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第二章 第一の殺人

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「意外に力持ちだねぇ」

 シンジが、先生に言った。
 先生は一日のほとんどを部屋にこもって過ごすため、色白で線が細く、華奢な印象を受ける。実際、先生の胸はろっ骨が浮いてみえるほどに痩せていた。
 そんな先生も男性に相違なく、私の分の旅行鞄も肩にかけて、すたすたと傾斜を登っていくのだから、こういうとき、「さすがだなぁ」と思ってしまう。
 普段は我儘で毒舌、他者との関わりが苦手な引きこもり作家な先生なのに、格好いいところもあるのだ。

「限界だといえば、貴様が持ってくれるのか」
「あはは、まさか」
「有益のない雑談は不要。時間の無駄だ」

 ぴしゃりと言い放った先生は、そのあとも話しかけてくるシンジを完全に無視して、私の斜め前を歩いた。
 集団で移動を始めて、十分ほどだろうか。
 一本道ゆえに迷うこともなく、目的の迫田棚邸だろう建物へたどり着いた。
 さすがに、旅行鞄をもって十分も坂を登れば、息が切れるものだ。荷物を持ってもらっている私でさえ肩で息をしているのだから、ほかの招待客たちの疲労は凄まじい。
 ふくよかなタクマなどは、座り込んで全身で呼吸を整えていた。額に凄まじい汗が浮かんでいるのがみえる。
 途中まで先生に絡んでいたシンジも、いつ頃からか無言で歩き続け、今は両手を腰に当てて深呼吸をしていた。

「素晴らしい」

 誰も一言もしゃべらないなか、ふいに言ったのは、先生だった。
 先生の目は、目の前にある西洋館へ向いている。
 海外から移築された建築物だろう。外観は、フランス貴族が所有する別荘を彷彿とさせる。色は白を基調とした、自然に溶け込むような静かな色合いだった。あいにく、雨風にさらされ続けた館は現在、黒染みや伸び放題の蔦に絡まれて、廃屋と呼ぶにふさわしい風体になっているけれど。

「このおどろおどろしさ。まさに、殺人事件が起こりそうだ」
「おい、物騒なこと言ってんじゃねぇよ」

 興奮気味の先生に、シノザキ刑事が言う。だが人様の言葉を聞かない先生は、館の素晴らしさについて、ぶつぶつと独り言を言い始めた。

「げ、なんだこいつ」
「あはは、気にしないでください。先生は推理小説家で、こういった……えっと、珍しい場所が好きなんです。廃屋とか、崖とか、滝とか」
「それ、よく推理ドラマで見る場所だよな」

 全員が動けるまで待ってから、そろって正面の門へ向かった。
 正面の門は開閉した状態で固定された跡があったが、それも数十年前のもののようだ。今では門は錆びつき。固定具などなくても開閉が出来ない状態になっている。
 庭は荒れ果てて森の浸食がすすんでいるものの、レンガやアーチ、人工的に工夫された花壇の囲いも残っていた。
 門をくぐると、それらを眺めながら、私たちはレンガの小道をたどって両開きの玄関へ歩んだ。

「おや、新しいですねぇ」

 シンジがドアを見て漏らした感想は、おそらくここにいる皆も考えたことだった。

「このドアは、ここ最近取り替えたようだな。よほど使い物にならなかったんじゃねぇか」

 シノザキ刑事は大きな手を伸ばして、玄関のベルから垂れる金属の紐を引っ張った。古風なそのベルは、喫茶店のドアについているような、揺らさなければ音が鳴らない原始的仕組みの呼び鈴だった。

「もしかしてここ、電気が通ってないんじゃない?」

 揺れるベルを眺めながら、シンジが誰にともなく呟く。
 シノザキ刑事は何度かベルを鳴らすが、出迎えの様子はなく、仕方なくドアを押してみた。すると、当然のようにドアが奥へ開き、隙間が出来た。
 そのとき、私はつんと鼻の奥に刺激を感じた。
 一種の吐き気を催すような、不快な匂いがしたのだ。ほかの面々を見ると、匂いを感じていないのか、はたまた気にするほどでもないと思っているようで、何かしらの反応をしている者はいなかった。

「とっとと入れ、休みたいんだ」

 それまで黙っていたゼンヤが吐き捨てるように言った。シノザキ刑事は何か言いたげな表情をしたものの、疲れているのは皆同じらしく、大人しくドアを押し広げる。
 その瞬間、

「うわっ」
「ひっ」

 各々声をあげたのは、開いたドアから冷気が溢れてきたためだ。歩いて汗まみれになった身体を包む冷気は、いっそう寒さを煽り、両腕を抱かずにはいられない。

「さ、さ、さむい」

 ガチガチと歯をならしながら、タクマが言った。

「冷房が壊れてるんじゃないか。まるで真冬だよ。リンコちゃん、大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫です。でも、本当に寒いですね」
「――まるで、西洋館を移築したような館だった」

 ふと、先生がまた、独り言を始めた。

「荒れ果てた庭を眺めながら玄関のドアをひらくと、僕は、くだんの幽霊に捕まってしまったような錯覚に陥った。今の時期にはおおよそ似つかわしくない、真冬を彷彿とさせる冷気が僕の身体を包んだのだ」
「先生、それ、新作の小説ですか?」
「既存の小説だ。雛菊蘭丸の『落ち武者島の殺人』を抜粋した」
「あ、そ、それなら、僕も、読んだことある。さ、桜子が、好きで、えっと。そう、そのあと、主人公は目の前にあるサプライズに驚くんだっけ」

 何気なく皆が、正面に視線をやったのは言うまでもない。既存の小説が現状と酷似していたことは、間違いがないのだから。
 ただ冷気が身体を包んだだけならば、小説の一節とたまたま似ていたで済ませることができるが、目の前に広がるエントランスホールの中央には、皆が予想した通り、薄布をすっぽりと被った積荷のようなものがあった。
 先生の身長ほどもある、例えていうのなら、業務用の冷蔵庫のようなものに、ビロード色の布が被せてあるのだ。それは、簡素なエントランスには、似つかわしくない異質なモノだった。
 そのモノさえなければ、内装は意外に綺麗だね、などと他愛もない会話を弾ませることができるのだが。

「誰もいねぇな」

 さっと辺りを見たシノザキ刑事がいう。さすがは警察といったところか、大股で布を被ったモノに近づいた。

「ここに、なんか書いてあるぞ。『ようこそおいでくださいました。皆さまに相応しいおもてなしを用意しております』?」

 シノザキ刑事に続いて、異質なモノに近づいた一同は、遠巻きに眺めるだけで誰も布をめくろうとしない。シノザキ刑事が読み上げたプレートは、ソレのでっぱり部分に立てかけてあった。

「ちなみに、その小説に出てくるサプライズって、どんなものなんだい? 布をとった瞬間、爆発したりしないだろうね」

 シンジが問うと、タクマが応えた。

「し、小説では、布の下には食料が、あ、あったはずだよ」
「ああ、なるほど。だから、冷房をきかせてあるのかな。傷むものでも置いてあるのかもしれないね」

 シンジは合点がいったように頷くと、何気ない動作で、ビロードの布を引っ張った。
 このとき私は、本当に驚いたとき、人間は悲鳴をあげることさえ出来ないのだと知った。
 ビロードの布は、呆気なく床に落ちた。
 そこには、首があった。
 人間の首だ。見開いた目は白く濁り、舌をべろんと突き出した悪鬼のような形相で、ステンレスの四段棚に乗せてある。ステンレスの棚の上から二段目に置いてあるのは、布を引いたときに落とさないための配慮だろう。
 ステンレス棚の三段目には腕と足が、四段目にはおそらく胴体だったものだろう血肉が、密閉された水槽のようなものに押し込められていた。
 私は咄嗟に息を止めて、ハンカチで口と鼻を覆った。
 エントランスへ入るにつれて強くなる匂いの元は、これだったのだ。
 ふいに、蛙が潰れたような音がして、背後を振り返った。タクマが真っ青な顔で嘔吐して、床に膝をついていた。
 吐しゃ物の音だけが響くエントランスで、それぞれが無言で視線を交わす。
 何か起ると予期していたにも関わらず、皆の表情は凍り付いていた。誰も、悪い冗談だの、玩具じゃないかだのと言いださなかったのは、そこにあった死体が、間違いなく本物であるとわかるからだ。
 それほどに、それは生々しい死体だった。

「ふむ。これは死んでいるのか」

 先生が、生首にぬっと顔を近づけて呟いた。
 ぎょっとした一同のなかで、シノザキ刑事が慌てたように先生の腕を引っ張った。

「見りゃわかんだろうが! 近づきすぎだ、離れろ」
「一課の刑事殿がそういうのなら離れよう。だが、前者の、見ればわかるという言葉にはいささか疑念を抱く。見てわかるものが真実ならば、マジックというものは存在しない。奇々怪々な事柄はすべてタネがあり、それによって人々は実際とは違うものの見方をして、快楽を得るのだ。果たして、この生首が本物だという確証があるだろうか。斜めに鏡が差し込んであり、その奥に胴体があったなどというトリックは古今東西で尽くしているが、今回がそれではないと言い切れまい」

 とうとうと語る先生に、シノザキ刑事は表情をヒクつかせた。

「俺が調べてやるよ、待ってろ」

 シノザキ刑事は懐から白い手袋を取り出し、生首をあらゆる角度から目視し、ときにはペンライトを用いて観察する。

「……間違いねぇ、人間の死体だ」
「なるほど。これまで幾度か人間の死体を見てきたが、ここまで処理されたものは初めてだ。犯人は、さぞ骨を折っただろう」
「だからっ、てめぇは近づきすぎなんだよっ。あれか、作家先生が変人だっていう世論は本当なのかっ」
「それとこれとはまったくもって、今は関係がない。そして私は変人だが、それについてきみに迷惑をかけたかね?」
「現在進行形でかけてんだよ!」

 ふと、誰かが私の服の裾を掴んだ。視線を向けると、やはり青い顔をしたゼンヤが震える手で、死体の水槽部分を指さしている。

 そこには、私たちが受け取った招待状の封書と同じものが、立てかけてあった。

「何か、ありますよ」

 私が言う。
 ゼンヤは浅い呼吸を繰り返していたため、声が出ないのだと思ったのだ。
 シノザキ刑事が封書を拾い上げて、中からポストカードサイズの厚紙を取り出した。

「なんて書いてあるんですか?」

 シンジの問う声も、震えている。

「読むぞ」

 前置きをしたシノザキ刑事は、軽い深呼吸ののち、皆に聞こえるよう声を大きくして、文章を読み上げた。

「『彼は、私を殺しました。私を凌辱し、首をしめて殺したのです。顔も殴られました。よって、ここに彼に相応しい罰を与えます。そして、私は私を死へ追いやった者、また、本意不本意に関わらず、犯人の隠匿に加担した者を、許しません。緑川桜子』……以上だ」

 う、と呻いたのは、誰かわからない。だが、それを聞いた皆が、物言えぬ恐怖に支配されたのは言うまでもなかった。
 これは紛れもなく、殺人予告だ。
 それも、連続殺人になるだろうと予想させるに十分な文面だった。

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