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第三章 日々の暮らしと、『芳賀魔巌二』
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その日、飛龍島は静かな緊張に満ちていた。
小毬はそわそわと、ミカン畑から海を見下ろした。船着き場には、いつもの食品や物品を支給にくる船とは違う、銀色のボディをした一回り多きめの船がある。どことなく、硬派というか、冷たい印象を受ける船だ。
「気になるの?」
百合子が、隣から聞いてくる。
小毬は正直に頷いた。
ついに今日が、監査の日だ。年に一度、もっとも新人種と「ヒト」が関わり合う日でもある。
「今頃、この島のあちこちで調査員がうろうろしてると思うわ」
そう言う百合子の声がどこか緊張を帯びているのは、間違いなかった。百合子は小毬の表情を見て、おかしそうに笑う。
「なにビクビクしてるのよ。大丈夫よ、監査は毎年のことだもの」
小毬は頷いて、けれどもどこか不安な気持ちを抱えたまま、ミカンの樹に手を伸ばす。
そのとき、ふいに男の野太い怒声が聞こえて、小毬は振り返った。
百合子も同じように、声のほうへ振り向く。
そこには、厳めしい顔をした白髪の壮年男性がいた。一部の乱れもなくスーツを着こなし、小毬のほうを指差して何かを怒鳴っている。さほど遠くにいるわけでもないのに上手く言葉が聞き取れないのは、男の滑舌が悪いせいだ。
男の傍には豪理がおり、豪理は困った顔をしていた。二人きりで何をしているのだろうか、と考え始めたとき、百合子のため息が聞こえた。
「あのヒト、なんだか腹が立つわね」
「ヒト? ……あ」
そう言われて、初めて白髪の男が「ヒト」であることに思い至った。本土で見慣れた姿だったので違和感を覚えなかったが、白髪の男の肌は透けていない。瞳も黒く、白髪は歳のせいだろうが、元は黒かっただろう。
この男はきっと、ついさっき百合子と話していた調査員のひとりなのだ。そう理解すると同時に、小毬の胸に不快な思いが生まれる。
一体、この男は何を怒鳴っているのだろうか。小毬に対して、よい感情を抱いていないことだけは確かだ。
小毬は耳をすまして、男の言葉を読み取ろうとする。興奮しているらしい男の怒声は、耳を滑っていくが、かすかに、「なぜ人間が」という言葉が聞き取れた。
「私が、ここにいることがおかしいって言いたいのかな」
「みたいね。豪理がなんとかしてくれるわよ、あいつ要領いいもの」
百合子の言う通り、豪理が男を取りなし始める。男は鼻息荒く小毬を睨みつけると踵を返し、肩で風を切るようにして去って行った。
あの勢いのまま傍まで来たらどうしようと思っていた小毬は、ほっと安堵の息をつく。
完全に男の姿が見えなくなってから、小毬は百合子を振り返った。
「どうしよう。私、見られちゃいけなかったのかな」
「隠れる必要ないわよ。私たちはこの島から出れないけど、本土の人間がこの島へ来ちゃ駄目なわけじゃないでしょ?」
「……たぶん」
新人種に関する法を、小毬自身よく知らない。樹塚町に居たころに本から得た知識と、トワから聞いた話がすべてだ。飛龍島に来てから新人種の私生活や心境に触れることはあっても、『ヒト』が定めた法律に関しては知識がないも同然だった。
もしかしたら、小毬がこの島にいることは、なんらかの法に触れるのではないか。だとしたら、トワや百合子たちに迷惑がかかるのかもしれない。
「何考え込んでるのよ」
「あ、あのね。私、どうしたらいいかな」
「もう、いちいち気にしてたら寿命が縮まるわよ。大丈夫よ、きっと。心配ごとは、何か起きてから対応すればいいんだから。さ、仕事しましょ。サボっちゃ駄目よ」
百合子に肩を叩かれて、傍にあるミカンの樹へ手を伸ばす。
胸の奥で、じわじわと広がる不安が、小毬を憂鬱な気分にさせた。
不安は的中するものである。
そう小毬が思ったのは、その日の夜中だった。その日は監査についての集会があり、トワは集会へと出かけていた。
女だから、という理由で早めに集会から帰ってきた百合子と、女同士の会話に花を咲かせながら夕食を取っていたときのこと。
玄関の戸が開く音がして、小毬はてっきりトワが集会から帰ってきたのだと思った。
喜び勇んで出迎えた小毬は、憔悴した様子で玄関に立っていた豪理に目を見張る。
「こんばんは。どうしたんですか?」
「夜中にごめんね、ちょっときみに用事が――」
「あら、豪理じゃないの。あんた集会休んだでしょ、何やってんのよ」
やってきた百合子を見て、豪理が目を瞬く。
「百合子もいたのか。ちょっと問題があってね。ほら、僕が案内担当になった調査員、覚えてるだろう?」
「ああ、昼間の。面倒なやつに当たったわねぇ、ご愁傷様」
「あれから、ずっとうるさいんだよ。どうして人間がいるんだ、って。小毬ちゃんに会わせろってそればっかり。もう抑えられないんだ。悪いけど、少しだけ会ってくれないかな」
後半の言葉は、小毬に向けられたものだ。
小毬はすぐに頷けずに、意見を求めるように百合子を見る。百合子は憮然とした表情で、豪理に向かって口を開いた。
「使えないわね」
「……ごめん。僕も断ったんだけど、権力をチラつかせてくるんだよ。実際、調査員の報告内容によって、僕らの今後が決まるだろう?」
「たしか、三年前も調査員の不興を買ったせいで支給される食料が減ったんだっけね」
「そのくらいなら問題ないんだけど、もっと酷いことになったら困るからさ」
「……もっと酷いこと?」
小毬の声は震えていた。
不安がありありと浮かんだその声音に、百合子と豪理が弾かれるように振り返る。
ふと、百合子が微笑んだ。
「豪理の言うことも一理あるから、仕方ないけど行くわよ。大丈夫。私も一緒に行ってあげるから」
頷きながら、小毬は目を伏せた。
百合子はヒトを嫌っている。なのに小毬と一緒にきてくれるという。その気持ちが嬉しかったし、百合子が大丈夫というのだから大丈夫なのだろう。
不安な気持ちを振り払うように、顔をあげる。
「ありがとう、百合子さん」
「いいっていいって。さ、豪理。案内してちょうだい。あ、夕食は帰ってから続きを食べましょうね」
そう言って百合子は肩をすくめてみせた。
小毬はそわそわと、ミカン畑から海を見下ろした。船着き場には、いつもの食品や物品を支給にくる船とは違う、銀色のボディをした一回り多きめの船がある。どことなく、硬派というか、冷たい印象を受ける船だ。
「気になるの?」
百合子が、隣から聞いてくる。
小毬は正直に頷いた。
ついに今日が、監査の日だ。年に一度、もっとも新人種と「ヒト」が関わり合う日でもある。
「今頃、この島のあちこちで調査員がうろうろしてると思うわ」
そう言う百合子の声がどこか緊張を帯びているのは、間違いなかった。百合子は小毬の表情を見て、おかしそうに笑う。
「なにビクビクしてるのよ。大丈夫よ、監査は毎年のことだもの」
小毬は頷いて、けれどもどこか不安な気持ちを抱えたまま、ミカンの樹に手を伸ばす。
そのとき、ふいに男の野太い怒声が聞こえて、小毬は振り返った。
百合子も同じように、声のほうへ振り向く。
そこには、厳めしい顔をした白髪の壮年男性がいた。一部の乱れもなくスーツを着こなし、小毬のほうを指差して何かを怒鳴っている。さほど遠くにいるわけでもないのに上手く言葉が聞き取れないのは、男の滑舌が悪いせいだ。
男の傍には豪理がおり、豪理は困った顔をしていた。二人きりで何をしているのだろうか、と考え始めたとき、百合子のため息が聞こえた。
「あのヒト、なんだか腹が立つわね」
「ヒト? ……あ」
そう言われて、初めて白髪の男が「ヒト」であることに思い至った。本土で見慣れた姿だったので違和感を覚えなかったが、白髪の男の肌は透けていない。瞳も黒く、白髪は歳のせいだろうが、元は黒かっただろう。
この男はきっと、ついさっき百合子と話していた調査員のひとりなのだ。そう理解すると同時に、小毬の胸に不快な思いが生まれる。
一体、この男は何を怒鳴っているのだろうか。小毬に対して、よい感情を抱いていないことだけは確かだ。
小毬は耳をすまして、男の言葉を読み取ろうとする。興奮しているらしい男の怒声は、耳を滑っていくが、かすかに、「なぜ人間が」という言葉が聞き取れた。
「私が、ここにいることがおかしいって言いたいのかな」
「みたいね。豪理がなんとかしてくれるわよ、あいつ要領いいもの」
百合子の言う通り、豪理が男を取りなし始める。男は鼻息荒く小毬を睨みつけると踵を返し、肩で風を切るようにして去って行った。
あの勢いのまま傍まで来たらどうしようと思っていた小毬は、ほっと安堵の息をつく。
完全に男の姿が見えなくなってから、小毬は百合子を振り返った。
「どうしよう。私、見られちゃいけなかったのかな」
「隠れる必要ないわよ。私たちはこの島から出れないけど、本土の人間がこの島へ来ちゃ駄目なわけじゃないでしょ?」
「……たぶん」
新人種に関する法を、小毬自身よく知らない。樹塚町に居たころに本から得た知識と、トワから聞いた話がすべてだ。飛龍島に来てから新人種の私生活や心境に触れることはあっても、『ヒト』が定めた法律に関しては知識がないも同然だった。
もしかしたら、小毬がこの島にいることは、なんらかの法に触れるのではないか。だとしたら、トワや百合子たちに迷惑がかかるのかもしれない。
「何考え込んでるのよ」
「あ、あのね。私、どうしたらいいかな」
「もう、いちいち気にしてたら寿命が縮まるわよ。大丈夫よ、きっと。心配ごとは、何か起きてから対応すればいいんだから。さ、仕事しましょ。サボっちゃ駄目よ」
百合子に肩を叩かれて、傍にあるミカンの樹へ手を伸ばす。
胸の奥で、じわじわと広がる不安が、小毬を憂鬱な気分にさせた。
不安は的中するものである。
そう小毬が思ったのは、その日の夜中だった。その日は監査についての集会があり、トワは集会へと出かけていた。
女だから、という理由で早めに集会から帰ってきた百合子と、女同士の会話に花を咲かせながら夕食を取っていたときのこと。
玄関の戸が開く音がして、小毬はてっきりトワが集会から帰ってきたのだと思った。
喜び勇んで出迎えた小毬は、憔悴した様子で玄関に立っていた豪理に目を見張る。
「こんばんは。どうしたんですか?」
「夜中にごめんね、ちょっときみに用事が――」
「あら、豪理じゃないの。あんた集会休んだでしょ、何やってんのよ」
やってきた百合子を見て、豪理が目を瞬く。
「百合子もいたのか。ちょっと問題があってね。ほら、僕が案内担当になった調査員、覚えてるだろう?」
「ああ、昼間の。面倒なやつに当たったわねぇ、ご愁傷様」
「あれから、ずっとうるさいんだよ。どうして人間がいるんだ、って。小毬ちゃんに会わせろってそればっかり。もう抑えられないんだ。悪いけど、少しだけ会ってくれないかな」
後半の言葉は、小毬に向けられたものだ。
小毬はすぐに頷けずに、意見を求めるように百合子を見る。百合子は憮然とした表情で、豪理に向かって口を開いた。
「使えないわね」
「……ごめん。僕も断ったんだけど、権力をチラつかせてくるんだよ。実際、調査員の報告内容によって、僕らの今後が決まるだろう?」
「たしか、三年前も調査員の不興を買ったせいで支給される食料が減ったんだっけね」
「そのくらいなら問題ないんだけど、もっと酷いことになったら困るからさ」
「……もっと酷いこと?」
小毬の声は震えていた。
不安がありありと浮かんだその声音に、百合子と豪理が弾かれるように振り返る。
ふと、百合子が微笑んだ。
「豪理の言うことも一理あるから、仕方ないけど行くわよ。大丈夫。私も一緒に行ってあげるから」
頷きながら、小毬は目を伏せた。
百合子はヒトを嫌っている。なのに小毬と一緒にきてくれるという。その気持ちが嬉しかったし、百合子が大丈夫というのだから大丈夫なのだろう。
不安な気持ちを振り払うように、顔をあげる。
「ありがとう、百合子さん」
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