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第十四話 リーゼロッテの嫉妬

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 今日の夕食は、とても静かだった。

 特に話す話題が毎日あるわけでもないので、こういう日もある。
 たまにファルマール伯爵夫妻が何かを話しているくらいで、リーゼロッテもソードも口を開かなかった。

 時折ソードが意味ありげな視線をこちらに寄越してくるけれど、気づかないふりを貫く。
 ふいに、カシャン、と金属がぶつかる音がした。
 リーゼッロッテが落としたフォークを拾おうとしており、フィリアが慌てて駆け寄った。

「リーゼロッテ様、私が――」
「触らないで!」

 突然の怒鳴り声に、食事をしていた全員が手を止めてリーゼロッテを見る。
 フィリアもまた驚いて、リーゼロッテを見つめ返した。

「あ……わたくし、気分が悪いの。先に部屋で休みます」
「リーゼロッテ様! あとでお薬をお持ち致します」
「いらないわっ、近寄らないで!」

 去る間際、フィリアに向けられた鋭い視線に、すくみ上る。
 これまで、リーゼロッテがフィリアを蔑ろにすることはあっても、ここまで怒りをぶつけて邪険にすることはなかったのに。

(……嫌われてしまった、の)

 リーゼロッテは、気づいたのかもしれない。
 フィリアとソードが関係をもったことを。
 もう二度とリーゼロッテを裏切らないと決め、今後ソードに誘われても、きっぱり断ろうと思っていた。

 けれど、もう遅かったのかもしれない。

 リーゼロッテは今、とても傷ついているだろう。
 去り際の苦痛に耐えるような表情が脳裏に焼き付いている。
 あんな顔をさせてしまうなんて。

(私が、傷つけた)

 愕然と立ち尽くすフィリアは、「どうしたのかしらねぇ」という夫人の言葉に我に返った。
 慌てて落ちたフォークを拾い、手を清め、給仕に戻る。

「お前、まさかリーゼロッテに何かしたのではないだろうな」

 低い声でファルマール伯爵に問われて、フィリアは身体を震わせた。
 伯爵の空色の瞳が、フィリアをギロリと睨みつける。

 ひっ、と身体を震わせて、生唾を飲み込んだ。

 先ほど向けられた視線といい、リーゼロッテはフィリアを嫌っているのは間違いないだろう。
 ここで自分のせいだと言うべきかもしれない。
 リーゼロッテのためを思うのならば。

「わ、私」
「すみません、俺が彼女を怒らせてしまいまして」

 横から割って入ったのは、ソードだった。
 ファルマール伯爵夫妻の視線がソードへ移動する。

「あなたがリーゼロッテと?」
「はい。ちょっとした口論が悪化してしまったようで。……嫌われてしまったかもしれません」

 ソードは無表情でそう言うと、視線を落とした。
 ファルマール伯爵は何度か瞬きを繰り返したあと、ふと、破顔した。

「ああ、いえいえ。夫婦のあいだに喧嘩はよくあることですよ。リーゼロッテもあの態度はやりすぎだ。あとで注意しておきましょう」
「とんでもありません。俺が悪いので、どうか彼女を咎めることはおやめください」
「はは、ソード殿はお優しい」

 そこでやんわりとこの話題は終えた。
 ファルマール伯爵はフィリアを咎めず、食事を再開する。
 フィリアは安堵しながらも、意識はリーゼロッテにばかり向かっていた。

 近寄らないで、と言われたけど、あとで部屋を訪れてみよう。
 そこでフィリアを咎めるのならば、すべて真実を告げ、ひらすら詫びよう。
 許されないのなら、今度こそ屋敷を出る。
 ……死ねと言われれば、命を絶とう。

 夕食を終えると、ファルマール夫妻とソードはさっさと自室へ戻っていく。
 それを見送ってから食器を片付けていると、「おい」と呼ばれて手を止めた。

 ソードが食堂の戸口からこちらを見ていた。
 いつ戻ってきたのだろうか。
 早く片付けてリーゼロッテの元へ向かいたいフィリアは、ソードへ「なんでしょう」と返事をしながらも夕食の片づけを続けた。

「……さっきのことは、気にするな」
「申し訳ございません、助けて頂いたのに。……お礼も言ってませんでした」

 手を止めて、頭を下げた。

「ありがとうございました」
「そのことじゃない。……リーゼロッテの態度だ。たまたま気分が優れなかっただけだろう」

 ソードが歩み寄ってくる気配がして、顔をあげた。
 大股で近づいてきたソードが、フィリアの頭を撫でる。
 咄嗟に、その手をはたいた。

 ソードが大きく目を見張る。

「失礼しました。もう、私に構わないでください」
「……迷惑か」
「私の立場が悪くなります」

 本当はそんなことは思っていない。
 けれど、もう決めた。

 フィリアは、自分に甘かった。

 本当にリーゼロッテを想うのなら、最初から拒むべきだったのだ。
 ソードと近づきすぎた。
 気を許しすぎた結果、フィリアは、ソードのことも望むようになってしまった。
 彼は、リーゼロッテの夫なのに。

 ソードのことを、愛している。
 もっとたくさん必要とされたい。
 けれど。

「それは、この屋敷で暮らす使用人として、ファルマール伯爵たちからの対応がきつくなる、という意味の立場か。それとも……リーゼロッテとの関係のことを言っているのか。リーゼロッテに嫌われたくない、と」
「勿論、リーゼロッテ様のことです」

 鼓膜を破りかねない轟音がして、白いテーブルクロスの敷かれた食卓が部屋の端まで吹っ飛んだ。
 それほど大きくないとはいえ、四人で充分使えるほどの食卓が突然吹っ飛んだことにぎょっとしたフィリアは、一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 ソードが右足をあげていた。
 彼が、食卓を蹴りつけたのだ。
 ソードの表情は険しく、怒りを堪えているのか、歯を食いしばっている。

「……所詮お前のなかには、リーゼロッテしかいないのか」

 低く呟かれた声音は、彼の表情からは想像できないほど静かで、そのことが逆に不気味だった。
 フィリアは自分の身体が震えていることに気づいて、拳を強く握り締めた。

「私は、リーゼロッテ様に幸せになって頂きたいのです」
「お前は、だから俺と――」

 ソードは言葉を途切れさせ、右手で両目を覆った。
 その手が微かに震えていることに気づいて、咄嗟に口をひらいたけれど、言葉をかけるのを躊躇い、結局口を閉じた。

「……俺は」

 ソードはふらりと身体を揺らしながら後退し、そのまま、とん、と壁にもたれた。
 壁に手を置き、戸口へ向かって歩き始める。
 彼の大きな背中に、焦燥感を覚えた。

「俺は、どうあがいても、リーゼロッテには勝てないんだな」

 フィリアは息をつめる。

(どういう意味?)

 まるで、ソードがフィリアを愛しているような言い方だ。

 ソードは食堂から姿を消し、残されたフィリアはその場にへたりこんだ。
 食器を片付けて、食卓を戻さないと。
 やることは沢山あるのに、身体が震えて力がでない。

 怖かった。

 吹っ飛んだ食卓を見つめ、これが男の力なのだと知る。
 情事のときの優しい手つきからは想像もつかない。
 本当にフィリアの身体を気遣って、優しくしてくれていたのだ。

 しばらくして身体の震えが治まってきたころ、フィリアは身体を振るい立たせて、片づけを再開した。

 もう間違えたくない。
 フィリアは、出しゃばりすぎたのだ。

 これでもう、ソードはフィリアに関わってこないだろう。
 二度と、あの手に触れられることがないと思うと胸が苦しいけれど、リーゼロッテの苦しみはフィリア以上のはずだ。

 まだ時間はかかるかもしれないけれど、いつか、リーゼロッテとソードが愛し愛される夫婦になればいいと思う。
 かつてフィリアが望んでいたような、理想の家庭を築いて。

 食堂を片付けるとフィリアは果実を使った軽食を作り、リーゼロッテのもとへ向かう。
 部屋の前で深呼吸を繰り返し、ドアをノックした。

「リーゼロッテ様、私です。入ってもよろしいですか」

 返事はない。
 ここにいるはずなのに。

 返事もしたくないほどに嫌われてしまっているのだろうか、と俯いた瞬間、部屋のなかからガタンという物音がして、顔をあげる。
 椅子が倒れたような音だった。

(まさか、首を吊ったんじゃっ)

 不安が込み上げてきて、ドアをひらいた。
 リーゼロッテはベッドの端に座っていた。
 椅子が倒れたような音は、リーゼロッテが投げつけた鏡だったようだ。
 床に転がっている。

「……何か用なの」

 フィリアを振り返りもせずに、リーゼロッテが言う。

「あの、軽食をお持ちしました。リーゼロッテ様のお好きなカルの果実を使っております」
「そう、置いておいて」

 声音は沈んでいたけれど、拒絶されなかったことに静かに胸を撫でおろす。
 けれど、大切なのはここからだ。
 軽食を乗せたトレーを置くと、フィリアはリーゼロッテの前に膝をついた。

「リーゼロッテ様、先ほど、私を拒絶されましたね」
「ええ」
「……理由を聞いてもよろしいでしょうか」

 そこで初めて、リーゼロッテは顔をあげる。
 彼女の美しい顔は、悪鬼のように歪んでいた。

 ぞくりと背筋を這う悪寒に身体が強張った瞬間、乾いた音が部屋に響く。
 びりりと痛む頬と振り切られた手のひらに、ぶたれたのだと悟る。

「……昨日、ミーツディ酒場の話をしたでしょう」
「はい」
「私もあの場にいたのよ」

(やっぱり、気づいていたんだ)

 昨日は、ミーツディ酒場でテオスバードに二階に連れ込まれた。
 そしてソードに初めて愛された。
 二階へ行くフィリアたちの姿を見て、悟ったのだろうか。
 あの部屋の外に、リーゼロッテがいたのだろうか。

 リーゼロッテの心境を想うと、自分の罪に押しつぶされそうになる。
 大切な人を傷つけて、自分のことばかりで、なんと愚かなのだろう。

 ぽた、と床に雫がこぼれた。
 フィリアのものではない。
 リーゼロッテの頬を伝って、落ちたものだ。

 気丈なリーゼロッテが泣くところなんて、見たことがなかった。
 人前で泣くほどに、リーゼロッテは傷ついている。
 心が壊れかけている。
 それらはすべて、フィリアのせい。

「どうして、あなた……が、愛され……て、いる、の」

 リーゼロッテの言葉は、途切れ途切れで、声音も小さい。
 フィリアは床に両手をついて、そのまま頭を下げた。
 額を床に擦りつける。

「……思うままにご処罰ください」
「どうしてわたくしじゃないの」
「リーゼロッテ様」
「……出て行って。あなたの顔、見たくない」

 フィリアは静かに目を閉じた。
 大きく息を吸い込み、静かに吐く。

「ご安心下さい。今日中には、ここを出て行きます。……二度と、あなたの前に現れません」

 それがリーゼロッテの望みならば、従おう。
 フィリアは恐る恐る顔をあげ、部屋を出て行こうとした。
 失礼致しました、とドアの前で頭を下げたとき。

「……駄目よ」

 リーゼロッテが、低く呟いた。

「出ていくことは許さない」
「……え」
「あの人を愛しているから。だから、あなたがここを去ると……あの方が、悲しんでしまう」

 そう言って、リーゼロッテは両手で顔を覆った。
 フィリアは咄嗟に部屋を飛び出して、全力で自室に飛び込み、その場にしゃがみこむ。

 最後に聞いたリーゼロッテの言葉が頭から離れない。
 苦しみながらも吐き出されたあの言葉は、フィリアの心をこれ以上ないほどに抉った。

「……最低だ」

 リーゼロッテを大切だと言いながら、彼女にあんな言葉を吐かせてしまった。
 この場で消えてしまいたい。
 何もかもなかったことにして、生まれてこなかったことにして、その分の僅かな幸福がリーゼロッテのものになればいいのに。

 ぼろぼろと涙が溢れた。

 これまでどれだけ虐げられても、こんなに泣いたことなんてなかったのに。
 リーゼロッテを傷つけてしまった自分の愚かさが悔しくって、彼女を泣かせてしまった罪に押しつぶされそうで、フィリアはただただ声を押し殺して泣いた。

 決して、フィリアは許されないだろう。
 リーゼロッテは彼女を裏切ったフィリアを二度と信じないだろうし、関わりたくもないはずだ。

 見捨てられてしまった。
 全部自分のせい。

「あ、う。う、わあああああっ」

 我慢できずに声が漏れる。
 顔を必死にベッドの布団に押し付けて、一人で泣き続けた。

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