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第二章

二十七、

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 敷かれた布団は、二つくっつけて並べてあった。
 それを離そうかどうか迷ったが、離せば離したで、意識していると思われるかもしれない。結局、新居崎は、布団は動かさないまま、向かって右側の布団に入った。
 縁側からは、カタカタとキーボードを打つ音がする。ふいにそれが止まる。また聞こえる。規則正しい呼吸の音も、静まり返った旅館の一室では、よく聞こえた。稀に、隣の部屋から物音がするが、基本的に防音らしく、かなり静かな夜だ。
 新居崎は、枕に頭を置いたまま、じっと縁側を見た。
 麻野は、今日集めたデータを編集して神田教授に送信した。その返事が来たようで、さらに作業に没頭している。明日の予定は変更し、今日集めた資料のうちの一部をさらに細分化して調べるということだった。
 急な変更にも拘らず、麻野は、明日の予定について下調べをしたいとネットを漁っている。ネットより資料本を読むほうがいいと少し愚痴ってはいたが、根は真面目すぎるほど真面目な麻野は、ひたすら神田教授の求めに答えようとしていた。
 麻野との出会いは最悪だったうえに、衝撃すぎた。
 まさか、あの悪魔の森を全速力で横断してくる者がいるなんて思わなかったのだ。手首を踏まれて、破片で怪我をした。下手をしたら、骨まで折れていたかもしれない。怒り心頭のまま、新居崎は麻野を罵った。准教授だとか、生徒だとか、そんなこと頭から吹っ飛ぶくらいの衝撃だったから、言いたいことを言いまくった。
 そしてそのときのまま、新居崎は今なお、麻野に対して本音で対応している。鬱陶しい部分も多いし、腹が立つことばかりだが、それでも自分を隠さずに言葉を紡げる相手は、新居崎にとって、稀有で貴重な存在だ。
 とっくに忘れていた。
 こんなふうに、飾らずに誰かを過ごす日々なんて。
「んー」
 麻野が、大きく伸びをした。
 完全防備のジャージは肌の露出がほぼないが、風呂場で見た彼女の裸体は実によい形をしていた。腰から太ももにかけての滑らかな曲線は女性的で、胸の形もよく、色も鮮やかで申し分ない。あんな場面でなかったら、反応していただろう。
 また無理をしているな、と麻野を見て思う。
 彼女が頑張りすぎるタイプなのは、アプリでやりとりした時点で気づいた。それを利用して私的な雑用を押し付けたのも事実で、神田教授も彼女を利用していることを知っていた。
 教授らの間で、麻野はある種の有名人だ。爽やかに見えて気難しい神田教授のお気に入りで、あらゆる雑用を任されてもめげない貴重な人材だと。
 変なやつだ、くらいにしか、あのときは思っていなかった。それは事実だ。
 けれど、今、こうしてみる麻野への印象は、あの頃とは違う。今日だって、とても新居崎を気遣っていた。彼女の疲労はそのせいもあるだろう。これまでならば、だからどうした勝手に疲れておけ、の一言で済ませた新居崎だったが、今は、そうは思わない。
 早く眠ればいいのにと思う。
 彼女は十分すぎるほど、役割をはたしている。
 まだ若いゆえに徹夜もいとわないのかもしれないが、無理をしすぎては明日にひびく。
「……このくらいに、しとこ」
 麻野はそう呟いて、パソコンの電源を落とした。
 縁側の電気を消すと、月明かりだけが部屋を淡く発光させる。麻野が布団のほうへ来た瞬間、とっさに目をつぶった。寝たふりをする意味がわからないと自問するが、その答えは見つけたくないような気がして、考えないふりをする。
「よかった。先生、寝たんだ」
 よかった、とはどういうことだ。邪魔だということか。
「私が邪魔だったら、脱衣所で寝ようかと思っちゃった。本当によかった、環境があまり気にならない人で」
 ふざけるな、脱衣所など湿気だらけだろうが。せっかく除湿器があるのに、梅雨のこの季節、あえて湿気へ飛び込む馬鹿がどこにいる。それに、私は環境を気にするタイプだ。繊細なんだ。
 などと、心のなかで言いながら、新居崎は身じろぎもせずに、ごそごそと布団にもぐる麻野の音を聞いた。
 すぐに、寝息が聞こえ始める。
 まさかもう寝たのか、と目をひらくと、ちょこんと口をひらいた麻野が、新居崎のほうを見て眠っていた。
 あどけない表情の寝顔は、驚くほど不細工に見えるのに。
 なのに、なんだかとても――。
 新居崎は、ぐるりと反対側を向いた。
 やめよう。あまり考えると、自分のプライドが傷つく。これは、特別な今日という日が醸したまやかしだ。
――先生って、優しいんですね
 麻野の声が、脳裏に蘇る。
 ふふ、と無意識に浮かべた新居崎の笑顔は、とても優しいものだった。

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