化学事変

シュレディンガーのうさぎ

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「なんだ、全く死なないと思ったらガスマスクをつけていたのか」
そう底冷えのする声がして俺ははっとした。振り返らずとも分かるその声の主の存在に体が震える。
「ホスゲン……」
水銀が振り返り彼女を据わった目で睨みつけた。ホスゲンは隊員たちと共に俺たちの背後を陣取っていた。
「ふん、研究所の奴らももう少し利口かと思ったが……。期待はずれだったな」
俺のことを見下ろしながらホスゲンが冷めた口調で言う。
「それにしても貴様はつくづく生命力が強い人間だな。ガスマスクをしているようでは、もはやガスは効かないだろう」
そう言ってホスゲンがニトロのことを見た。
「……ニトロ。今すぐその爆弾に点火しろ」
ホスゲンの言葉にトルエンがぎょっとする。
「そんなことしたらこの鉱山が壊れちゃうわよ!そうしたら、青酸様が怒るわよ!」
「そのとおりだ。いくらお前でも青酸を怒らせては困るだろう」
睨みを利かせて言う水銀にホスゲンがふっと笑った。
「案ずるな。これは奴の命令だ。その人間を殺せ、とな」
「え……?」
彼女の言葉に俺は目を丸くする。青酸は俺と会ってくれるという話ではなかっただろうか。
「何を言ってる?青酸はこの人間に会うことを約束してくれた。いくらあいつでも、流石に嘘はつかないだろう」
そう責めるように言う水銀に冷たい視線を送ってホスゲンが言い返す。
「貴様、奴のことが全く分かっていないのだな。あいつは物事がこじれるほど面白がる化学物質だ。貴様に嘘を言ってその人間をおびき寄せ、私に殺させる。それこそ、奴にとって非常に面白い展開ではないか?」
(そんな……)
ホスゲンの言葉に目の前が真っ暗になるのを感じた。元々俺を殺そうとしていたから、鉱山内に青酸ガスが溜まっていたのだろうか。
「まさか、そんな……」と水銀がいいかけ、口を閉じた。そして眉をひそめる。
「青酸様ってサイテーね!」とトルエンが悪態をついた。
「まあ、奴のことなんて私にはどうでもいい。……貴様の息の根さえ止められればな」
そう言ってホスゲンがニトロに手を伸ばした。ニトロが取られまいとして爆弾を抱え、ホスゲンを睨みつける。
「どうした?早くその爆弾に点火しろ。お前が望んだことだろう?自らの手で憎き人間を殺す、と」
「わ、分かってるよ……」
そう言ってニトロがライターを取り出す。
「ニトロ……」
そう声をかけると、ニトロが動きを止め困惑したように俺を見た。
「……」
視線を泳がせたあと俯く。何かを躊躇しているような彼に焦れて、ホスゲンが近づいた。
「貴様がやらないというのなら代わりに私がやろう。それをよこせ」
そう言ってニトロに向かって手を伸ばそうとするホスゲンの前にトルエンが飛び出した。
「そうはさせないわよ!」
トルエンは仁王立ちをしてニトロを守るように立っている。そのまま俺たちの方を振り向いた。
「水銀!人間!アンタたちは早く奥に行きなさい!」
そう言うトルエンに俺は驚く。
「そんな……トルエンが危ないよ!」
焦ったように言うと彼女がニッと笑った。
「カドミウムが言ってたでしょ?アタシは爆発に巻き込まれたくらいじゃ"死なない"の!人間のアンタと違ってね!」
そう言ってから真剣な顔をして俺を見た。
「いいからアンタと水銀は早く青酸のヤローのところに行きなさい!ここまでアタシがやってあげたんだから、しっかり説得してきなさいよね!」
「うん……ありがとう!」
俺はトルエンに頭を下げると水銀の方を振り返った。
「水銀!早く行こう!」
水銀も頷く。そして、二人で奥へと走りだそうとしたときホスゲンがゆっくりと口を開いた。
「……確かに貴様は爆発に巻き込まれても"死に"はしない。だが、化学反応を起こして変化したなら話は別だ」
ホスゲンの言いたいことに気づいてトルエンが顔をこわばらせた。何をする気なのだろうと俺は思わず足を止め振り返る。
「おい、人間!何をしているんだ」と水銀が怪訝そうに声をかけるが、俺は振り返らなかった。
隊員がホスゲンに透明な液体の入った瓶を手渡す。彼女はそれがよく見えるように掲げてみせた。
「この中には熱濃硫酸が入っている。これをお前にかけたら……どうなるだろうな?」
そう言ってホスゲンが不気味な笑みを浮かべる。それを見て、トルエンが怯えたように後退った。
熱濃硫酸と反応すればトルエンはスルホン化されてしまうだろう。そうしたら、トルエンは"殺されて"しまう。
ホスゲンがそれをトルエンに見せつけるように掲げたまま、蓋を開けた。
「今すぐにそこをどけ。さもないと……」
「トルエン、そこをどけ!」とニトロが焦ったように言う。
「だってここをどいたらアンタ、ホスゲンに爆弾を渡すでしょ!?」
そうトルエンに言われニトロが言葉に詰まる。
「それは……人間が嫌いだから……」
「だったらどかない!」
トルエンがそう言って威勢を張る。しかし、その足はわずかに震えていた。
「……あの馬鹿」
水銀がそう小さくつぶやき、素早くトルエンとホスゲンの間に割って入った。
「ホスゲン、こんな子供相手に脅しはやめろ。俺が相手になる」
「子供って何よ!馬鹿にしないでよね!」とそれを聞いてトルエンが怒る。
「ニトロ!トルエンと一緒にそっちにいろ」
突然名指しされてニトロが驚いた顔をする。面食らって動かないニトロに焦れたように水銀が叫ぶ。
「早くしろ!大事なやつはきちんと自分の手で守れ!」
水銀の剣幕に押され、ニトロは頷くとトルエンの手を取り引っ張った。トルエンが水銀のことを心配そうに見ながらそこから離れる。
水銀とホスゲンが睨み合った。
「……元はといえば貴様がその人間を生かしたのがすべての始まりだったな」
そうホスゲンが氷のように冷たい口調で言う。水銀は何も言わず彼女を睨みつけている。
「その人間を守るか否かで、今やシアンタウンの化学物質たちは二分されてしまっている。これは今までにない由々しき事態だ。……この街の均衡を破った罰をここで受けてもらうぞ」
そう言って熱濃硫酸の瓶を掲げた。
(水銀……!)
熱濃硫酸は水銀とも反応して硫酸水銀を作ってしまう。このままでは今度は水銀が"死んで"しまう。
(どうしよう……)
躊躇したのは一瞬のうちだった。俺は自分でも気づかぬうちに水銀とホスゲンの間に割って入っていた。今まで水銀が俺を守ってきてくれたように、今度は俺が水銀をかばうように手を広げる。そんな俺をホスゲンが見下ろした。
「おい人間、何をしてるんだ?」
水銀がぎょっとした顔をする。俺は顔だけを水銀の方に向けて叫んだ。
「水銀、早く逃げて!」
俺の言葉に水銀が怪訝な顔をする。
「何を言ってるんだ、そんなことをしたらお前が……」
水銀が言い終える前に俺は首を振った。
「俺のことは大丈夫だから!とにかく、君が"死んだ"ら困るんだ!水銀がこの世からなくなるのは嫌なんだよ」
そう言うと水銀が驚いた顔をした。
「俺が"死んだ"ら困る?……おかしなことを言うな、俺が"死んだ"ら喜ぶ人間のほうが多いだろう」
そう言って水銀が目を伏せた。俺は大きく首を振る。
「そんなことない!俺は今まで何度も君に助けられてきた。君がこの世からいなくなったらすごく悲しい。……それにね、人間にとって水銀って、とても特別な金属なんだよ」
そう言うと水銀が驚いたように顔を上げた。
「今でこそ毒物だって言われてあまりいい印象がないけど……。硫化水銀を主成分とした朱で色をつけた古代の出土品もあるし、水銀自体は昔不老不死の薬の原料として日本や中国で珍重されていたという話もある。それに、君が今鉱山でやっている金の採掘方法も人間にとって大切なことだった。……ふふ、古代日本では水銀は金や銀よりも高価だったって説もあるんだよ」
俺の話を聞いて水銀がかすかに目を見開いた。
「科学的にも水銀にはお世話になっていてね。いろんな金属とアマルガムを作る性質を使った技術とか、圧力の単位の基準になっているところとか。超電導や酸素の発見だって水銀のお陰で出来たんだよ」
そう間髪を入れずに長々と語ってしまって俺ははっとした。授業中につい脱線していらないことまで話してしまったときの気まずさを感じる。
「ご、ごめん……。つい話しすぎちゃったみたい」
そう言って照れくさそうに笑う俺にトルエンが吹き出した。
「何よアンタ、水銀のこと大好きじゃない」
トルエンに笑われて顔が真っ赤になるのが分かった。
「……」
水銀は黙って俺のことを見つめていた。最初に会ったときと変わらず無愛想な彼だが、誰に対しても優しい化学物質であることを今の俺は知っている。
俺はそんな彼に笑いかけた。
「だから、君には"死んで"ほしくない」
そう言ってからホスゲンの方を振り向いた。彼女は俺たちの会話を死んだような目で眺めていた。
「ホスゲン、それを浴びせるなら俺に浴びせてよ。そうしたら少しは満足してくれる?」
そう言うとふんとホスゲンが鼻を鳴らした。
「大した憂さ晴らしにはならないがな。まあいい。これは序の口だ」
そう言って彼女が俺にその瓶の口を向けた。そしてゆっくりと傾ける。
「人間!」と水銀が後ろから叫ぶ。俺は目をつむり、熱濃硫酸が体にふりかかってくるのを覚悟しながら、
(熱濃硫酸を被るとどうなるんだろう)と妙に冷静に考えていた。
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