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本編
2.私の名はミミ
しおりを挟む「……ねえ、疲れちゃったわ。コーヒー、飲んでもいいかしら?」
「……好きにしろ」
心底どうでも良さそうなその声に、苦笑して長椅子から立ち上がる。
机の上にある鈴を鳴らしてメイドを呼んだ私は、コーヒーの準備を申し付けた。
「ふふ。……目の前にモデルが居なくても、描けるんじゃない」
丸椅子に座ったネイサンの肩に手を置いて、キャンバスに描かれたデッサンを見る。
長椅子のひじ掛けに寄り掛かる女は、私だ。
木炭で汚れた長く筋張った指が、私の体を形作っていく。
その指が、実際私の輪郭をなぞったことを思いだして、きゅっと私の体が反応した。
肩に置いた手を、ゆっくりと肘へと滑らせる。
作業を中断させられて、ネイサンが物憂げに瞳を上げた。
「ふふ……」
腰を屈め、冷たく整ったその顔に、唇を寄せる。
軽く触れたその唇からは、苦いタバコの味がした。
私の初めては、ネイサンだ。
最初からそのつもりで、パトロンを申し出た。
どうせ国に帰ったら、親が選んだ好きでもない男と結婚させられるのだ。
だったら初めては、自分で選んだ男が良い。
でも、重たい女だと思われたくなくて、必死で演技をした。
そんなこと、何でもないのだと。
破瓜の痛みすら、笑顔で耐えて見せた。
とはいっても、すぐにバレたのだけど。
演技をする私に、ネイサンが呆れたように言った。
お前は、馬鹿か、と。
まあ、事実だから仕方がない。
馬鹿だと、自分でもそう思う。
金で買った男に、見事に絡め取られてしまったのだから。
でもきっと、それは初めから。
最初は軽い気持ちだった。
私を描くその手で、触れられてみたい、と。
私の内面まで見通すようなその黒い瞳に、熱が灯る様を見てみたいと思った。
それに初めては、手慣れた男の方が絶対にいい。
だったらネイサンは、まさしく適任だ。
私の要望は、半分だけ叶えられた。
初めてにもかかわらず、乱され、女の悦びを教えられた。
でも、冷たい夜の闇の様な瞳に火が灯ることは、ついぞなかった。
まあ、わかってはいたことだけど。
彼にしてみたら私は、金払いの良い援助者、それ以外の何ものでもない。
そんな行為だって彼にとっては、仕事、だ。
溺れているのは、私だけ。
でも、それでいい。
私達の関係は、徹頭徹尾、変わらないのだから。
ひととき、彼の瞳に私が映され、体の熱をわけあたえて貰える、それだけで十分だ。
「ふふふ。……気持ち、いい……」
「……」
「……ネイサン。ネイサンは……?」
「ああ……」
「…………あ」
サロンに顔を出す以外は、気ままに自堕落な昼を過ごし、夜はネイサンを連れて夜会をめぐる。
私は良きパトロンだ。
その甲斐もあって、徐々にネイサンの名前は知られるようになっていた。
最近はちらほらと、絵も売れている。
それが誇らしくもあり、同時に寂しくもある。
彼が私を必要としなくなる日も、近い。
そんなある日、招かれた夜会で私達は、ある可憐な歌姫に出会った。
ラ・ボエームを愛らしく歌い上げた彼女は、まさしくミミ、そのものだ。
しかし、笑顔で拍手をしながら、私は後悔をしていた。
演目の最中、つと、隣を見上げると、私の知らないネイサンが居た。
漆黒の瞳には、熱が。
そう、私も気付いていた。
彼のスケッチブックの中に、度々現れる女性がいることに。
彼女だけは、ネイサンにしては珍しく、愛らしく、可憐に描かれている。
それはどこか、憧憬を含んでいて。
でも彼女、ニナ・ジェシーには、婚約者が。
今夜のホストの息子が、彼女の婚約者兼、パトロンだ。
今日は、彼らの婚約のお披露目でもある。
「マドモワゼル、レインモンド、今日はようこそおいで下さいました」
「ムッシュ、ギャビエ、素晴らしかったですわ。ふふふ、今日の主役をご紹介下さるのね」
ミシェル・サン=ギャビエ、ニナの婚約者だ。
淡い金の髪に、アクアマリンのような澄んだ水色の瞳。
優しい雰囲気を持つ整った顔立ちの美丈夫だが、どこかお坊ちゃん然としているのは否めない。
「僕の婚約者、ニナ、です」
「ニナ・ジェシーです。今日は、ありがとうございます」
金の巻き毛に、柔らかな水色の瞳の彼女は、男の庇護欲を誘う愛らしい風貌だ。
背も高く、少し吊り目のきつい印象を与える私とは、何もかもが違う。
バラ色に頬を染め、ふわりと微笑んでギャビエ氏と並ぶ様は、まるで一幅の絵画のようだ。
美男美女、何ともお似合いである。
「ニナさん、お会いできて嬉しいわ。まさしく“ミミ”そのもので、感動したわ」
「ありがとうございます」
互いに微笑みながら、社交辞令の言葉を述べ合う。
まあ、上流階級の付き合いなんて、そんなものだ。
笑顔の下に何が隠されているかだなんて、誰にも分からない。
そう思えば、彼女も強かだ。
いや、強かだからこそ、ここに居るのだろう。
「……そういえば。そちらのムッシュは、最近評判の絵描きだとか」
「ええ。私が援助をさせて頂いてますの」
「社交界の花、レインモンド嬢に援助を頂けるだなんて、幸運な方だ」
「まあ、ギャビエ殿はお上手でいらっしゃいますこと」
「ははは。……どうぞ、ミシェルと。マドモワゼル」
「では私も、キャスリーンと」
ギャビエ家は名家だ。
先々を考えれば、彼らと縁を繋いでおくのも悪くない。
異邦人の私は、この国では成り上がり者でしかないのだから。
「-----------------是非、彼にニナの絵を」
断れる、訳もない。
それにしても、ミシェル殿は知らないのだろうか。
自分の婚約者と、ネイサンが知り合いであることに。
知っていたら、まさか絵の依頼などできないだろう。
ちらりと隣を見上げるも、そこにはいつのも何を考えているのかわからないネイサンが。
ニナはもちろん、微塵もわからない。
しかしその夜、いつになく激しく、ネイサンが求めてきた。
息も絶え絶えになるほど喘がされ、嬌声を上げる私の耳元で、初めて彼が私の名前を口にした。
「……キャス……」
「……あっ、あっ……ネイトっ、ネイトっ……ああっ!」
彼の愛称を何度も呼びながら、激しく達してしまう。
歓喜と寂寥で、私は涙した。
どこまでも、残酷な男。
愛してなど、いないくせに。
それがわかっていて、なお、私は彼が好きなのだ。
薄れる意識の中、漆黒の瞳に熱が宿る様に、私の心が震えた。
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「私の名はミミ」:オペラ『ラ・ボエーム』よりミミのアリア
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