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第四章 対 決
解放のくちづけ
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*
命じられるままに、さちは『蓉子のお客様』という方の元へ歩みよった。今のさちには、知らない人だ。蓉子以外の記憶も思い出も消えているのだから。
ひどく荒れたさちの両の手に、客人はそっとふれ、優しくもちあげた。感覚は肌に伝わってくるが、何も感じない。
『さち、おぬしはわしを知らぬだろうが、わしはおぬしをよく知っておる』
ぼんやりと客人の声が聞こえてくる。あやつり人形と化したさちの耳に、しかと届くのは蓉子の声だけだ。そのはずなのに、客人の声はふわりと心に響く。
『さち……おぬしが無事でよかった……』
さちの安否を気遣う、やさしい声だった。見知らぬ客人なのに、なぜだが懐かしい。
「だれ? わたしを知ってるのですか?」
命令されていないのに、聞かずにはいられなかった。自然と口が開いてしまったのだ。
『ああ、知っているとも。おぬしはわしのたったひとりの嫁なのだから。なぁ、さち』
やっと聞こえる程度の声なのに、さちの体と心にゆっくりしみわたっていく。ねっとり絡みつく闇によって冷たく凍りついた体が、少しずつほぐれていくのがわかる。
「嫁? お嫁さん? わたしが、そうなのですか?」
さちが問うと、懐かしい声はゆっくりと答えてくれた。
『そうだ、さち。おぬしはたったひとりでわしのところへ嫁入りしてきたのだそ。なんと度胸のある娘だと感心したものだ。そしてさらに、度肝を抜くことを話して、わしを驚かせたな。思えばあのときから、わしはさちを愛してしまったのかもしれん……』
「あい、して、しまった……」
短いその言葉は、闇に閉じ込められたさちの心を少しずつ開いていく。うごめく蓉子の闇がさちを抑えこもうとするが、しなやかに動き始めた思いが闇をするりとかわしていく。
『さち、おぬしは得意のハイカラ料理を作ってわしたちを喜ばせてくれた。あとで調べたが、さちが作った料理はどれも、西洋の一般的な家庭で作られているものだとか。さちは温かな家族を、だれより欲していたのだろう? だから家庭的な洋食ばかりを作り続けていたのだな……』
優しく語りかける声は、心の奥底に隠されていた、さちの秘めた思いを見抜いていた。
『さちの作る料理に、わしの心はどれだけ癒やされ、励まされたことか。それはおぬしの帰りを待つものたちも同じだぞ。さちの料理と、優しい心に惹かれたのだ。温かな料理こそ、さちのまことの思い。おぬしは愚鈍でも、ぼんくらでもない。だれより強く、こころ優しい娘だ』
九桜院家でのさちは、愚鈍で役立たずのぼんくら娘と言われている。さちの存在が、その仕事が、九桜院家のだれかに喜ばれたことはない。
「わたしの料理が、どなかのお役にたてたのですか……? うれしい……うれしいです……」
熱き思いが、体の奥底を強く揺さぶる。それはさちの、心からのよろこびだった。つき動かされるような感情に、蓉子の闇も、もはや食い止めることができない。
さちの体は自由を求めて、わずかに動き始めている。
『さち。さぁ、わしのところへ帰ってこい。愛する妻よ……』
客人の長い指先がさちの頬にふれ、そっと上にむける。
やや色素のうすい瞳に整った容姿のお客様。呆けたまま見つめていると、優しく微笑み、さちに顔を近づけてきた。
客人のくちびるが、さちの口元にふれる。
熱を押し込むように、強く激しく、くちづけした。
「ぬらりひょん、やめなさいっっ!!!」
悲鳴のごとき、蓉子の命令だった。
「さちにくちづけをするなんて! 忘れものがあるというのは嘘だったのね?」
さちから顔を離したぬらりひょんが、にやりと笑った。
「嘘ではないぞ。わしとさちは夫婦なのに、まだ接吻ひとつしておらんかった。立派に忘れものだろう?」
「なんですってぇぇ~!」
ぬらりひょんの巧みな弁舌に、まんまと乗せられたことに気づいた蓉子は、我を忘れて怒りを爆発させた。
「このわたくしをだますとは、なんたる無礼! しかもよりによって、目の前でさちにくちづけを……。わたくしに見せつけるためだったのね。ああ~っっ! くやしいぃぃぃ!!!」
憤怒の表情で髪をかきむしる蓉子からは、白い耳と九つの尾が見え隠れしている。もはや隠す余裕さえないのだろう。
「おお、ようやく本来の姿に近づいてきたな、九尾の狐よ。そのほうがおぬしにふさわしいぞ」
ぬらりひょんは不敵な笑みを浮かべ、蓉子を挑発する。
「おのれ、ぬらりひょんっ! だが、さちはわたくしの人形だ。さち! こちらに戻ってきなさい。蓉子お姉様の命令よっ!」
さちの体は動かない。蓉子の命令が、届いていないのだ。
怪訝な顔をした蓉子は、さらに大声を発する。
「さち、どうしたの? わたくしの命令なのよ!?」
さちの小柄な体が、ぷるぷると震えだした。恐怖からくるものではない。
「さち、蓉子が呼んでいるぞ。せめて顔を見せてやるといい」
ぬらりひょんはさちの細い肩をつかみ、くるりとその身を反転させた。
「さ、さち? その顔は……!」
さちの顔は、真っ赤になっていた。いや、顔だけではない、首から手足に至るまで、全身が赤く染まっているのだ。
「ぬ、ぬらひょん様が、わたしにくちづけを……はわわわ……わたし、はずかしいぃぃ~」
くちづけを交わしたことが恥ずかしくて嬉しくて、さちは体をぷるぷると震わせている。
さちはとっくに、自我を取り戻していた。ぬらりひょんのくちづけによって。
「さち、おまえ、わたくしの呪縛から逃れたというの? そんなはずはないっ! おまえには幼い時からずっと暗示をかけてきたのだから」
驚愕のあまり、蓉子からは白い耳と九つの尾が完全に出ている。その姿はまさに醜悪な化け物だった。
「西洋のおとぎ話に、こんな話があるそうだ。呪いにより眠りについた姫に、王子がくちづけをして、目覚めさせる。余興としては、最高の見せ物だったと思わんか? この通り、さちは元に戻れたのだからのぅ」
顔と体から湯気が出てきそうなさちは、恥ずかしそうに体をくねらせている。
「わ、わたしが姫だなんて、そんな。もったいないお言葉ですぅ。で、でも、うれしいですぅ~」
くねくねしているさちの頬をひょいと上に向けると、ぬらりひょんはにやりと笑った。
「おお、そんなに嬉しいか。かわゆいのぅ。くちづけから先は、また後日にな。さちは知らぬかもしれんが、まことの夫婦は、この程度では終わらんのだぞ?」
「は、はひぃっ! ま、まだ先があるのでしゅかぁ?」
すでにろれつが回ってないさちを、ぬらりひょんは愛おしそうに抱き寄せた。
「わたくしの目の前で、いちゃつきおてぇ~!! おのれぇぇ!!」
化け物と化した蓉子は、足を床に叩きつけながら、ぬらりひょんとさちのほうへ走ってきた。なりふり構わず攻撃するつもりのようだ。
さちをひょいと肩に抱えあげると、ぬらりひょんはひらりと身をかわし、蓉子の攻撃をよけた。
「おのれ、逃げるつもりかぁ!!」
「おお、逃げるとも。壱郎がさちを待っているからのぅ」
「な、なんだど? 壱郎はわたくしが管理する場所にいるはず」
「おぬしが資金援助している病院だろう? そこならわしの仲間が見つけだし、とっくに壱郎を救いだしておるわ」
「なんだとぉぉ? 九桜院家にすぐ来なかったのは、そのためか!」
「さすがの洞察力よな。その通りよ。ついでに言っておくが、おぬしが管理する事業にも早く対処したほうが良いぞ? 株やら何やら、わしが裏から手を回して買い占めてやったからのぅ。資金は壱郎の隠し財産だがな」
余裕綽々な蓉子であったが、本人が気づかぬうちに、じわりじわりと追いつめられていたのだ。
「蓉子、いや、九尾よ。おぬしは人間を馬鹿にしておったが、人はそれほど愚かではない。さちがなぜ、おぬしの呪縛から逃れられたのかわかるか?」
「おまえの接吻のせいだろう? あんなもののせいで、わたくしの術が破られるとは!」
ぬらりひょんは顔を横に振った。
「くちづけはきっかけにすぎんよ。さちは思い出したのだ。自分が作る料理が、その仕事ぶりと思いやりが、わしや他のものを喜ばせていたことをな。その喜びこそ、生きていく意味だ。さちは生きる希望を自ら見つけだし、歩き始めていたのだ。呪縛を逃れられたのは、さち自身の力よ。わしはほんのすこし、手助けしてやっただけのこと。なぁ、さち。わしのかわゆい嫁御よ」
抱えあげたさちの顔をのぞきこみ、軽く頬ずりをした。
「ぬらりひょん様、そんなおたわむれを。さちははずかしいですぅ」
「おお、そうであった。また後でな」
再びいちゃつき始めたさちとぬらりひょんに、蓉子は地団駄を踏む。
「わたくしに説教でもするつもりかっ!! ああ~っっ! おのれ、おのれ、おのれ、おのれぇぇ!!!」
「おお、こわい、こわい。さちにその醜悪な姿を見せるな」
ぬらりひょんはさちの目を、大きな手でそっと隠した。
「このままでは済まさんぞ、ぬらりひょんっ!! この恨み、必ず晴らしてくれるっ!」
「おお、望むところだ、と言いたいところだが、今はここまでにしようぞ。おぬしとて、すぐに動けるわけではあるまい。あちらやこちらに手を回さねば、無一文になりかねんからの」
「くぅぅぅ~。くやしいが、その通りよ。だがいずれかならず!」
「会いたくはないが、そうなるであろうな」
ぬらりひょんはさちの体を抱え直すと、背中と膝裏に手を回して、横抱きにした。さながら、西洋のおとぎ話の王子と姫のようだ。
「わしの嫁であるさちは、たしかにもらい受けた。では参ろうか? わしの愛する妻よ」
ぬらりひょんの呼びかけに応じ、さちはぬらりひょんにしっかりとしがみついた。
「はい、わたしはぬらりひょん様の妻。どこであろうとお供致します」
「うむ!」
しゅるりと強い風が舞い込み、蓉子が一瞬目を閉じた後には、ぬらりひょんとさちの姿は消えていた。
後に残ったのは、蓉子がさんざん散らかした結果の、荒れた客間だった。
「ああ、くちおしい! あとすこしで、ぬらりひょんもさちも、わたくしの下僕にできたのに。だが、わたくしは絶対にあきらめん、あきらめるものか!」
蓉子の、いや、九尾の狐の飽くなき欲望と執着心。その執着を手放さぬ限り、彼女はどこまでも醜い化け物になっていくことに気づいていなかった。
「うふふふ……必ずまた会いましょう。ぬらりひょん、そしてわたくしの可愛い妹……うふふふ……」
すでに夜となり、闇につつまれた九桜院家で、蓉子は無気味に笑い続けた。
命じられるままに、さちは『蓉子のお客様』という方の元へ歩みよった。今のさちには、知らない人だ。蓉子以外の記憶も思い出も消えているのだから。
ひどく荒れたさちの両の手に、客人はそっとふれ、優しくもちあげた。感覚は肌に伝わってくるが、何も感じない。
『さち、おぬしはわしを知らぬだろうが、わしはおぬしをよく知っておる』
ぼんやりと客人の声が聞こえてくる。あやつり人形と化したさちの耳に、しかと届くのは蓉子の声だけだ。そのはずなのに、客人の声はふわりと心に響く。
『さち……おぬしが無事でよかった……』
さちの安否を気遣う、やさしい声だった。見知らぬ客人なのに、なぜだが懐かしい。
「だれ? わたしを知ってるのですか?」
命令されていないのに、聞かずにはいられなかった。自然と口が開いてしまったのだ。
『ああ、知っているとも。おぬしはわしのたったひとりの嫁なのだから。なぁ、さち』
やっと聞こえる程度の声なのに、さちの体と心にゆっくりしみわたっていく。ねっとり絡みつく闇によって冷たく凍りついた体が、少しずつほぐれていくのがわかる。
「嫁? お嫁さん? わたしが、そうなのですか?」
さちが問うと、懐かしい声はゆっくりと答えてくれた。
『そうだ、さち。おぬしはたったひとりでわしのところへ嫁入りしてきたのだそ。なんと度胸のある娘だと感心したものだ。そしてさらに、度肝を抜くことを話して、わしを驚かせたな。思えばあのときから、わしはさちを愛してしまったのかもしれん……』
「あい、して、しまった……」
短いその言葉は、闇に閉じ込められたさちの心を少しずつ開いていく。うごめく蓉子の闇がさちを抑えこもうとするが、しなやかに動き始めた思いが闇をするりとかわしていく。
『さち、おぬしは得意のハイカラ料理を作ってわしたちを喜ばせてくれた。あとで調べたが、さちが作った料理はどれも、西洋の一般的な家庭で作られているものだとか。さちは温かな家族を、だれより欲していたのだろう? だから家庭的な洋食ばかりを作り続けていたのだな……』
優しく語りかける声は、心の奥底に隠されていた、さちの秘めた思いを見抜いていた。
『さちの作る料理に、わしの心はどれだけ癒やされ、励まされたことか。それはおぬしの帰りを待つものたちも同じだぞ。さちの料理と、優しい心に惹かれたのだ。温かな料理こそ、さちのまことの思い。おぬしは愚鈍でも、ぼんくらでもない。だれより強く、こころ優しい娘だ』
九桜院家でのさちは、愚鈍で役立たずのぼんくら娘と言われている。さちの存在が、その仕事が、九桜院家のだれかに喜ばれたことはない。
「わたしの料理が、どなかのお役にたてたのですか……? うれしい……うれしいです……」
熱き思いが、体の奥底を強く揺さぶる。それはさちの、心からのよろこびだった。つき動かされるような感情に、蓉子の闇も、もはや食い止めることができない。
さちの体は自由を求めて、わずかに動き始めている。
『さち。さぁ、わしのところへ帰ってこい。愛する妻よ……』
客人の長い指先がさちの頬にふれ、そっと上にむける。
やや色素のうすい瞳に整った容姿のお客様。呆けたまま見つめていると、優しく微笑み、さちに顔を近づけてきた。
客人のくちびるが、さちの口元にふれる。
熱を押し込むように、強く激しく、くちづけした。
「ぬらりひょん、やめなさいっっ!!!」
悲鳴のごとき、蓉子の命令だった。
「さちにくちづけをするなんて! 忘れものがあるというのは嘘だったのね?」
さちから顔を離したぬらりひょんが、にやりと笑った。
「嘘ではないぞ。わしとさちは夫婦なのに、まだ接吻ひとつしておらんかった。立派に忘れものだろう?」
「なんですってぇぇ~!」
ぬらりひょんの巧みな弁舌に、まんまと乗せられたことに気づいた蓉子は、我を忘れて怒りを爆発させた。
「このわたくしをだますとは、なんたる無礼! しかもよりによって、目の前でさちにくちづけを……。わたくしに見せつけるためだったのね。ああ~っっ! くやしいぃぃぃ!!!」
憤怒の表情で髪をかきむしる蓉子からは、白い耳と九つの尾が見え隠れしている。もはや隠す余裕さえないのだろう。
「おお、ようやく本来の姿に近づいてきたな、九尾の狐よ。そのほうがおぬしにふさわしいぞ」
ぬらりひょんは不敵な笑みを浮かべ、蓉子を挑発する。
「おのれ、ぬらりひょんっ! だが、さちはわたくしの人形だ。さち! こちらに戻ってきなさい。蓉子お姉様の命令よっ!」
さちの体は動かない。蓉子の命令が、届いていないのだ。
怪訝な顔をした蓉子は、さらに大声を発する。
「さち、どうしたの? わたくしの命令なのよ!?」
さちの小柄な体が、ぷるぷると震えだした。恐怖からくるものではない。
「さち、蓉子が呼んでいるぞ。せめて顔を見せてやるといい」
ぬらりひょんはさちの細い肩をつかみ、くるりとその身を反転させた。
「さ、さち? その顔は……!」
さちの顔は、真っ赤になっていた。いや、顔だけではない、首から手足に至るまで、全身が赤く染まっているのだ。
「ぬ、ぬらひょん様が、わたしにくちづけを……はわわわ……わたし、はずかしいぃぃ~」
くちづけを交わしたことが恥ずかしくて嬉しくて、さちは体をぷるぷると震わせている。
さちはとっくに、自我を取り戻していた。ぬらりひょんのくちづけによって。
「さち、おまえ、わたくしの呪縛から逃れたというの? そんなはずはないっ! おまえには幼い時からずっと暗示をかけてきたのだから」
驚愕のあまり、蓉子からは白い耳と九つの尾が完全に出ている。その姿はまさに醜悪な化け物だった。
「西洋のおとぎ話に、こんな話があるそうだ。呪いにより眠りについた姫に、王子がくちづけをして、目覚めさせる。余興としては、最高の見せ物だったと思わんか? この通り、さちは元に戻れたのだからのぅ」
顔と体から湯気が出てきそうなさちは、恥ずかしそうに体をくねらせている。
「わ、わたしが姫だなんて、そんな。もったいないお言葉ですぅ。で、でも、うれしいですぅ~」
くねくねしているさちの頬をひょいと上に向けると、ぬらりひょんはにやりと笑った。
「おお、そんなに嬉しいか。かわゆいのぅ。くちづけから先は、また後日にな。さちは知らぬかもしれんが、まことの夫婦は、この程度では終わらんのだぞ?」
「は、はひぃっ! ま、まだ先があるのでしゅかぁ?」
すでにろれつが回ってないさちを、ぬらりひょんは愛おしそうに抱き寄せた。
「わたくしの目の前で、いちゃつきおてぇ~!! おのれぇぇ!!」
化け物と化した蓉子は、足を床に叩きつけながら、ぬらりひょんとさちのほうへ走ってきた。なりふり構わず攻撃するつもりのようだ。
さちをひょいと肩に抱えあげると、ぬらりひょんはひらりと身をかわし、蓉子の攻撃をよけた。
「おのれ、逃げるつもりかぁ!!」
「おお、逃げるとも。壱郎がさちを待っているからのぅ」
「な、なんだど? 壱郎はわたくしが管理する場所にいるはず」
「おぬしが資金援助している病院だろう? そこならわしの仲間が見つけだし、とっくに壱郎を救いだしておるわ」
「なんだとぉぉ? 九桜院家にすぐ来なかったのは、そのためか!」
「さすがの洞察力よな。その通りよ。ついでに言っておくが、おぬしが管理する事業にも早く対処したほうが良いぞ? 株やら何やら、わしが裏から手を回して買い占めてやったからのぅ。資金は壱郎の隠し財産だがな」
余裕綽々な蓉子であったが、本人が気づかぬうちに、じわりじわりと追いつめられていたのだ。
「蓉子、いや、九尾よ。おぬしは人間を馬鹿にしておったが、人はそれほど愚かではない。さちがなぜ、おぬしの呪縛から逃れられたのかわかるか?」
「おまえの接吻のせいだろう? あんなもののせいで、わたくしの術が破られるとは!」
ぬらりひょんは顔を横に振った。
「くちづけはきっかけにすぎんよ。さちは思い出したのだ。自分が作る料理が、その仕事ぶりと思いやりが、わしや他のものを喜ばせていたことをな。その喜びこそ、生きていく意味だ。さちは生きる希望を自ら見つけだし、歩き始めていたのだ。呪縛を逃れられたのは、さち自身の力よ。わしはほんのすこし、手助けしてやっただけのこと。なぁ、さち。わしのかわゆい嫁御よ」
抱えあげたさちの顔をのぞきこみ、軽く頬ずりをした。
「ぬらりひょん様、そんなおたわむれを。さちははずかしいですぅ」
「おお、そうであった。また後でな」
再びいちゃつき始めたさちとぬらりひょんに、蓉子は地団駄を踏む。
「わたくしに説教でもするつもりかっ!! ああ~っっ! おのれ、おのれ、おのれ、おのれぇぇ!!!」
「おお、こわい、こわい。さちにその醜悪な姿を見せるな」
ぬらりひょんはさちの目を、大きな手でそっと隠した。
「このままでは済まさんぞ、ぬらりひょんっ!! この恨み、必ず晴らしてくれるっ!」
「おお、望むところだ、と言いたいところだが、今はここまでにしようぞ。おぬしとて、すぐに動けるわけではあるまい。あちらやこちらに手を回さねば、無一文になりかねんからの」
「くぅぅぅ~。くやしいが、その通りよ。だがいずれかならず!」
「会いたくはないが、そうなるであろうな」
ぬらりひょんはさちの体を抱え直すと、背中と膝裏に手を回して、横抱きにした。さながら、西洋のおとぎ話の王子と姫のようだ。
「わしの嫁であるさちは、たしかにもらい受けた。では参ろうか? わしの愛する妻よ」
ぬらりひょんの呼びかけに応じ、さちはぬらりひょんにしっかりとしがみついた。
「はい、わたしはぬらりひょん様の妻。どこであろうとお供致します」
「うむ!」
しゅるりと強い風が舞い込み、蓉子が一瞬目を閉じた後には、ぬらりひょんとさちの姿は消えていた。
後に残ったのは、蓉子がさんざん散らかした結果の、荒れた客間だった。
「ああ、くちおしい! あとすこしで、ぬらりひょんもさちも、わたくしの下僕にできたのに。だが、わたくしは絶対にあきらめん、あきらめるものか!」
蓉子の、いや、九尾の狐の飽くなき欲望と執着心。その執着を手放さぬ限り、彼女はどこまでも醜い化け物になっていくことに気づいていなかった。
「うふふふ……必ずまた会いましょう。ぬらりひょん、そしてわたくしの可愛い妹……うふふふ……」
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