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第2章

6、解けない呪い

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 ヴィオレッタはメッセの傍まで歩みを進めると、静かに息を吐き出してから、ぐっと顔をあげる。

「私、あなたに聞きたいことがあって――」
「翠、聞きたいことがある。エリクの様子はどうだ?」

 メッセは勢いよく立ち上がると、ヴィオレッタの両肩をがしっと掴んだ。
 突然のことに、ヴィオレッタは言葉を詰まらせてしまう。

「ここでイチャついてから、一週間は経っているだろう? 何か変化はあった?」

 真摯な瞳で見つめてくるメッセに、ヴィオレッタはたじろいだ。

「変化って、例えば……?」
「硬さがなくなってきたとか」
「……はい?」
「長く持たなくなったとか、すぐ寝てしまうとか、射精の回数が減ったとか」
「なんの話なの!?」
「かまとと振らなくてもいい。これは重要なことなんだ!」

 ヴィオレッタはここに、『取り引き』の詳細を聞きに来た。
 わからなければ確かめればよいと思ったからだ。しかし、愛するエリクのことをこうも問い詰められると、何かあったのかと不安になってしまう。

 ヴィオレッタはやや悩んだのち、自身の質問を一旦飲み込み、メッセからの問いについて考えることにした。

「……エリク様の、『呪い』について聞きたいのね」
「そうだ。どうなんだ、まだお盛んか? それとも……衰えが現れてきたか」
「お会いした日から今日まで、お変わりないわ」

 朝食を共にとって、ベッドで致す。
 そのあと屋敷に戻って、エリクのために刺繍や料理をして過ごし、夜には褥を共にするために塔に出向き、やはり致す。

 エリクの様子を具体的に思い浮かべながら一日の流れを伝えると、メッセはヴィオレッタの肩からそっと手を退けた。
 メッセは低く唸ると、考え込むように腕を組んで黙りこんでしまう。

「ねぇ、何か問題があるの?」
「……変化がないということは、俺の『取り引き』が有効化されていないんだ」
(取り引きって、前世の記憶を覚えて転生する代わりに愛した人の命を奪うっていうあれよね)

 その『取り引き』が有効化されていないとは、どういうことか。考えたくないが、エリクには発動しなかったのだろうか。
 もしかしてと、ある考えが過ぎって、ヴィオレッタを不安にさせた。

「……エリク様が運命の相手ではなかった、ということ?」
「それならいいんだけど――」
「いいわけないじゃない!」

 怒鳴り返すと、ハッとメッセが顔をあげた。
 すぐに申し訳なさそうに眉を下げると、軽く手を振る。

「悪い、今のは言葉が悪かった。二人の関係を揶揄ったわけじゃない」

 メッセは、「なんて言えばいいかな」と呟きながら、ぽつぽつと説明を始めた。

「翠との『取り引き』は発動しているはずだ。そうなれば、【悪魔憑き】は消滅する。性的興奮を求める『呪い』も弱体化して消えていくはず……けれど、それがない。つまり、もっと強力な『呪い』に俺の力が押し負けたんだ」

 どういうことだろう。
 意味がわからずに、ヴィオレッタは眉をひそめた。

「さっき翠にエリクの様子を聞いたのは、【悪魔憑き】による『呪い』がまだ効力を持っているかの確認だ」

 エリクは厳しい表情になって、軽く首を横に振った。

「どうやらエリクを蝕んでいるのは、ただの【悪魔憑き】じゃないらしい」
「……わかるように言って」

「――エリク・アベラールは使に取り憑かれている可能性がある、とメッセは言っているのさ!」

 突然聞こえた第三者の声に、ぎょっとして入り口を振り返った。

「こっちだよ、ヴィオレッタ」

 ぬっ、と背後から肩越しに覗き込まれて、ヴィオレッタは硬直する。

(さっきまで、誰もいなかったはず……っ!)

 深紅の髪をした男だった。
 柔和な雰囲気を纏いながらも、虚無の塊のような瞳をした、なんとも奇妙な男だ。
 微笑んでいるのに、瞳の奥は無感情――そんな男に、ヴィオレッタはゾッとしたものを覚えて、呼吸を浅くする。

(誰、なに……殺される?)

 何かをされたわけでもないのに、ヴィオレッタは命を握られたような恐怖を覚えた。

 ふと、深紅の髪の男が笑みを深めた。

「私の名前は、インテックス。偽名だけど。よろしくね」
「……あ」

 張り詰めていた空気が緩んで、ヴィオレッタは浅い呼吸を繰り返しながら定型的な挨拶を述べた。

「ごめんね、弟は説明も取り引きも下手でね」
「……弟さん?」
「そう。これでもメッセは一応、この世界で恋愛担当の天使をしてるから、よろしくね」

 メッセを見ると、驚きに瞳を揺らしていた。
 ぷるぷると身体も震えている。

「どうして兄さんがここに?」
「お前が使を見つけたと報告してきたから、様子を見に来たんじゃないか」

 インテックス――偽名らしい――は、くすりと笑った。
 先程は恐怖が上回って気づかなかったが、インテックスという男、とんでもない美貌を持っている。
 整いすぎて気持ちが悪いほどだ。
 例えるならば美しさを詰め込んだ彫刻のようで、現実的に存在するとは思えないほど、すべての造形が完璧だった。

「さて、ヴィオレッタ。弟に変わって私が説明しよう!」
「あ……は、はい。お願いします」

 ふふ、と笑うインテックスは、メッセとよく似たゴシックな漆黒の服を纏い、首にダイヤを散りばめたネックレスをしている。

 ヴィオレッタの視線が吸い込まれるようにネックレスに向いた。ただのネックレスなのに、やけに気になってしまうのはなぜなのか。

「今、この世界は使徒に乗っ取られようとしているんだ。『使徒』っていうのは、まぁ、コードネーム的なあれだね」
「……乗っ取り?」
「そう。なんかさ、私がが不満だったみたいでね。長兄が堕天しちゃったんだよ」

 はぁ、とヴィオレッタは気のない返事をする。
 ファンタジーここに極まれりといえるほど、現実離れした話に思考がついていかなかったのだ。

「その長兄が、まぁ、うーん……人を乗っ取って、さらに強い力を得ようとしてる?」
「あの、なぜ疑問形なんですか」
「ざっくり言い過ぎたかなって。まぁでもそんな感じ」
「……そんな感じ……」
「使徒……あ、これ堕天した長兄のことね、は、自分に適した人間の媒体を何百年もの間、探し続けてる。その媒体を探す際、人間は負担に耐えきれず呪いがかかった状態になるんだけど、それが【悪魔憑き】とよく似てるんだ」

 ヴィオレッタは、ハッと顔を上げた。
 インテックスが言わんとしていること、メッセが考えていることを察したのだ。

「メッセはね、エリク・アベラールが使徒に蝕まれていると言いたいのさ」

 インテックスは、メッセを振り返った。

「こんな感じかな? メッセの考えは」
「はい、さすが兄さんです。俺は、使徒がこのままエリク・アベラールを媒体にこの世に姿を現すつもりだと考えています」
「おや、それはどうして?」
「エリク・アベラールが長寿だからです。【悪魔憑き】であっても、使徒によるものであっても、心身の負担は凄まじい。到底普通の人間に耐えられるはずもなく、通常ならば短命になります。それなのにエリク・アベラールは、御年六十六。この世界での平均寿命も近い。……これは、使徒が媒体を殺してしまわないよう保護していると考えられます」
「うんうん、なるほど」

 インテックスは腕を組んで頷いた。
 彼は優雅な動きで椅子に座ると、やはり優雅に笑う。

「名推理だね、さすが私の弟だ」
「使徒がエリクの身体を乗っ取った瞬間がチャンスですね。エリクごと屠ってしまいましょう」

(……え?)

 なんとなく聞いていたヴィオレッタは、ぎょっとして顔を上げた。

「エリク様を、屠る?」

 メッセが、申し訳なさそうな表情をしながらも、頷いた。

「この世界を守るためには、仕方がない。翠たち転生者には、使徒を探す手伝いをしてもらって感謝している。エリクを屠ったあとも翠には苦労がないよう手配しよう」
「待って、何がなんだかわからないままなの。……いいえ、わかったとしても、嫌よ。エリク様を殺すなんて、絶対に駄目!」

 途端に、メッセは顔を伏せた。
 やけに淡々とした声で、メッセが続ける。

「翠は、結婚して夫を愛し幸せになる、それが目的だろう? 別にエリクじゃなくてもいいはずだ。これで使徒の件は片が付くだろうから、翠には特別に【悪魔憑き】じゃない男を宛がうと約束する」

 どうやら【悪魔憑き】の男と結婚することは、最初から仕組まれていたらしい。
 たまたま相手がエリクだったのか、それともあえてエリクを宛がわれたのかわからないけれど、ヴィオレッタはもう、エリクに出会ってしまった。

「……誰でもいいわけじゃないわ」
「翠?」
「確かに以前はそうだった。けれど、今は違うの。今の私は、エリク様じゃなければ駄目なの。エリク様を愛しているの!」

 ヴィオレッタの叫び声は、静寂に消えていく。
 メッセが、軽く首を横に振る。

「それは出来ない。使徒を抹消しなければ、この世界の血脈は皆使徒に操られて、いずれ世界が崩壊する」
「意味がわからないから!」

 天使とか悪魔とか。
 呪いとか取り引きとか。
 あげくに、世界を乗っ取ろうとしている者がいるとか。

「……世界の危機とか、そんなものどうでもいいの。エリク様に、ひどいことをしないで」

 ヴィオレッタはただ、『取り引き』の内容を詳しく聞きにきただけだ。
 それなのに、もはや話はとんでもない方向に進んでいる――。

 メッセはヴィオレッタを振り返ることなく、インテックスに話しかけた。

「兄さん、どうしましょうか」
「……ん? 何が?」
「エリク・アベラールについてです」
「どうもしないよ」
「やはり、使徒が受肉した瞬間を狙いましょうか」
「うーん……そもそも使徒、もう受肉しちゃってるし」

 しん、と静寂が降りた。

「……あの、インテックスさん。受肉ってどういう意味ですか?」
「今は、『使徒が人の身体を使ってこの世に現れた』ってことを示しているかな。つまり、使徒はもう人の身体を乗っ取ってるんだよ」

 インテックスはそう言って、軽く息をついた。
 先程までの笑顔が消えて、退屈しているというように指先で自分の前髪をくるくると玩び始めた。

 ヴィオレッタは、インテックスの言葉を理解するなり真っ青になる。

「エリク様は……ご無事なのですか」
「エリク・アベラールなら、塔にいたよ。ここに来る前に寄ってきたけど、特別に危険はないかな」
「……え? あの、エリク様が、使徒に乗っ取られるかもしれない、って話ですよね」
「ううん、それはメッセの推察。しかも外れ。使徒は二日前に受肉して、王都でヤンチャはじめてるから」

 メッセが、ゆっくりとインテックスを見た。
 ヴィオレッタも、淑女らしからぬ大きな口をあんぐりと開いて、インテックスを見る。

(……今の時間、なんだったの?)

 インテックスが眠そうに大きな欠伸をしたとき、メッセが慌てて言った。

「ですが、エリクは俺の『取り引き』による効果が現れていません。それはつまり、俺を上回る力を持つ者が介入していると――」
「メッセ、お前の『取り引き』は無事に発動して、有効化されている。……お前は未熟で『呪い』をはっきり見ることが出来ないから、そんなふうにあやふやな判断になるんだ。もっと視る力を磨きなさい」
「は、はい。……ですが、エリクは【悪魔憑き】の『呪い』によって未だに性的興奮を求めています」

「それ、ただ彼が絶倫なだけ」

 何度目かの、沈黙が降りる。
 静まり返った礼拝堂で、インテックスが淡々と言った。

「メッセがどういう『取り引き』をしたのか知らないけれど、今のエリクは年齢にそぐわないほど魂が生命力に溢れている。まるで最盛期そのものだね。心当たりは?」

 ヴィオレッタは、メッセと取り引きしたときの言葉を思い出した。

 ――取り引きは絶対だからね。きみとそういう状況になった時点で、二十五年間は健康的に生きることが確約されるよ。

 確かにメッセはそう言っていた。
 インテックスは深く息をついて「覚えがあるようだね」と言う。

「つまり、エリクは『取り引き』の効果で最盛期に戻ってしまったんだ。見た目とか、変化のない部分もあるけれどね」
「……そんな、俺はてっきり『呪い』が解けていないのだと。だから、エリクが使徒に乗っ取られるものだと……ただ、絶倫なだけだったなんて」
「メッセ、お前がもっと『呪い』を視る力をつけていれば、現状から判断する必要もなくなるんだ。自分の『取り引き』さえ成功したのか感じ取れないお前は、まだまだ無力だ」

 二人の話を聞いていたヴィオレッタは、力が抜けるのを感じた。
 そのまま、ふらりと床に座り込む。

(……当初の予定通り、『取り引き』について聞いておけばそれでいいのよね)

 違ったとはいえ、エリクを乗っ取るとか、屠るとか、心臓に悪過ぎる。

「大丈夫かい? ヴィオレッタ。エリクとヴィオレッタには何もしないから、安心しておくれ。このまま二人で幸せに暮らすといい」

 心からほっとした。
 あとはメッセに聞きたいことを聞いて、さっさと屋敷に戻ろう。

「では、兄さんが『取り引き』された転生者のなかから、使徒を見つけ出せたということですね」
「そうだよ。対価の代わりに美貌とコミュニケーション力を与えたソフィって子がいるんだけどね、その子が愛した恋人の身体を、使徒が乗っ取ったんだ」
「さすが兄さんですね!」

(……美貌とコミュニケーション力を持つ、ソフィ?)

 ヴィオレッタは、自分を馬鹿にしたような目で見てくる妹を思い出した。
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