過度に注目されず、過剰な役割を押し付けられず、自分の時間を静かに守ることができる――私にとって、それはむしろ好都合だった。
私は社交界のきらびやかな空気よりも、侯爵家の広い庭園で過ごす時間の方が好きだった。朝露に濡れた土の匂い、温室に満ちるハーブの香り、葉の色や形の微妙な違いを眺めながら、新しい品種を試す時間。午後には書斎で本を読み、気が向けば焼き菓子を作る。
砂糖とバターの甘い香りが屋敷に広がると、それだけで心が落ち着いた。
誰かに称賛されなくてもいい。拍手を浴びなくても構わない。静かで、穏やかで、自分の好きなことに囲まれた日常――それこそが、私にとっての幸福だった。
だから私は、自分が『幸薄い令嬢』と呼ばれていることに、特別な反論をする気にもならなかったのだ。
そんな私の日常が、音を立てて変わり始めたのは、ある日の午後のことだった。
「エリシア、少し執務室まで来てくれるか」
父――ラヴェル侯爵が、珍しく改まった口調で私を呼び止めたのだ。
父は普段から穏やかな人物で、私に対しても干渉の少ない人だった。その父が「話がある」と言う時は、たいてい領地の収支や、些細な家内の相談事くらいである。だがその日の父の表情は、明らかにいつもと違っていた。
「お呼びですか、お父様」
執務室に入ると、父は机に向かったまま、しばらく沈黙していた。書類に視線を落としたまま、何度か息を整えるように深く息を吸っている。その様子を見て、私は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
「……実はな」
やがて父は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「お前に、縁談の話が来ている」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……縁談、ですか?」
思わずそう聞き返すと、父は小さく頷いた。
「ああ。王都の公爵家からの正式な申し入れだ」
公爵家。
その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。私はこれまで一度も、正式な縁談を持ち込まれたことがない。侯爵家の令嬢として最低限の釣り合いはあっても、社交界での評価は決して高くない。それを、なぜ今になって――しかも公爵家が?
「……どちらの公爵家でしょうか」
慎重に尋ねると、父は一瞬、視線を逸らした。
「ディーン・フォン・アルベリオン公爵家だ。跡取りであるディーン殿との縁談だよ」
その名を聞いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
ディーン・アルバート・フォン・アルベリオン。王都で彼の名を知らぬ者はいない。金髪碧眼の美貌、優れた家柄、社交界での高い人気。だが同時に、冷酷で尊大、令嬢を軽んじる人物としても知られている男。
どう考えても、私とは釣り合わない。
「……なぜ、私なのでしょうか」
率直な疑問が口をついて出た。父はしばらく黙り込んだ後、重い口を開く。
「実はな……ディーン殿には、すでに心に決めた女性がいるらしい」
その相手は、平民の娘だという。
公爵家の正妻として迎えることはできず、しかし家の体面を保つためには、家柄の整った妻が必要――そういう事情だと、父は説明した。
つまり。
これは、愛情を前提としない結婚。いわゆる『白い結婚』。
父は言葉を選びながら続けた。
「無理にとは言わない。ただ……家の事情もある。どうか、少し考えてくれないか」
父の表情には、確かな申し訳なさがあった。
私はその顔を見つめながら、静かに考えた。
愛のない結婚。名目だけの妻。干渉されない関係。
(……それは、本当に不幸なことなのかしら)
社交界の中心に立ち、華やかな役割を押し付けられる結婚よりも、よほど気楽なのではないだろうか。相手が私に興味を持たないのであれば、私も無理に期待に応える必要はない。
それどころか――。
(自由が、守られるのなら……)
私にとって、それはむしろ理想に近い条件だった。
私はゆっくりと顔を上げ、父に向かって微笑んだ。
「……分かりました。お父様。そのお話、お受けいたします」
父は驚いたように目を見開き、そして深く息を吐いた。
「本当にいいのか、エリシア……」
「ええ。私は、大丈夫です」
その時の私はまだ、この選択が、私の人生を大きく変える第一歩になることを知らなかった。
けれど少なくとも――この瞬間、私は確信していた。
この縁談は、私にとって「不幸の始まり」ではない。
むしろ、静かで自由な未来へと続く、扉なのだと。
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