上 下
41 / 106
第二章

十七、

しおりを挟む
 うとうとと半分夢の中にいる心地で、ぼうっと旅行鞄をロッカーから取り出した麻野は、新居崎の「調べてもらえないか」という強い口調で、はっと意識を浮上させた。
 麻野は、今日泊まる手はずになっている旅館の受付に立っていた。すぐ隣に新居崎がおり、麻野の荷物を持ってくれている。夢の世界に片足を突っ込んでいた麻野は、荷物どころか、なんと、寄りかかるようにして新居崎に持たれていた。
 慌てて身体を離して謝ってから、現状を把握するために辺りを見た。受付の着物姿の女性が、電話で何かを問い合わせている。おっとりした口調は、いかにも旅館の女性と言った雰囲気だ。
 やがて、受話器を置いた女性は、眉間に深い皴を刻んだ新居崎に向き合った。
「今はどこもいっばいです、この時期はゲストルームも空きがないみたいで」
「そうですか」
「どうしたんですか? もしかして、部屋が取れてなかったとか」
 だったらどうしよう、と麻野は一気に現実に引き戻された。京都駅で見た長蛇の列。あれは、宿泊場を探す人たちの列だと新居崎に教えてもらった。観光シーズンの京都へ宿泊予約を取らずにくるなんてありえないと思ったが、まさか、自分が宿探しの側になるとは。
 新居崎は麻野を見下ろして、ため息をついた。
「部屋が一つしかないんだ」
「やっぱり、手違いがあったんですね」
「手違いというよりも、わざとだろう。最初から考慮しておくべきだったとはいえ、まさかこんなことをやるとは」
「どういうことですか? あのっ、本当に何が」
 焦りがどんどん募ってきて、挙動不審になる麻野へ新居崎はため息交じりに説明をくれた。
「部屋は一つ。二人部屋だ」
「じゃあ、野宿しなくてもいいんですか!」
 よかった、とほっとしたのもつかの間、同室であるという意味を知って、血の気が引いた。
「や、やっぱり私、どこかほかを探してみます」
「空きはないとたった今聞いただろう」
「じゃあネカフェ、はもっといっぱいか。えっと、野宿します」
 はぁ、と盛大なため息をついた新居崎は、もう麻野を見なかった。さらさらと旅行者の帳簿に必要事項を記載して、鍵を受け取る。旅館の人に案内されるがまま歩き出した新居崎は、麻野の荷物を持ったままだ。
 麻野はなんと声をかけるべきか考えながら、あとをついていく。部屋もまた、静子が画策して同室にしたのだろうか。だとしたら、さすがにやりすぎだ。冗談には済まされない。
 大学では、学生も大人ゆえに男女の関係に関して緩い印象がぬぐえないが、教員と生徒となれば話は別である。教育者と生徒の恋愛は、御法度だ。少なくとも、生徒でいるうちは。
 もし、同じ部屋で大学の准教授と生徒が泊まったなどと大学側に知られれば、最悪、新居崎が懲戒免職になる可能性だってあるのだ。麻野が、冗談では済まされないと考えた理由はそこにある。
 部屋に通されて、丁寧な説明とお茶を煎れてもらい、夕食の時間をきく。案内をしてくれた旅館の方は、優雅な笑みを残して退出した。
「せ、せせせ先生っ、ごめんなさいっ!」
「落ち着け、なぜ謝る。それとも、これから何かされるのか、私は」
 茶をすすり、先ほどとは打って変わって落ち着いている新居崎は、麻野を見ると顔をしかめた。
しおりを挟む

処理中です...