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第3章:義妹と王太子の破滅
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わたくし、リュシエンヌ・ド・ベルナールは“王太子フィリップに婚約を破棄された公爵令嬢”として、しばらく社交界の噂の的になっておりました。ですが、その状態もそう長くは続きません。なにしろ、間を置かずしてわたくしは“ヴァレンティン・ド・ルーアン公爵の婚約者”になったからです。
ルーアン公爵といえば王太子のライバルであり、軍部や政治の世界で圧倒的な権力を持つ若き公爵。名門ベルナール家の令嬢が、王太子との破談直後に彼と婚約する――この衝撃的な展開は、否が応にも人々の注目を集めることになりました。
「リュシエンヌはむしろ、あの冷徹な公爵と相性がいいのでは?」
「王太子が捨てた令嬢を、あのヴァレンティン公爵が拾うなんて。どういうつもりかしら?」
「きっと王太子の面目を潰すために違いないわ」
そういった憶測や噂話が飛び交う中、実際のところわたくしはというと、“形式上の婚約”による自由な暮らしを守るべく、日々のんびりと過ごすので精一杯でした。朝寝坊に読書三昧、美味しいお菓子を堪能しながら、合間に最低限の婚約準備をこなす――そんな生活が板についてきて、わたくし自身はすこぶる快適です。
もっとも、ヴァレンティン公爵ときちんと顔を合わせる場が増えたことで、多少の気疲れがないわけではありません。なんといっても、彼は自他ともに認める“冷徹な公爵”。必要なことしか話さず、わたくしにもロマンティックな言葉や甘い囁きなどは微塵もありません。
しかし、彼はわたくしの希望したとおり、本当に“わたくしの自由”を尊重してくれています。まるで“白い婚約”の言葉どおり、互いに深く干渉しようとはせず、「最低限の公務と社交行事だけ頼む」と告げられただけ。わたくしに変な束縛をかけるようなことは今のところありません。
さて、そんな落ち着き始めた日常に大きな波紋を起こしたのは、やはり王太子フィリップとわたくしの義妹マリアンヌの噂でした。
王太子と義妹の不穏な噂
わたくしは正午近くに起床し、いつものように朝食ならぬ昼食をダイニングで摂っている最中でした。侍女のジャンヌが「お嬢様、実は昨夜から妙な噂を耳にしまして……」と切り出したとき、わたくしはバタ付きのクロワッサンをかじっていたところです。
「妙な噂?」
ジャンヌは困惑したような顔で、声を潜めるように続けました。
「はい。近頃、王太子殿下と新たな婚約者であるマリアンヌ様の仲が、どうも芳しくないとか……。あのマリアンヌ様が王宮でわがままを繰り返していて、既に侍女たちや貴族の方々の間で悪評が広まっているそうなのです」
その言葉にわたくしは心の中で「ああ、やっぱり」と呟きました。マリアンヌはわたくしの義妹で、継母が連れ子としてベルナール家にやってきた娘。表向きは「姉様」と慕ってくれるフリをしていましたが、幼い頃から他者への嫉妬や僻みが強く、手段を選ばないところがありました。
彼女はわたくしを陥れて王太子の婚約を奪ったのですが、わたくしは“王太子妃”という地位にそもそも興味がなかったから、正直「どうぞご自由に」という気持ち。その後、わたしは彼女の挙動をほとんど気にしてこなかったのです。でも、やはりそう簡単に王太子妃という立場は務まらないでしょう。
「まあ、そうでしょうね。あの子、自分が中心でないと気が済まないタイプですもの。きっと王宮という華やかな舞台で、やりたい放題に振る舞っているのでしょう」
そう言ってバターを塗ったクロワッサンをもう一口。実を言うと、わたくしとしては「へえ、それは大変ね」ぐらいの感想しかありません。すでに興味が失せているというか、王太子とマリアンヌの今後がどうなろうと、ほとんど関係ない生活を送っているからです。
しかし、ジャンヌはなおも神妙な面持ちでこう続けました。
「ですが、実はそれだけではなく……。マリアンヌ様が“王太子殿下の子を身ごもっている”と大々的に発表しようとしているそうなのです。それが真実かどうか、あまりに怪しいという噂が飛び交っていまして……」
その瞬間、わたくしはさすがに飲んでいた紅茶を吹き出しそうになりました。
「えっ、子どもを……? まだ正式に挙式も済ませていないのに、ですか?」
わたくしの知る限り、王宮ではまだ「マリアンヌが王太子殿下と結婚した」という正式な報せは出ていません。確かに“王太子婚約者”として社交界に紹介はされましたが、先日までわたくしが王太子妃の座に座っていた(というか形だけ)わけですし、手続きがスムーズに運ぶとも思えません。もし実際に子を宿したのなら、いささか順番が逆というか、波紋を呼ぶこと必至でしょう。
ジャンヌは困ったように微妙な表情を浮かべながら、テーブルの端に手をやります。
「わたしも詳しいことは聞きかじり程度ですが……どうやら実際には妊娠などしておらず、“ただ殿下に責任を取らせるための嘘”ではないかと囁かれているのです。近頃マリアンヌ様の挙動が怪しいとか、王宮の侍女が不審な薬草を見つけただとか……もう憶測が飛び交っておりますが、本当のところはわかりません」
「ほう……」
わたくしはクロワッサンを置き、改めて紅茶をゆっくりと飲み下しました。妊娠を装って王太子を動かそうとしている――確かに、マリアンヌならやりかねない手です。彼女はいつだって、自分の目的を叶えるためなら嘘も欺きも辞さない性分でした。わたくしには散々嫌がらせを仕掛けながら、父や家の者の前では「姉様に憧れておりますの……」と涙を浮かべてみせたり。
となれば、今回の“偽りの妊娠”もうまくいくと思っているのでしょう。ですが、王宮の侍女や医師を巻き込んでの嘘など、そう長くは隠し通せるはずがありません。もしバレたら、どうなるか……。
「(まあ、わたくしには関係ありませんわね)」
胸中でそう結論づけ、再びパンを頬張るわたくし。それよりも、今日はルーアン公爵の紹介で手配してもらった仕立屋が屋敷に来る予定なので、そちらに備えておくほうがよほど大切です。“形式的とはいえ婚約式のドレスを”と言われているので、多少はわたくしもこだわるつもり。マリアンヌの不穏な噂など、はっきり言って聞き流していればいい――そう思っておりました。
しかし、その不穏な噂は日に日に増大し、やがて王宮そのものを揺るがす大問題へと発展することになります。マリアンヌがある日突然、「わたくしは王太子殿下の子を宿しました!」と公言し、盛大な祝福を求めようとしたのですが――どうやら、その場で医師に診断書の提示を求められた結果、嘘が露呈したのだとか。
聞けば、王宮の女官長が「王太子の子を宿したならば正式な検診が必要」とすぐに動き、秘密裏に彼女を診察した医師が「まったく妊娠の兆候はありません」と断言したのだそうです。しかも、つい先日まで彼女は“怪しい薬草”を定期的に持ち歩いていたという目撃情報もあり、それがどうやら“妊娠を偽装するときに使われる薬草”である可能性が高いという話まで出てきたとか。
こうなると、マリアンヌの評判は地に落ちます。
「なんて狡猾な女なの」「これだから田舎出身は……」「最低限の貴族の常識すらないの?」
――王宮の女性たちや貴族の間では、彼女への非難が一気に噴出しました。中には、わたくしとの比較を持ち出す人々もいます。
「リュシエンヌ様は公爵家の令嬢として品格をお持ちだったのに、王太子殿下はあんな下品な娘を選んで……」
「結果的にリュシエンヌ様を捨てた殿下の判断が誤りだったということでは?」
「こんな女が将来の王妃になるの? 信じられないわ」
もともとマリアンヌが“自ら王太子を誘惑し、リュシエンヌから婚約を奪った”という噂は密かに流れていました。それを真に受けた人々は、わたくしがひどい仕打ちに遭っていると思って同情していたのです。ところが、今回の妊娠騒動を受け、彼女の評判は“周りの予想以上に悪質で陰湿”というところまで転落。もはや彼女は社交界で顔を出すたび、陰口どころか露骨に冷たい視線を向けられる始末だとか……。
そのうえ、王太子フィリップがこの騒動に巻き込まれて失墜しはじめます。フィリップ自身は「こんな女だとは思わなかった!」と憤慨しているそうですが――周囲からすれば「いや、婚約を勝手に取り替えたのは殿下のほうでしょう?」という冷ややかな反応。特に国王陛下は激怒しており、「なぜこんな醜聞を起こす娘を妃にしようとしているのか」「そもそも、前の婚約者リュシエンヌ・ド・ベルナール嬢のほうがずっと有能かつ品行方正ではなかったのか」と、王太子を問い詰めているとか……。
噂話を耳にするたび、わたくしは少しだけ同情の念を抱きはするものの、“だからどうした”という冷めた思いも拭えません。わたくしを捨てた結果がこれなのですから、あとはご勝手にというところです。
実際、今のわたくしはヴァレンティン公爵の庇護のもと、婚約発表に向けた準備を粛々とこなしながら、“思っていた以上に”自由な時間を謳歌しています。朝は好きなだけ寝ていいし、お菓子を食べながら読書をしていても周囲から横槍を入れられることもなくなった。王太子と婚約中は考えられなかったほど穏やかです。
それでも、ひとつだけ気がかりだったのは、わたくしの父であるエドモン公爵の様子でした。王太子との婚約が破棄されて間もなく、ルーアン公爵との縁組が決まったことは、政治的にも大きな流れの変化を意味します。ベルナール家はかつて王太子派と目されていた一族。そこが一転してルーアン公爵派とつながることに、周囲の貴族がざわめいているのです。
しかし、父はもうわたくしの思惑を理解していて、余計な口出しはせずにいてくれています。むしろ「娘が笑顔で過ごせるのならそれが一番だ」と言って、背を押してくれました。そう、父はかつて国政を支える要職に就いておりましたが、今はもう昔ほどがむしゃらに権威を追い求めることはしなくなったのです。だからこそ、わたくしが王太子と破局して新たな道を選んだのを、多少驚きつつも黙認してくれたのでしょう。
とはいえ、その父の耳にも王太子とマリアンヌの妊娠騒動の話は届いているらしく、ある日の夕食の席で、父は苦い表情でぽつりと呟きました。
「……リュシエンヌ、マリアンヌの件だが、あれは本当なのか? あの子はまだベルナール家の籍こそ置いているが、王太子妃となる予定ゆえ今は王宮で暮らしている。公爵家として何か対応する必要があるだろうか?」
父の声音は困惑に満ちていました。名目上はまだ“うちの義妹”なのですから、国王や周囲から「自分の家の継娘が国中を騒がせている」という責任を問われる可能性もあるでしょう。
しかし、わたくしはそれを聞いて、かぶりを振りました。
「わたくしが知る限り、マリアンヌは自分の思惑で動いているだけですわ。昔からそうでしたもの。今回も“嘘の妊娠”をでっち上げたか、あるいは勘違いしたか……そのあたりはわかりませんが。いずれにせよ、このまま黙って見守るしかないのでは?」
「そうだな……、こちらが余計な干渉をすれば、かえって火の粉を被るかもしれない」
父も冷静にうなずきました。もし“マリアンヌを説得しに”などと王宮へ行けば、逆に騒ぎが大きくなるだけです。何よりマリアンヌが素直に耳を貸すとは思えません。彼女は幼い頃から、わたくしや継母にすら本心を見せることなく、自分の利益になると思えば平気で裏切るような性格でしたから。
ルーアン公爵といえば王太子のライバルであり、軍部や政治の世界で圧倒的な権力を持つ若き公爵。名門ベルナール家の令嬢が、王太子との破談直後に彼と婚約する――この衝撃的な展開は、否が応にも人々の注目を集めることになりました。
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「王太子が捨てた令嬢を、あのヴァレンティン公爵が拾うなんて。どういうつもりかしら?」
「きっと王太子の面目を潰すために違いないわ」
そういった憶測や噂話が飛び交う中、実際のところわたくしはというと、“形式上の婚約”による自由な暮らしを守るべく、日々のんびりと過ごすので精一杯でした。朝寝坊に読書三昧、美味しいお菓子を堪能しながら、合間に最低限の婚約準備をこなす――そんな生活が板についてきて、わたくし自身はすこぶる快適です。
もっとも、ヴァレンティン公爵ときちんと顔を合わせる場が増えたことで、多少の気疲れがないわけではありません。なんといっても、彼は自他ともに認める“冷徹な公爵”。必要なことしか話さず、わたくしにもロマンティックな言葉や甘い囁きなどは微塵もありません。
しかし、彼はわたくしの希望したとおり、本当に“わたくしの自由”を尊重してくれています。まるで“白い婚約”の言葉どおり、互いに深く干渉しようとはせず、「最低限の公務と社交行事だけ頼む」と告げられただけ。わたくしに変な束縛をかけるようなことは今のところありません。
さて、そんな落ち着き始めた日常に大きな波紋を起こしたのは、やはり王太子フィリップとわたくしの義妹マリアンヌの噂でした。
王太子と義妹の不穏な噂
わたくしは正午近くに起床し、いつものように朝食ならぬ昼食をダイニングで摂っている最中でした。侍女のジャンヌが「お嬢様、実は昨夜から妙な噂を耳にしまして……」と切り出したとき、わたくしはバタ付きのクロワッサンをかじっていたところです。
「妙な噂?」
ジャンヌは困惑したような顔で、声を潜めるように続けました。
「はい。近頃、王太子殿下と新たな婚約者であるマリアンヌ様の仲が、どうも芳しくないとか……。あのマリアンヌ様が王宮でわがままを繰り返していて、既に侍女たちや貴族の方々の間で悪評が広まっているそうなのです」
その言葉にわたくしは心の中で「ああ、やっぱり」と呟きました。マリアンヌはわたくしの義妹で、継母が連れ子としてベルナール家にやってきた娘。表向きは「姉様」と慕ってくれるフリをしていましたが、幼い頃から他者への嫉妬や僻みが強く、手段を選ばないところがありました。
彼女はわたくしを陥れて王太子の婚約を奪ったのですが、わたくしは“王太子妃”という地位にそもそも興味がなかったから、正直「どうぞご自由に」という気持ち。その後、わたしは彼女の挙動をほとんど気にしてこなかったのです。でも、やはりそう簡単に王太子妃という立場は務まらないでしょう。
「まあ、そうでしょうね。あの子、自分が中心でないと気が済まないタイプですもの。きっと王宮という華やかな舞台で、やりたい放題に振る舞っているのでしょう」
そう言ってバターを塗ったクロワッサンをもう一口。実を言うと、わたくしとしては「へえ、それは大変ね」ぐらいの感想しかありません。すでに興味が失せているというか、王太子とマリアンヌの今後がどうなろうと、ほとんど関係ない生活を送っているからです。
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「ですが、実はそれだけではなく……。マリアンヌ様が“王太子殿下の子を身ごもっている”と大々的に発表しようとしているそうなのです。それが真実かどうか、あまりに怪しいという噂が飛び交っていまして……」
その瞬間、わたくしはさすがに飲んでいた紅茶を吹き出しそうになりました。
「えっ、子どもを……? まだ正式に挙式も済ませていないのに、ですか?」
わたくしの知る限り、王宮ではまだ「マリアンヌが王太子殿下と結婚した」という正式な報せは出ていません。確かに“王太子婚約者”として社交界に紹介はされましたが、先日までわたくしが王太子妃の座に座っていた(というか形だけ)わけですし、手続きがスムーズに運ぶとも思えません。もし実際に子を宿したのなら、いささか順番が逆というか、波紋を呼ぶこと必至でしょう。
ジャンヌは困ったように微妙な表情を浮かべながら、テーブルの端に手をやります。
「わたしも詳しいことは聞きかじり程度ですが……どうやら実際には妊娠などしておらず、“ただ殿下に責任を取らせるための嘘”ではないかと囁かれているのです。近頃マリアンヌ様の挙動が怪しいとか、王宮の侍女が不審な薬草を見つけただとか……もう憶測が飛び交っておりますが、本当のところはわかりません」
「ほう……」
わたくしはクロワッサンを置き、改めて紅茶をゆっくりと飲み下しました。妊娠を装って王太子を動かそうとしている――確かに、マリアンヌならやりかねない手です。彼女はいつだって、自分の目的を叶えるためなら嘘も欺きも辞さない性分でした。わたくしには散々嫌がらせを仕掛けながら、父や家の者の前では「姉様に憧れておりますの……」と涙を浮かべてみせたり。
となれば、今回の“偽りの妊娠”もうまくいくと思っているのでしょう。ですが、王宮の侍女や医師を巻き込んでの嘘など、そう長くは隠し通せるはずがありません。もしバレたら、どうなるか……。
「(まあ、わたくしには関係ありませんわね)」
胸中でそう結論づけ、再びパンを頬張るわたくし。それよりも、今日はルーアン公爵の紹介で手配してもらった仕立屋が屋敷に来る予定なので、そちらに備えておくほうがよほど大切です。“形式的とはいえ婚約式のドレスを”と言われているので、多少はわたくしもこだわるつもり。マリアンヌの不穏な噂など、はっきり言って聞き流していればいい――そう思っておりました。
しかし、その不穏な噂は日に日に増大し、やがて王宮そのものを揺るがす大問題へと発展することになります。マリアンヌがある日突然、「わたくしは王太子殿下の子を宿しました!」と公言し、盛大な祝福を求めようとしたのですが――どうやら、その場で医師に診断書の提示を求められた結果、嘘が露呈したのだとか。
聞けば、王宮の女官長が「王太子の子を宿したならば正式な検診が必要」とすぐに動き、秘密裏に彼女を診察した医師が「まったく妊娠の兆候はありません」と断言したのだそうです。しかも、つい先日まで彼女は“怪しい薬草”を定期的に持ち歩いていたという目撃情報もあり、それがどうやら“妊娠を偽装するときに使われる薬草”である可能性が高いという話まで出てきたとか。
こうなると、マリアンヌの評判は地に落ちます。
「なんて狡猾な女なの」「これだから田舎出身は……」「最低限の貴族の常識すらないの?」
――王宮の女性たちや貴族の間では、彼女への非難が一気に噴出しました。中には、わたくしとの比較を持ち出す人々もいます。
「リュシエンヌ様は公爵家の令嬢として品格をお持ちだったのに、王太子殿下はあんな下品な娘を選んで……」
「結果的にリュシエンヌ様を捨てた殿下の判断が誤りだったということでは?」
「こんな女が将来の王妃になるの? 信じられないわ」
もともとマリアンヌが“自ら王太子を誘惑し、リュシエンヌから婚約を奪った”という噂は密かに流れていました。それを真に受けた人々は、わたくしがひどい仕打ちに遭っていると思って同情していたのです。ところが、今回の妊娠騒動を受け、彼女の評判は“周りの予想以上に悪質で陰湿”というところまで転落。もはや彼女は社交界で顔を出すたび、陰口どころか露骨に冷たい視線を向けられる始末だとか……。
そのうえ、王太子フィリップがこの騒動に巻き込まれて失墜しはじめます。フィリップ自身は「こんな女だとは思わなかった!」と憤慨しているそうですが――周囲からすれば「いや、婚約を勝手に取り替えたのは殿下のほうでしょう?」という冷ややかな反応。特に国王陛下は激怒しており、「なぜこんな醜聞を起こす娘を妃にしようとしているのか」「そもそも、前の婚約者リュシエンヌ・ド・ベルナール嬢のほうがずっと有能かつ品行方正ではなかったのか」と、王太子を問い詰めているとか……。
噂話を耳にするたび、わたくしは少しだけ同情の念を抱きはするものの、“だからどうした”という冷めた思いも拭えません。わたくしを捨てた結果がこれなのですから、あとはご勝手にというところです。
実際、今のわたくしはヴァレンティン公爵の庇護のもと、婚約発表に向けた準備を粛々とこなしながら、“思っていた以上に”自由な時間を謳歌しています。朝は好きなだけ寝ていいし、お菓子を食べながら読書をしていても周囲から横槍を入れられることもなくなった。王太子と婚約中は考えられなかったほど穏やかです。
それでも、ひとつだけ気がかりだったのは、わたくしの父であるエドモン公爵の様子でした。王太子との婚約が破棄されて間もなく、ルーアン公爵との縁組が決まったことは、政治的にも大きな流れの変化を意味します。ベルナール家はかつて王太子派と目されていた一族。そこが一転してルーアン公爵派とつながることに、周囲の貴族がざわめいているのです。
しかし、父はもうわたくしの思惑を理解していて、余計な口出しはせずにいてくれています。むしろ「娘が笑顔で過ごせるのならそれが一番だ」と言って、背を押してくれました。そう、父はかつて国政を支える要職に就いておりましたが、今はもう昔ほどがむしゃらに権威を追い求めることはしなくなったのです。だからこそ、わたくしが王太子と破局して新たな道を選んだのを、多少驚きつつも黙認してくれたのでしょう。
とはいえ、その父の耳にも王太子とマリアンヌの妊娠騒動の話は届いているらしく、ある日の夕食の席で、父は苦い表情でぽつりと呟きました。
「……リュシエンヌ、マリアンヌの件だが、あれは本当なのか? あの子はまだベルナール家の籍こそ置いているが、王太子妃となる予定ゆえ今は王宮で暮らしている。公爵家として何か対応する必要があるだろうか?」
父の声音は困惑に満ちていました。名目上はまだ“うちの義妹”なのですから、国王や周囲から「自分の家の継娘が国中を騒がせている」という責任を問われる可能性もあるでしょう。
しかし、わたくしはそれを聞いて、かぶりを振りました。
「わたくしが知る限り、マリアンヌは自分の思惑で動いているだけですわ。昔からそうでしたもの。今回も“嘘の妊娠”をでっち上げたか、あるいは勘違いしたか……そのあたりはわかりませんが。いずれにせよ、このまま黙って見守るしかないのでは?」
「そうだな……、こちらが余計な干渉をすれば、かえって火の粉を被るかもしれない」
父も冷静にうなずきました。もし“マリアンヌを説得しに”などと王宮へ行けば、逆に騒ぎが大きくなるだけです。何よりマリアンヌが素直に耳を貸すとは思えません。彼女は幼い頃から、わたくしや継母にすら本心を見せることなく、自分の利益になると思えば平気で裏切るような性格でしたから。
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